「陰謀論の魔力」に感情を操られてしまいがちな訳

 

「物語」そのものに内在する「副作用」とは何か

 

ベンジャミン・クリッツァー : 批評家

 

 

陰謀論、フェイク・ニュースなど、SNSのような新しいテクノロジーが「ストーリー」を拡散させ、事実と作り話を区別することが困難になりつつある現代。このたび、上梓された『ストーリーが世界を滅ぼす──物語があなたの脳を操作する』で、著者のジョナサン・ゴットシャル氏は、人間にとって大切な財産である「ストーリー」が最大の脅威でもあるのはなぜなのか、を明らかにしている。同書を気鋭の批評家、ベンジャミン・クリッツァー氏がわたしたちの実践できる対処法とともに読み解く。

 

いまや誰もが「物語漬け」

わたしたちは「物語」が大好きだ。配信技術と電子機器が発達したおかげで、漫画や小説などの書物だけでなく映画やアニメなどの映像までもがいつでも観られるようになった現代では、「物語のビッグバン」が起きている。

1年間に制作されて配信・販売されるフィクション作品の数は、数十年前のそれをはるかに上回っている。出社している会社員ですら通勤中や昼休みにお気に入りのドラマをスマホで視聴することのできる時代だ。いまや誰もが物語漬けになっている。そして、わたしたちのほとんどは、この状況を悪く思っていない。

学問や批評の世界では「アメリカ資本で制作されたドラマが世界中に配信されることで欧米的な価値観のプロパガンダが行われている」という議論がなされたり「女性を性的に表現したアニメがはやることで現実の女性差別が悪化する」という批判がされたりすることもある。

だが、物語研究や文芸批評においても、物語が持つ価値やよさのほうが強調されることのほうが大半だ。たとえば、少数人種やLGBTなどのマイノリティーが主要人物として登場するドラマを観ることは、それらの登場人物に対する共感を通じて、実際の社会に存在するマイノリティーに対する偏見や差別意識を是正する効果がある、という研究はよく知られている。

また、近頃の映画の多くは「政治的に正しい価値観」とは何であるかを観客に知らせる教材としての役割も担っている。とくに若い人々は、学校の授業で教えられることよりも、物語のほうにずっと大きな影響を受けているだろう。だが、その結果として身に付くのが人権を重んじて平等を大切にする進歩的な価値観であるのなら、物語に文句を付けるのは野暮なことであるかもしれない。

 

知らず知らずのうちにコントロールされる

しかし、哲学者のジョナサン・ゴットシャルは、物語があふれる現代の状況を危惧している。物語をよいものと悪いものとに分けたうえで、「悪い物語」に含まれる問題を指摘する人は珍しくない。ところが、ゴットシャルが論じるのは「物語」そのものに存在する問題である。『ストーリーが世界を滅ぼす──物語があなたの脳を操作する』では、さまざまな物語が個人としてのわたしたちの思考や感情に影響を与えてわたしたちの行動や価値観を操作していること、そして民主主義や文明に対する脅威ともなっていることが、鮮やかに示されている。

本書における「ストーリー」の定義には、小説や映画などのフィクション作品に限定されない、多くの物事が含まれている。たとえば、バーで飲みながらおもしろいエピソードを友人に語ることも、アフリカの狩猟採集民族の長老が一族の子どもたちを集めて民話を語ることも、いずれもストーリーテリング(物語を語ること)だ。また、事実に基づいたドキュメンタリーやニュース番組も、語り手が現実を構成するさまざまな要素を取捨選択したうえで筋道を付けて物語るものであるから、ストーリーの一種である。わたしたちがSNSに投稿する140字にも満たない文書や1分もかからない動画のなかにも、ストーリーは含まれている。

本書でまず指摘されるのは、ストーリーテリングとはコミュニケーションの一種であるということだ。そして、コミュニケーションの機能とは「他人の心に影響を与えること」である。どんな物語であっても、それを受け取る人の考え方や感じ方、ひいては行動を特定の方向に誘導するという機能が含まれている。ストーリーテリングがうまい人は、人の感情を操作する技術に長けているのだ。逆に言えば、わたしたちが何らかの物語に惹かれるとき、わたしたちは知らず知らずのうちに他人によってコントロールされている。だから、語り手に悪意があるとき、ストーリーはきわめて危険なものとなりうるのだ。

本書の前半で取り上げられるのは、現代の日本に生きるわたしたちには「悪い物語」であることが簡単に理解できるような問題だ。反ユダヤ主義や白人至上主義、カルト宗教、地球平面説や疑似科学、「ヒト型爬虫類が人間社会を裏から支配している」という陰謀論、ロシアなどにより意図的に拡散されるフェイク・ニュースやディープ・フェイク、プロパガンダによって選挙戦を制したアメリカ元大統領、などなど。これらはいずれも政治や社会に深刻な悪影響を与えてポスト・トゥルースの風潮を巻き起こし、人々の生活や生命を実際に脅かしてもいる。

「悪い物語」は表面的には多様であるが、その筋書きはほとんど共通している。これらのストーリーは、『現在の世界は多勢の「悪」によって支配されている』と人々に信じ込ませようとするのだ。そして、もし自分が勇気を出して「悪」に刃向かい、抗議運動を起こしたり真実を布教したり「悪」に対して直接的な攻撃を仕掛けたりすれば、自分は「善」の側に立つことができる。物語の中に入り込んだ人々は、現実世界で行動をしながらも、御伽噺の主人公であるかのような感覚を味わっているのだ。さらに、いちど入り込んだ物語のなかから脱出することは困難である。

とはいえ、善と悪の対立を強調するのは「悪い物語」に限られたことではない。むしろ、漫画や映画のような無害に思われるフィクション作品でも、善人が悪人に立ち向かうストーリーは定番のものだ。物語は、特定の要素が入っていたり一定の形式で語られたりするときに、人々を惹き付けてコントロールする力を増す。「誰かと別の誰かが争って、勝敗が決する」という「社会的対立」が含まれるストーリー、そして「善が勝利して悪が敗北する」という「道徳主義」に基づいたストーリーこそが、わたしたちが抗うのが最も難しい魅力的な物語であるのだ。

 

対抗するための最大の武器は「科学」

本書の後半で強調されるのは、ストーリーが拡散されて影響力を持つためには「善対悪」の二項対立を主軸とする単純なものにならざるをえないから、たとえ正しい意図に基づいた「よい物語」であってもストーリーは副作用を生じさせるという事態だ。

社会で起こっている問題についてストーリーを語ってしまうと、その時点で、問題を生じさせている原因や構造について客観的に理解して適切な対策を取ることからは遠のいてしまう。ストーリーを受け取った人々は問題の背景に「悪人」を見出して、彼らを非難したり糾弾したりすることを、問題解決よりも優先してしまうからだ。また、ドラマを観た視聴者は主人公たちと同じ属性の人に対する共感を増す一方で、悪役に配置された属性の人々に対する憎悪も募らせることになるだろう。

「悪い物語」であろうが「よい物語」であろうがストーリーが社会に悪影響を与えるのだとすれば、まず考えられる対策は、一切の物語を社会から放逐することである。これこそが、古代ギリシアの哲学者プラトンがその著作『国家』のなかで主張したことだ。当時のギリシアにおいては詩人がストーリーテラーの役割を担っていたが、理想国家に詩人が存在する余地はない、とプラトンは主張したのだ。……もっとも、実際には、ストーリーテラーや物語をわたしたちの社会や人生から追放することはできない。人間とは生来的に物語を希求する存在であり、物語を抜きにして人生を過ごすことは不可能だ。だから、詩人を追い出したところで、別の誰かが物語を作成して、必然的に新たなストーリーテラーたちが登場することになる。

したがって、最終的にはプラトンも物語そのものを理想国家から追放することは諦めた。その代わりに彼が提案したのは、理性を極めた哲人王が統制する国家によって、すべての物語が管理・独占されることであった。このプラトンの理想は、現代の中国やロシアなどの権威主義的国家に受け継がれて、テクノロジーの力によって実行に移されているところである……という見方もできる。

もちろん、民主主義社会に生きるわたしたちは「国家による物語の支配」を支持したり許容したりするべきでない。ストーリーの悪影響や副作用に対抗するために民主主義に残された最大の武器とは「科学」である。自然科学にせよ人文科学にせよ、査読や自由な批判という手続きのうえに成り立つ学問的な営みは、どれだけ出来のいいストーリーであっても徹底的に検討したうえでそこに含まれる虚妄を白日の下にさらして、物事についての知識や問題への対処方法を冷静・中立・客観的に検討することを可能にしてくれる。……ただし、学問が的確に機能するためには、学術界に携わる人々の間に多様な価値観や考え方が存在していることが必要とされる。

ゴットシャルが危惧しているのは、アカデミシャンがジェンダーや人種や性的指向などのアイデンティティーの問題をめぐるストーリーに影響を受けているために、誰もが同じようなイデオロギーを持ってしまい、学問が機能不全を起こして大衆からの信頼を失うことだ。

 

意見や判断の根拠をストーリーに置いてはいけない

最後に、個人としてのわたしたちが実践できる対処法を紹介しよう。それは、フィクション作品やドキュメンタリー番組などの物語を鑑賞しても、自分の意見や判断の根拠はストーリーに置かないことだ。

たとえばなにかの映画を観て社会問題に関心を抱くのは結構なことであるが、その問題について意見を主張する前に、(できれば学者によって書かれた)本を何冊か読んでおくべきである。あるいは、たとえ物語に感動したとしても、「この感動は、ストーリーテラーが魅力的な物語を作成したことにより、自分の感情が意図的に操作された結果として起こったものであるのだな」とメタ的に認知する冷めた視点を忘れないようにしよう。そうすれば、「悪い物語」に巻き込まれて自分や他人の人生を台無しにしてしまうことも、「よい物語」の副作用を受けてしまうことも予防できる。

結局のところすべてのストーリーが「感情」を操作するものであるとすれば、他人によって操作された感情を自分自身の「理性」によってさらにコントロールすることで、わたしたちは物語の魔力に対抗することができるのだ。

 

 

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