江戸時代を旅する(1) 

 

江戸時代の旅、出立の不安「ガイドブック」で解消

 

 

作家 梶よう子

かじ・ようこ 東京生まれ。作家。フリーライターとして活動する一方で小説を執筆し、2005年「い草の花」で九州さが大衆文学賞。「みとや・お瑛仕入帖」シリーズ、「広重ぶるう」「空を駆ける」など著書多数。

日本橋は旅の起点となった(歌川広重「東海道五十三次之内日本橋」)出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

夏休みシーズンが到来した。コロナ禍への備えと注意は必要だが、旅行を楽しむことができる現代の世の中は有り難い。江戸時代の人々にとって旅は夢だった。作家の梶よう子さんの案内で時間を超えた旅に出ることにしよう。
旅、という言葉に、心躍る方も多いことだろう。日常のしがらみから解放され、初めて見る景観に感動し、その土地の名物に舌鼓を打つ。それは江戸時代の人々も同様――ではなく、現代人とは比べものにならないくらい庶民にとって旅は憧れだった。

朝ぼらけの空の下、国許(くにもと)へ帰る大名の行列がしずしずと橋を渡って来る。

「おうおう、お大名のお通りだ。脇に寄れ」

 

まずは往来手形

日本橋河岸で仕入れた魚を売りに出る振り売りたちが声を張り上げる。繁華な江戸の早朝のひとコマ。この錦絵に描かれた橋が徳川時代に整備された五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の起点となる日本橋だ。

五街道を基にさらに脇街道ができ、社寺参詣を目的とした物見遊山や湯治のためなど、人々の足は日本中にのびていく。それに加え、日本各地の景勝地や名物などが絵入りで紹介された地誌、名所図会の版行が、庶民の旅心を刺激した。けれど、なんといっても爆発的な旅ブームを巻き起こしたのは、やはり十返舎一九著の「東海道中膝栗毛」。神田に住む、弥次郎兵衛と喜多八の珍道中は、享和2年(1802年)から10年以上にわたり人気を博した。物語に触発され「京へ上るぞ」と仕事仲間や隣近所と誘い合い、こぞって長屋を飛び出した。

とはいえ、現代のように新幹線や飛行機のチケットを買い、さあ出立、といかないのがもどかしいところ。まずは、往来手形の取得。発給するのは、自分の菩提寺(時代が下ると緩和され家主、名主でよい)。名前と住所、旅の目的が記されている身分証明書で、旅人は必ず携帯しなければならない。万が一、旅の空で不慮の事故や病に見舞われた場合の連絡先に使用されるからだ。さらに各所に設けられた関所の通行には関所手形も必要とした。長距離の旅は各大名らが治める国境を出入りするため、海外旅行の際のパスポートやビザのようなものだ。

手形の準備が整えば、うきうきの旅支度。しかし初の旅行だと勝手がわからず様々不安が募る。経験者に話を聞くのもよいが、強い味方になったのが「旅行用心集」(文化7年〈1810年〉版行)。所持品から、旅に出た際の注意点、心得などが細かく記されたマニュアル本だ。

天候の見方、足の疲れを癒やすツボ、船酔い、駕籠(かご)酔いを治す方法。旅日記をつけ、絵心があれば写生をし、旅費も細く記すとよい、宿に着いたら避難経路を確認するというアドバイスもある。さらに、道端に煙草(たばこ)の灰は捨てない、深酒は避ける、社寺はもちろん樹木や石に落書きをしないなどの注意喚起は、現代人にとっても耳が痛い。というより、人間、あまり成長していないことに気づかされる。

財布や着替え、身だしなみの道具などは今も昔も変わらない。が、提灯(ちょうちん)、蝋燭(ろうそく)、火打ち道具、印判など当時ならではの必携品以外にも、風呂敷や日記帳、麻綱、鉤(かぎ)などの便利グッズも丁寧に記された安心の一冊だ。

女性はほこりよけに浴衣を羽織った(歌川広重・三代豊国「双筆五十三次 見附」、国立国会図書館蔵)

 

足袋に草鞋ばき

三代豊国らの錦絵に描かれた旅の途中の小休憩。一服つけて、女が饅頭笠(まんじゅうがさ)の縁を押し上げる。振り仰いで眺めるのは雲の流れか、それとも景色か。やはり三代豊国の描く女はさりげない所作も色っぽい。埃(ほこり)よけの浴衣を小袖の上に着て、男は旅羽織を着けている。男の袖からは手甲が、女の足下には脚半が覗く。手甲脚半は、男女ともに付ける旅の必需品だ。日常ではあまり履かない足袋に草鞋(わらじ)ばき。どんなに裕福な者でも旅の装束は華美にしないのが鉄則だったようだ。

「土産を頼むぜ」と、旅人は隣近所や仕事先の仲間たちが設けた宴席で餞別(せんべつ)を受ける。見送り連中が品川まで行くこともざらにあった。旅は当人だけでなく、皆にとってのイベントだったのだ。旅行中はほぼ音信不通になる。もしかしたら今生の別れになるかもしれないと、水盃(みずさかずき)を交わしたというが、ほとんどが酒だった。

東海道には53の宿場があり、江戸・日本橋から京の三条大橋まで、その距離約490キロメートル。基本は徒歩であるから最短でも片道15日かかった。夜は追いはぎや獣が出るため、日没前には宿場に着くように進む。男性は1日10里(約40キロメートル)、女性でも7里歩いたというから、江戸の人々は相当な健脚だった。

旅支度は準備万端。いよいよ出立だ。

 

 

 


江戸時代を旅する(2)

 

江戸時代、信仰名目に団体ツアー 富士登山やお伊勢参り

 

 

作家 梶よう子

富士講は大流行した(葛飾北斎「冨嶽三十六景 諸人登山」、東京富士美術館蔵)

 

「ああ、まったく。富士のお山は眺めているのが一番だ」

「頂きでお鉢巡りをするんだろうが。それ頑張れ、六根清浄、六根清浄」

息も絶え絶えな会話が聞こえてきそうな富士登拝の図。北斎の大ヒット作「冨嶽三十六景」のうちの一枚である。白装束に身を包み、金剛杖(こんごうづえ)を手に頂上を目指す姿が描かれている。富士山は古(いにしえ)から霊山として崇(あが)められていた。

江戸っ子たちは江戸を自慢するとき、城と日本橋、そして富士を挙げる。それだけ、町からよく見え、親しみを抱いていたという証しである。元来、山は神様がおわす聖地として修行、信仰の対象になっており、出羽三山、越中立山なども知られるが、その中でも、やはり富士山は別格だった。

登山ができたのは、山開きの6月1日(旧暦)から2カ月弱。その期間は、登山口である富士吉田口は大変な賑(にぎ)わい。当時、女人禁制だったが、60年に一度巡ってくる庚申(かのえさる)の御縁年の際は、女性も四合五勺まで登ることが許されたという。

 

皆でお金積み立て

奉公先を抜け出した子や犬まで詣でた(歌川広重「伊勢参宮 宮川の渡し)cJAPACK/SEBUN PHOTO/amanaimages

富士山信仰が盛んになったのは、江戸中期。それを語る上で避けて通れないのが富士講だ。江戸八百八講、講中八万人の例えもあるほど流行した。

そもそも講というのは、町内や職人、商人仲間を募り、皆でお金を積み立てる組織で、頼母子講など相互扶助の役割を担うものであったが、信仰する寺社参詣の講もあった。順番やくじ引きで旅に出る者を決め、選ばれた者は、寺社への奉納金を持ち、皆の代参という役目をもって出掛けて行った。富士に行けない女性や子ども、高齢者は各所の神社に造られた山容を模した富士塚に登拝した。が、旅の話から逸(そ)れるので、ひとまずこれぎり。

富士講以外では、伊勢神宮の伊勢講、成田山新勝寺の成田講、高尾山薬王院の高尾講、雨降山大山寺の大山講などが人気を集めた。信仰がベースと考えると、少々重たい印象を受けるが、各々(おのおの)好みを選んで参加するサークルのようなものだ。

江戸期の人々にとって寺社は今よりずっと身近で、祈りや願掛けは日常と深くかかわっていた。尊崇しつつ富士が好き、お伊勢さんファン、新勝寺のお不動さまにキュン、といった感覚。しかも寺社参詣を名目にすれば旅に出やすく、数人から数十人で○○講中御一行と、揃(そろ)いの着物に幟(のぼり)を立てて、賑やかに出立する団体ツアーを敢行した。

さて、富士山と双璧をなすのが、伊勢神宮だ。両者一歩も譲らぬ、大人気のパワースポットだが、当時はお伊勢参りをすることが、一生に一度の大イベント。宝永2年(1705年)4月上旬から5月下旬までの間に、362万人が訪れたという記録が残されている。1日に換算すれば……某テーマパークもびっくり。広重が描いた錦絵は決して大袈裟(おおげさ)な光景ではない。まさに、老若男女がこぞって伊勢を目指してきたのがわかる。

「坊やはお伊勢に行くのかい? 感心だねえ。ご報謝」

年増女が、少年の持つ柄杓(ひしゃく)に銭を入れて、手を合わせる。

「おや、共連れは犬かえ? こちらも感心だ。何か食べ物をあげようね」

竹筒を首に巻いた白犬が女を見上げ、尻尾を振って、「わん」とひと鳴き。

柄杓は伊勢参りに行きます、というシンボルだった。奉公先を黙って飛び出した抜け参りの子どもに銭があろうはずはない。だが、旅費がなくても、柄杓を手にしていれば見知らぬ人が銭を与えてくれた。実は犬も伊勢に詣でたという話がある。信仰心はないだろうから、飼い主の代参だろう。首の竹筒にお札を入れてもらい、持ち帰る。もちろん、犬だけでは伊勢には到底たどり着けない。伊勢詣でかと気づいた旅人がリレー形式で犬を導いたという。柄杓といい、犬の代参といい、なんとおおらかな時代であろう。錦絵の左に、子どもと犬、柄杓もたくさん描かれているので、見つけてほしい。

 

寺社所属ガイドも

旅の主役はむろん旅行者であるが、忘れてならないのが、旅をさらに豊かに彩ってくれるツアーガイドの存在だ。御師(おし)(伊勢ではおんし)と呼ばれ、それぞれ寺社に所属して、参詣者や講の信者のために、現地の案内、祈祷(きとう)、参拝の手引き、宿泊所の世話をした。土産を携え、定期的に各地を巡り、営業もする。現地での御師のもてなしは夢のよう。山海の珍味が並ぶ豪勢な料理にふかふか布団――まさにVIP待遇。裏店(うらだな)住まいの者たちは目を白黒させながらも至福のひと時を味わった。懸命に積み立てた金が一気に飛んでも、一生に一度の贅沢(ぜいたく)と思えば、惜しくはなかったに違いない。

 

 


江戸時代を旅する(3)

 

江戸の世も難所の沙汰は金次第 行く手遮る川に関所

 

 

作家 梶よう子

 

渡す手段によって料金が変わった(三代豊国「大井川往来之図」〈3枚続きのうち左〉、東京都立図書館蔵)

 

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」

馬子唄にうたわれた島田宿(静岡県)と金谷宿(同)の間を流れる大井川は東海道中、屈指の難所。川なら橋を渡ればいいじゃん、は現代人の考え。大井川には橋がなく、渡し舟もない。その上、川幅が広く、雨が降ればたちまち水嵩(みずかさ)が増し、激しい流れとなる暴れ川ゆえに、雨中、雨後は川止め。つまり渡ることが禁止された。3、4日は幸運で、時代は下るが、明治初年には約ひと月弱、川止めになったという記録がある。

その分、島田宿や金谷宿に逗留せねばならないから、旅費は嵩(かさ)むし、商用なら血の気が引く。薩?(さった)峠、宇津谷峠などの険しい峠道は頑張ればやがて越すことが出来るが、大井川は自然の機嫌に左右される難所オブ難所であったのだ。しかも、大井川のような危険な河川では旅行者自身の足で渡ることが許されていなかった。では、どのように川を渡ったのか。

「あちち。こりゃ、姉さん、おいらの肩に灰を落とさねえでくれよ」

「おや、ごめんなさいよ、岸についたら酒手を弾もう」

年増女が男に肩車されながら煙草(たばこ)を一服。その横には男たちが担ぐ輦台(れんだい)に乗った若い娘。三代豊国が描く大井川の光景だ。男たちは川越人足。川を越すには、川会所で川札(切符)を購入し、こうして人足に渡してもらうのだ。1枚が人足ひとり分で肩車。輦台だと、人足4人分と輦台用の台札が必要だった。

 

肩車で2千円

錦絵中の輦台には手すりが2カ所あるので、もう1枚追加。全部で6枚の購入となる。さらに、川札の値段は、水深と川幅によって変動した。股下ほどの浅さから、脇下の深さまで五段階に分かれており、この錦絵だと水は腰より上、「帯上通」にあたる中間の深さになる。帯上通時の川札の値は寛政年間で68文。現在の物価で換算すると、2千円ほど。肩車で2千円――この出費を思うと、別の意味でも難所だったかもしれない。

架橋されなかったのは、幕府防衛のため。というのは江戸初期のこと。前述した通り危険な川なので橋を渡すのが困難だったというのが最大の理由。加えて、橋が架かると川止めがなくなり、失業の憂き目にあう者が増える、宿場が寂れるなどの声も上がっていたらしい。現代の観光地でも耳にしそうな話ではある。

自然の難所に対して、人の作った難所といえば、言わずと知れた各地の関所。警備防衛のため、諸国の大名や幕府が設置したもので、とりわけ厳しいのは、東海道の箱根(神奈川県)と新居(あらい)(静岡県)の関所。ここでは「入り鉄砲出女」を特に警戒した。鉄砲の江戸流入を防ぎ、江戸に住む大名の妻子や母が国許(くにもと)へ勝手に帰らぬように取り締まったのだ。

 

関所では人見女が目を光らせた(歌川広重・三代豊国「双筆五十三次 荒井」、国立国会図書館蔵)

身分証明書に相当する往来手形は男女とも携帯したが、女性は関所手形が必須。女手形とも呼ばれ、身分、年齢、身長、顔の特徴などがこと細かく記され、黒子の位置が異なる、記載がないというだけで通行の許可が下りなかったという。

「ほうほう、男童にしてはずいぶん愛らしいお顔だねぇ。怪しいことだ」

「おいらは男です。手形にもちゃんと記してあります」

「それなら、広げて見せておくれな。今日日、男に化ける娘がいるからねぇ」

関所の人見女(改め婆)は眼鏡まで取り出して、少年の股ぐらを覗(のぞ)き込む。はてさて、この詮議の結果はいかに!はご想像にお任せするとして、関所ではこうしたチェックがあったことを三代豊国の筆が教えてくれる。実際、男装して通行していたことがあったからこその絵であろうから、驚きだ。

 

迂回ルートも

ただし、いつの世も抜け道というものがある。実は磔(はりつけ)の重罪にあたる関所破りも捕縛されることはほとんどなかった。なぜって破られた役人側の落ち度になるからだ。太平の世になり旅行者が増えると、役人や人見女に心付けを渡し、手加減してもらうことも出来た。お役所はこの当時から隠蔽体質で賄賂好きだったのかも。という皮肉はさておき、それでも詮議は嫌、関所手形持ってないし、という場合、両関所を通らぬ迂回ルートが存在していた。まさに抜け道。旅籠や同宿の旅慣れた者に礼金を渡し、教えを乞うた。

「何くの誰、伊勢なら伊勢に参ると申し、通し下され」は、どの関所でも用いた。けれど、迂回ルートに設けられている関所では、魔法の呪文に早変わり。詮議は緩やかに進んで通された。御油(ごゆ)宿(愛知県)か吉田宿(同)から浜松宿(静岡県)、見附宿(同)に至るルートは新居宿を避けたい女性が通ったことから姫街道と呼ばれた。なかなか洒落(しゃれ)たネーミングである。

 


江戸時代を旅する(4)

 

江戸の庶民、乗り物でたまの贅沢 徒歩疲れに駕籠や馬

 

作家 梶よう子

 

 

馬に空きがあれば庶民も利用できた(勝川春山「太々講二見浦美人集」)出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

庶民の旅は徒歩が基本。自分の足が頼りだ。しかし、1日40キロメートルも行けば身体はくたくた、草鞋(わらじ)もすり減り、足も痛む。怪我や体調不良に襲われることもある。そんな際に利用されたのが、駕籠(かご)や馬だ。駕籠は今でいえばタクシー。街道の宿場と宿場を行き来する宿駕籠や問屋駕籠などがあった。

「姐(ねえ)さん方、次の宿まで300文にまけとくよ」

「そいつは高ぇ。おいらたちは、200文で行くよ」

往来で女性の旅人に声を掛ける駕籠屋も多かった。4里(約16キロメートル)でおおよそ600文。安いと飛びつくと、酒手を弾めと凄まれ、結局、法外な支払いになる。そうしたタチの悪い駕籠屋は雲助(くもすけ)と呼ばれ警戒された。安心して駕籠に乗るには泊まった旅籠に頼んでおくのがよいという。

以前、某資料館で山駕籠の展示があった。山駕籠は険しい峠道や坂道を行くため、竹で編んだ籠を担ぎ棒に吊るしただけの超軽量設計。座ってもOKと聞き、ウキウキで乗り込んだが――小柄でも窮屈な上に不安定。籠に薄い敷物だけなのですでにお尻が痛い。担がれれば籠に体重がかかり多少安定するのだろうと思ったが、「えっさほいさ」と掛け声とともに揺れが加わればどうなるか。確実に酔う。当時の旅行マニュアル本「旅行用心集」には、南天の葉を駕籠の中に立て、見つめていれば酔わない。酔ったら、生姜の絞り汁を飲むといい、と記されている。葉を見て気を紛らせる、生姜で胃腸の調子を整える。理に適(かな)っているのかもしれない。

馬は、人と荷物を運ぶのに重宝した。荷物だけ、人だけ、人と荷物を乗せるなど利用の仕方は様々。ただし、問屋場の馬は幕府や大名などの公用に使用されるため、庶民が頼めるのは馬に空きがある時。代金もきちんと定められており、高札場で確認できた。武家が使うより割高だったが、宿場からの戻り馬は交渉次第で値切れた。けれど、乗馬経験など庶民は皆無だから不安もあった。

馬子が馬を引くので、速度は歩くのとほぼ同じでも、相手は生き物。万一馬が暴れても、慌てて飛び降りないで、荷物にまずしがみつくこと、と前述の「旅行用心集」にある。

とはいえ、駕籠も馬もなけなしの銭をはたいている旅人には贅沢(ぜいたく)品。自分の体力や、財布と相談しながらだったようだ。駕籠はむろん1人乗りだが、馬のよさは最高3人までが乗れること。

「母様、お馬が高くて怖いよう」

「これこれ、騒ぐと馬が驚いてしまう。ほらほら景色をご覧よ」

母と子が2人。伊勢参りから二見ヶ浦へ向かう道中だ。春山が描いた錦絵は、まさにその3人乗りの三宝荒神。底板のある木枠を馬体の左右に付け、馬の背にひとり乗る。木枠に入れるのが原則なので、大抵は子ども2人に大人1人となる。三宝荒神とは、仏法僧の三宝を守護し、竃(かまど)に祀(まつ)られる三面六臂の荒神の姿になぞらえた呼称。2人乗りの場合は、二宝荒神と呼び方を変えるちゃっかりさが江戸時代らしい。

駕籠や馬以外では、舟がある。ただし、舟の場合は必要に迫られて乗り込む。東海道には主な舟渡しが6つあった。六郷川(多摩川下流)、馬入川(相模川)、富士川、天竜川、そして今切の渡しと七里の渡しだ。それぞれに渡船場があり、そこで船賃を払って乗船する。今切の渡しは舞坂宿(静岡県)から、浜名湖を横断して新居宿(同)に至るおよそ4キロメートルの旅。実はこの今切はくせ者で、明応7年(1498年)の地震による津波で陸地が流され、浜名湖と遠州灘がつながってしまった場所だ。

現在は浜名大橋が架かっているが、江戸の当時はむろん舟渡し。遠州灘の荒波が打ち寄せ、舟が大層揺れたという。厳しい詮議が行われた新居の関所を避け、迂回ルートを通った女性が多かったのは、この渡し舟に乗りたくなかったことも理由のひとつになっている。

 

東海道には複数の渡しがあった(歌川広重「五十三次名所図会 四十三 桑名 七里の渡船」国立国会図書館蔵)

「おお、あんたも江戸っ子かい? おれは神田の生まれよ」

「おれは湯島だ。通りですれ違っていたかもなぁ。酒だ、酒だ」

「やや、遠くに見えるは、桑名松平様のお城じゃねえか」

袖振り合うも多生の縁、とばかりに、賑(にぎ)やかな会話が聞こえてきそうな広重の描く桑名七里の渡し船。宮宿(愛知県)と桑名宿(三重県)をつなぐ約3時間の船旅だ。歩き疲れた足を休めつつ、見知らぬ者同士のコミュニケーションも長旅の楽しみのひとつだったろう。桑名宿に到着すると、伊勢神宮一の鳥居が迎えてくれる。伊勢詣に向かう旅人は、ここまで辿り着いたことを喜び、更なる旅の無事を祈った。さてさて、東海道もあと十一の宿場を残すのみ。

 


江戸時代を旅する(5)

 

武士もつらいよ 参勤交代、宿の予約に四苦八苦

 

 作家 梶よう子

 

 

武士の旅は大所帯(河鍋暁斎「御上洛東海道 高輪牛ご屋」、国立国会図書館蔵) 「下にぃ下にぃ」

高らかな掛け声に、町人たちが沿道に並び座って頭を深く垂れる。

幕府瓦解の音が響き始めた文久3年(1863年)。毛槍(けやり)を高く掲げて、厳しく進むのは、なんと! 14代将軍家茂の行列。3代将軍家光から約230年ぶりの上洛を描いた「御上洛東海道」は、版元の共同出資の相板で、歌川国貞が音頭を取り、この河鍋暁斎の他、当時の人気絵師16人が参加した162枚に及ぶ揃物だ。錦絵は文化を映す鏡であったが、この頃から報道性も加味されていく。

家茂が京へ上ったのは、攘夷(じょうい)を要求する朝廷との話し合い、公武合体の推進などのため。が、その経緯、背景を綴(つづ)ると旅話が入らなくなってしまうので割愛します。この上洛は総勢3000人。団体旅行にも程がある大人数。幕府も大名も基本は軍組織のため、一種の行軍だったと考えると納得出来るだろう。

徳川の政策である参勤交代は石高によって随行する人数が定められていたが、百万石の加賀前田家では4000人という記録がある。しかし、参勤も帰国も大騒ぎだった。藩士の選抜、それぞれの役割決め、なにより至難の技は宿泊の手配。宿場には専用の本陣と呼ばれる宿があるが、下士は泊まれない。周辺の旅籠(はたご)を借り上げ分散させ、足りない場合には野営もあったという。

当然、荷物も膨大だった。殿様の風呂桶(おけ)、トイレを持参したのは有名だが、漬物石まで運んだ。石によって漬物の味が変わってしまうのだろうか。要は殿様の生活が変わらないよう城が丸ごと移動していたようなもの。藩によっては、半年前から準備に追われた。

ただ、この団体客は宿場であまり歓迎されなかった。酔って騒ぐ、宿の調度品を壊す、物をくすねるなど現代でもありそうだが、宿代や茶代を値切る大名家があった。前出の加賀藩など支出が現在の貨幣価値にして2、3億円。いかに経費節減するか苦心惨憺(さんたん)していたのだ。その代わりにと、白扇に筆を振るった殿様に「これをとらす」と差し出されたら、主人は泣き寝入り。何処(どこ)の藩の殿様からの賜り物と、現在お宝になっていても、実は値切られた証拠の品かもしれない。もちろん、庶民の旅人もいい迷惑だった。宿は満杯、周辺は侍だらけ。休息もままならなかったに違いない。さて、この大名行列、1日に8里(32キロメートル)くらい進んだというから、まさに超高速である。

大名の特殊な団体旅行は別として、武家が個人旅行に出られたかというと、否。病気療養の湯治や慶弔以外は、ほぼ公用であり、庶民のような物見遊山の旅には出られなかった。旗本の場合、友人宅での外泊も上司へ届けたほど。庶民が窮屈な暮らしを強いられたというが、武家は武家で不自由だった。

参勤交代はその時期も経路も幕府によって管理されていたが、五街道のうち中山道は多くの大名家に利用された道。険しい木曽を行くので木曽路とも呼ばれ、69の宿場があった。峠や坂が多く宿場も規模が小さかったものの、川止めなどがなく、予定通りの日程で旅が出来た。

渓斎英泉が描いた諏訪湖の御神渡りの風景。美人画を得意とした英泉が挑んだ木曽街道物だったが、途中で投げ出し、あとを広重が引き継いだ物。とはいえ塩尻峠を行き来する旅人の吐く白い息までが伝わるようで、冷えた空気が遠く富士を望む構図は会心の出来だと思うのだが。なぜ24枚でやめてしまったのかと問いたいくらいだ。

 

中山道は道は険しいが、予定通り旅ができた(渓斎英泉「木曽街道 塩尻嶺諏訪ノ湖水眺望」国立国会図書館蔵)

この塩尻(長野県)は中山道の30番目の宿場。新潟県へつながる千国(ちくに)街道や伊那街道などの脇往還と結ぶ分岐点として栄えた。草津宿(滋賀県)で東海道と合流すると、次はいよいよ大津(同)。江戸から東海道53番目、中山道69番目、最後の宿場だ。京の三条大橋まで、あと3里を残すのみ。

旅人の足は自然と早まる。街道に設けられた松並木で日差しを避け、一里塚を3つ、4つと数えれば、草鞋(わらじ)はぼろぼろ。茶店に寄って、幾度履き替えたか。

奈良茶飯、安倍川餅にとろろ汁。各宿場の名物も堪能した。岡崎宿(愛知県)で両替屋に走る旅人を見かけた時は羨ましかった。両替商同士のネットワークがあるから、持参している為替手形を銭に換えてもらえるのだ。

まあ、路銀が乏しくとも、仲間とともに楽しい旅は出来るのだ。土産話もわんさかある。山あり、川あり、峠あり。雨や風にも見舞われた。人生は旅と言うけれど、旅の苦楽は生きることにも確かに似ている。

つらつら思う内、鴨川に架かる三条大橋が見えてきた。江戸を発(た)って半月。京に到着だ。寺社を飽きるほど巡ったら――帰りは中山道を歩き、信州の善光寺詣(まい)りに行こうじゃないか。

 

 

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