「頭のいい人」とそうでもない人の決定的な差

 

いきなり考えても決してうまくいかない理由

 

 

柳川 範之 : 東京大学大学院経済学研究科教授

 

誰もが大量の情報を簡単に手に入れられる今、オリジナリティーのある発想力がより強く求められています。

その中において「『頭のよさ』とは習慣である」と主張するのは『東大教授が教える知的に考える練習』の著者、柳川範之・東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授。本書より自らの体験を交えた発想の生み出し方について解説します。

 

いい考えを引き出すには土台が必要

考えるためには、まず材料が必要です。考えるための材料になるのが情報です。しかし、情報を単純に集めるだけでは、すぐにいい考えが生まれるわけではありません。

いい考えを引き出すには、そのための土台を頭の中につくっておくことが大切になります。

よく誤解されているのですが、「情報収集→それをもとに考える」というだけではうまく考えられないのです。実は、情報を見て、そこから初めて考えるのではなく、情報を頭に入れる前に、少し手間暇をかけて、「考えるための土台」をつくっておくことが大切だからです。

これは、「考えること」を「調理をする」ことに例えるならば、「考えるための土台を作る」ことは、「調理道具をそろえておく」ことに相当します。どれだけおいしそうな肉のかたまりがたくさん届いたとしても、それを切る包丁も焼くコンロもなければ、おいしい料理をつくることはできないでしょう。当たり前のことですが、適切な調理道具をそろえておくことは、料理をするうえでの最低条件です。

ところが、「考える」という作業については、この最低限の条件がほとんど考慮されていないのは不思議なことです。あたかも素材をたくさん集めさえすれば料理ができるかのように誤解をして、情報を集めている人が多いのです。しかし、調理道具、つまり「考えるための土台」がそろっていないために、ほとんど調理ができず、きちんと考えることができないのは、もったいないことです。

残念ながら、この「考えるための土台」づくりについては、学校等でも、意識して教えられることがほとんどない気がします。もし、いくら考えることに時間を費やしても、上滑りしてしまうと悩んでいる人がいたら、それは、頭の中に土台がないことが原因の可能性が高いのです。言い換えれば、土台さえしっかりしていれば、成果がどんどんあがるはずです。

それでは、どんな調理道具をそろえればいいのでしょうか。頭の中に「考えるための土台」をつくるというのは、具体的に何をすればいいのでしょうか。

まず必要なことは、発想を変えることです。「情報はそのままでは役に立たない」「調理しなければ使えないんだ」という発想を持つこと。簡単ではありますが、これがいちばん大事な道具です。どんな情報もどんな知識も、そのまま丸のみするのではなく、それを頭の中で加工して初めて、力になってくれる。そういう発想で情報に接することが大切です。

発想を変えるというのは、心のクセを変えるということでもあります。つまり、考えるための土台をつくるというのは、発想のクセを変えていくことです。簡単なことではありますが、実際に実行しようとするとなかなかできなかったりします。しかし、けっして難しいことではないので、続けていけば、きっとできるようになります。

次に必要な「考えるための土台」は、具体的なものを抽象化して捉えるクセをつけることです。情報を抽象化して理解するというのは、考えるプロセスの中においてとても大切です。なぜなら多くの場合、求められるのは、かなり個別的で今までに見たこともない問題の解決策なので、どこかで得た情報をそのまま使えるわけではないからです。

 

ものごとを抽象化して構造を捉えるクセをつける

たくさんの情報を得ていても、それをそのまま解決策にできないとすれば、その情報や知識を応用する形で、解決策を考えていく必要があります。この応用をするためには、得られた情報を抽象化して理解しておくクセをつけるのが有効なのです。

例えば、小学校の算数を考えてみましょう。最初は、みかんの数を数えさせたり、りんごの数を数えさせたりします。次に、みかんとりんごを果物という抽象化された分類に変えて果物は何個あるでしょう?という質問になります。さらには、みかん3個にりんご5個を足して、全部で8個という具体的な計算から、3+5=8という抽象的な形での理解に進んでいきます。

ここまでくれば、足し算の計算は、みかんやりんご、あるいは果物に限ったことではなく、ほかの足し算の応用問題も解けるようになります。それは、果物の数を数えるという行為を、足し算という抽象的な形で理解できているからです。応用力をつけるカギは、抽象化なのです。

そうはいっても、抽象化して理解するのは、容易なことではありません。もしかすると、ここまで読んで、どうしたら抽象化できるのだろう、と途方にくれている読者の方もいるかもしれません。

誤解しないでいただきたいのは、抽象化して理解できるようになることが、考える土台ではないということです。調理器具としてそろえておく必要があるのは、あくまでも、抽象化して理解しようとするクセだけです。日頃から、「ああ、抽象化っていうのは、大事なんだなあ」「単に情報をそのまま受け取るのではだめで、抽象化の工夫が必要なんだなあ」と思うことがポイントなのです。

では、どうやって抽象化するクセを身につけたらいいでしょうか。また、発想の仕方、工夫の仕方は、どうしたらレベルアップしていけるでしょうか。以下では、どのようなスタンスで情報に接すれば、抽象化のクセがつきやすいのかについて、次の3つのステップを踏んで説明していくことにしましょう。それは、

(1)幹をつかむ

(2)共通点を探す

(3)相違点を探す

の3つです。

 

「本質的なところは何か」を探す

〈考える土台をつくる頭の使い方@〉 幹をつかむ

情報を抽象化する、第1の方法は、その情報の大事なところ、本質的なところは何かを探してみることです。情報の枝葉を外して幹の部分をつかまえるといってもいいかもしれません。

それには、「一言で簡単に表現してみる」ことが有効です。

あるいは「人に簡単に伝えるとしたら、何といえばいいだろう」と工夫してみるといいでしょう。情報の本質を理解するには、一言でその情報を表現してみることがとても役に立つと思います。

例えば、政治のニュースを見て、大事だなと思ったとしましょう。あるいは誰かのブログを見ておもしろいなと思ったとしましょう。そうしたら、それがどんな点で大事だと思ったのか、どんなところがおもしろいと思ったのかを、友人や知人に一言で伝えるようにするのです。

もちろん、本当に伝えなくてもかまいません。伝えるつもりになって考えてみる、あるいは書き出してみる。それが、情報の幹をつかむことであり、抽象化の大きな一歩になります。

このように書くと、「どこが重要か、自分にはよくわからないのです」「間違ったところを、大事だととらえてしまわないか心配です」という声がよく返ってきます。しかし、これは正解を見つけないといけないという考え方に縛られている発想です。

自分が大事だと感じることに、正しいも間違っているもないのです。正解などありません。その人自身が、大事だ、興味深いと思うことをピックアップすればいいのです。それによって、その人ならではの思考法が育ってくるのですから。言い換えると、そこはむしろ、独自性があったほうがいいのです。

また、重要だと感じるポイントも、さまざまな側面が考えられます。例えば、ある会社の不祥事がニュースで報道されたとしましょう。その際に、不祥事が生じた原因が重要だと感じる人もいれば、不祥事が明らかになったプロセスが大事だと感じる人もいるかもしれません。あるいは、不祥事の結果生じるリストラや業績悪化の可能性を気にする人がいてもおかしくありません。

このように、1つのニュースや情報に接したときに、どの側面に着目するかは、人によってそれぞれですし、これにも、どの側面が正解というものはありません。ただし、多様な側面に注目するクセをつけることは、よりいい考え方を身につけていくうえで重要なことでしょう。人とは違う考え方をして、新しい方向性を打ち出すには、やはり人とは違う着眼点を持つことは大事なことだからです。

 

見異なるように見えるものでも

〈考える土台をつくる頭の使い方A〉 共通点を探す

情報を抽象化していく、次の大切なステップは、一見異なるように見えるものから、共通点を探し出すクセをつけることです。ベストは、幹の部分について、どこか共通な点がないか探し出せるようになることでしょう。

しかし、最初はなかなか難しいので、共通点は何でもかまいません。例えば、今食べている料理と今使っているカバン、どちらも赤色が使われている、というように何でもいいから共通点を探すクセをつける。そうすることによって、やがて重要なことについても、共通点を取り出せるようになってきます。これが情報を抽象化してまとめておく大切な一歩になります。

これがある程度できてくると、みかんとりんごは違ったものに見えるけれど、果物という点では共通していると整理できるように、そもそもまったく違うように見える情報でも、この点では共通点があると整理できるようになります。これは、情報を抽象化する大きな一歩です。

そして、共通点でつなげられるようになると、異なったジャンルの情報から解決策を得たり、違う分野の情報を例え話に使って説明できるようになったりします。さきほど「考える」というプロセスを「調理」に例えて説明しましたが、これは両者に共通点を見つけているからです。

この能力は頭の良しあしと関係がありません。この頭の使い方がうまい人で、よく見かけるのが、すべての問題を自分の身近な話に置き換えてしゃべる人です。世の中のニュースを見て、すべて自分の近所の話に置き換えてしゃべるような人が、どなたの身近にも1人くらいはいることでしょう。逆にこうしたことを常日頃から意識してみるのも、いいトレーニングになります。

逆にそのような例えを考えること自体が、共通点を探すトレーニングになるという面もあります。料理の話をビジネスに例えたり、人間関係の話に例えてみたりすることで、違うように見えるものに、思わぬ共通点が見つけ出せる場合もあります。

普段から、まったく別に見えるような2つの話題をもとにして、さまざまな共通点を探す練習をしていくと、例えば、芸能の話題から金融のアイデアが出てきたり、逆に金融の話から料理のアイデアが出てきたり、意外な意見や斬新なアイデアを思いつけるようになってくるでしょう。

共通点は、ざっくりとした、場合によっては多少こじつけになってもかまいません。厳密にいうと違うということがあるかもしれませんが、そこは正確さを求めずにトレーニングをすることのほうが大切です。こじつけでもいいから違う話題について共通点を見出せることのほうが、能力として、頭のクセとしては重要ではないかと思います。

 

似たものに違う点を見つけ出す

〈考える土台をつくる頭の使い方B〉 相違点を探す

情報を抽象化して理解するステップとしては、逆の頭の使い方もあります。それは、似たものに違う点を見つけ出すことです。つまり、似ているように見えるけれども本質は違っているのではないか、同じ現象のはずなのに、このあたりで違うのはなぜだろうと、思考をめぐらすことで、抽象化のクセをつけていくやり方です。

例えば、同じような不祥事のニュースが相次いだとしましょう。通常だと、「ああ、また同じような不祥事か」と流してしまいがちです。しかし、そこであえて、少しこだわってみる。どこか違う点がないだろうか、違う点はどのあたりにあるだろうかと、もう少し詳細にニュースを検討してみるのです。違う会社で起きた出来事ならば、詳細に見ていくと違う点がいろいろ出てくるでしょう。

そうしたら次に、そのような違う点があるのに、なぜ同じような不祥事が起きたのかを想像してみます。そのように思考を広げていくことによって、抽象化して考えるクセがついていきます。

大切なのは、同じような情報に接したときに、「ああ似ているな」と思うだけで流さないことです。あえて違いを見つけ出すことがポイントです。

このように抽象化していくにあたっては、比べるという作業がとても有効になります。ただし、現代はさまざまな情報が洪水のように流れてくる時代です。すべての情報について、このように丁寧に対応していたのでは時間がいくらあっても足りないことも事実でしょう。

ここで説明したのは、あくまでも抽象化するクセを身につけるにあたっての、発想の仕方、工夫の仕方にすぎません。これをきちんと実行できるようにする必要はありません。準備段階としては、そのような方向性を意識するだけで十分です。

そのあとで少しずつ、自分が大事な情報だと思うものに、時間をかけて抽象化のクセをつけていけばいいのです。

 

 


 

 

頭のいい人とさほどでもない人を分ける決定打

 

大切なのは化学反応、抽象化する頭の使い方だ

 

 

柳川 範之 : 東京大学大学院経済学研究科教授

 

誰もが大量の情報を簡単に手に入れられる今、オリジナリティーのある発想力がより強く求められています。

ではオリジナリティーとは何でしょうか。『東大教授が教える知的に考える練習』の著者、柳川範之・東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授が本書より解説します。

 

オリジナリティーは完全にゼロからは生まれない

私たちは、オリジナリティーと聞くと、ゼロから考え出すものだと思いがちですが、そうではありません。まずは、従来からあるものを組み合わせたり、さまざまなものを取り入れる段階があります。自分のオリジナリティーを出すのは、そこからどのように変えていくかにかかっているのです。

私が論文を書くときも、そういう発想をしています。一からモデルを組み立てていくことは少なくて、ある問題意識で論文を書きたいと思ったら、経済学におけるさまざまな分野の論文を読みあさるのです。書こうとしているテーマとは違う分野の論文もありますが、それでいいのです。そうすると、「この論文に書かれたモデルは自分が考えている問題意識に使えるかもしれない」、あるいは「このデータ分析の方法は使えるかもしれない」というように結びつくわけです。

すると、そのままでは使えなくても、自分の問題意識に合わせる形でその論文の骨組みやデータを持ってくることは可能です。

論文の形がある程度まとまってくると、今度は追加で分析するために、何か良いアイデアはないかと、またいろいろな論文を読みあさります。そうすると、「この話は少しくっつけると面白いかもしれない」ということが出てきて、論文の幅が広がっていく、というように進んでいきます。

もちろん、これは他人の表現を真似るという意味ではありません。そもそも、言葉というのは私たちが自由に発明するたぐいのものではなく、誰もが共通して認識できるものでなくてはなりません。印象的な表現や斬新なコピーもすべて、すでにあるものをどう組み合わせるかにつきるのです。

そう考えると、完全にオリジナルな言葉や表現というものはないとわかります。

例えば、アインシュタインにしても、ピカソにしても、独創的で天才だという扱われ方をしていますが、けっしてものごとをゼロからつくりあげたわけではありません。頭のトレーニングをきちんとこなすことができれば、誰でも思いがけないものをつくり出すことが可能なのです。

とくに、これだけ情報が流れている現代では、新しいものをつくり出すベースになる情報は、世の中に満ちあふれています。新しい組み合わせを見つけ出せるチャンスは広がっているのです。

 

抽象化する力を高めて、頭の中で化学反応を起こす

それでは、新しい組み合わせは、ただ組み合わせてみればよいのでしょうか。

組み合わせる、くっつけるといっても、単に別々のものをくっつけてみるだけでは、新たな発見や進展は見えてきそうにありません。大事なのは、そこで化学反応を起こすことです。

では、化学反応を起こすにはどうすればよいのでしょうか。

そこで大切になるのが、抽象化する頭の使い方です。この抽象化の力を高めて、まったく異なっているように見える情報を結びつけていくことが有効になります。

そのためにどんな頭の使い方をすればよいのか具体的に考えてみましょう。

歴史の事例を見ていくと、気がはやって不確かな情報に飛びついた戦国武将が、重要な戦いに負けたというような話が出てきます。これを現代の自分の置かれた状況への教訓にするには、このエピソードを簡単な言葉で表して、話を抽象化して、頭の中に入れておくことが有効です。これは、基本的には思考の土台をつくるために、情報を抽象化する作業ですが、さらに発展させていくことを考えてみましょう。

このエピソードには、もともとさまざまなデータが詰まっています。その戦国武将の名前はもちろんのこと、相手の武将の名前、戦いのあった日時や場所、不確かな情報とは何か、どれほどの負けっぷりだったのか、等々です。

もし、このエピソードを自分のビジネス上での判断に役立てようとすると、このエピソードをそのまま使っても意味がありません。そこで、抽象化が必要になります。

当たり前ですが、武将の名前は誰でもよく、そもそも武将である必要もありません。日付も場所も不要です。そして最終的に、「トップが、あやふやな情報をもとに早まった決定をするのは失敗のもと」という骨組みだけの情報に置き換わるわけです。この作業が抽象化であり、情報の骨組み化です

そのあとで、今度はこの骨組みの情報に、私たちの身近なデータを肉付けしていくのが具体化という作業です。例えば、抽象的な「トップ」という表現を、「社長」あるいは具体的な固有名詞の「○○代表取締役」に置き換えたり、「あやふやな情報」の部分に具体的な情報の内容を当てはめます。もちろん、もっと具体的なデータを加えてもいいでしょう。

こうすることで、戦国時代のエピソードが現代の教訓となるわけです。

歴史の本を読んで現代に生かそうというとき、私たちは意識するしないにかかわらず、こうした作業をしているのです。抽象化では、固有名詞を普通名詞に変え、細かいデータの部分をカットしたのち、普遍性のあるメッセージだけの骨組みにします。具体化では、逆に普通名詞を固有名詞に変え、具体的なデータを当てはめていくということをしていくわけです。

歴史を勉強していくときに、織田信長がいつどうした、豊臣秀吉が何をしたという事実を頭に入れるだけでは、それは単なる知識にすぎません。そこからは、自分の悩みに対する示唆は得られないのです。

歴史を単なる知識に終わらせるのではなく、そこから何かを汲み取ろうとしている人は、無意識のうちに先ほどのような頭の使い方を行っています。そして、それを自分のことに置き換えたうえで、例えば「あの豊臣秀吉も自分と同じようなところで悩んでいたり工夫をしたりしていたのだろう」と共感を覚えたり教訓にしたりします。

これは実は、抽象化した情報を、具体化させたり自分に置き換えたりする工夫をしていることを意味しています。

 

異分野に転換させる頭の使い方を意識する

このように、考える力を高めていくには、「具体」と「抽象」の双方向のトレーニングが大事です。これは、たとえるとジュースの濃縮と還元に当たります。

「具体→抽象」というのは、絞ったジュースをいったん濃縮すること。そして、「抽象→具体」というのは、また水分で薄めて還元することに当たります。この2つの作業を繰り返すことが、思考を高めていくには欠かせないのです。

世の中のニュースを自分の身近な世界に当てはめたり、自分に引きつけて考えるという行為は、こうしたことを頭の中で行っているはずです。それを無意識の習慣にできるところまで徹底できると大きな武器になります。

もちろん、同じように抽象から具体に進めて理解するのでも、経済学の抽象的な理論を経済や経営という同じ分野の具体的な問題に当てはめるだけでなく、もうワンステップ展開して難易度を上げ、経済学以外の異分野に転換させる頭の使い方を意識してみるといいトレーニングになると思います。

「具体」と「抽象」の双方向のトレーニングが身についてくると、どんな分野の情報が入ってきても、ほかに転換して応用できるようになります。

 

 


 

 

頭のいい人と平凡な人で違う「頭の使い方」の差

 

自分の周りに置き換えると本質が同じと気づく

 

柳川 範之 : 東京大学大学院経済学研究科教授

 

 

誰もが大量の情報を簡単に手に入れられる今、オリジナリティーのある発想力がより強く求められています。

では、オリジナリティーのある発想力とはいったい何でしょうか??『東大教授が教える知的に考える練習』の著者、柳川範之・東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授が本書より解説します。

 

絶えず自分の問題に置き換える訓練をする

情報をうまく使うためには、絶えず意識して、自分の問題に置き換えていく訓練が有効です。
ある情報を自分の問題に置き換えてみる頭の使い方は、話が上手な人の頭の使い方に似ています。話が上手な人というのは、相手の話の要点を的確につかみ、自分に関する似た話をして場を盛り上げていきます。他人の話を自分の話にして、自分のペースに巻き込んでしまうわけです。無意識に抽象化と具体化ができているのです。

情報を自分のものにしていくには、そうした頭の使い方が必要です。自分に関心があることがらはもちろん、自分の問題とは無関係のように見える情報も、どんどん自分の話に置き換えてみるのです。

例えば、テレビ番組で、ある人の失敗談が放映されているとしたら、「自分も似たような経験をしたなあ」と思うのでもいいですし、逆に「自分はそういうこととは正反対のことをしているな」と気がつくだけでもいいのです。あるいは、「自分だったらそういうときにどうするのか」を考えてもいいでしょう。どんなことでもいいので、自分に置き換えて考えるクセをつけるのです。これが、情報を自分のものにしていくプロセスです。

そうやって情報を自分のものにするクセをつけておくと、情報に含まれているさまざまなエピソードを、人生の教師にしたり反面教師にしたりできます。

絶えず自分の問題に置き換えて考えていると、どんな情報でも役立てることができるようになってきます。

例えば、広告や宣伝の効果的な方法を書いたビジネス書を読むと、広報の仕事をしている人に役に立つのは当然ですが、うまい頭の使い方ができている人ならば、まったく関係のない接客業やクリエイターのような仕事にも役立てることができるのです。

突拍子もないと思われるかもしれませんが、そういうことは結構あるものです。

なぜなら、問題の本質というのは似ていることが多いからです。

以前、私のほかに生物学や物理学など、異分野の研究者が集まって、自分たちが直面している問題についてプレゼンをし合うという集まりがありました。すると、分野は違っても、問題の本質は結構似たところにあるのだなということに気づきました。経済学と生物学は、当然ながらまったく違うものですが、経済学で悩んでいる問題と生物学で悩んでいる問題は、驚くほど構造が同じといってよいのです。

 

個々の動きをとらえられないという本質は同じ

生物学はどんどん深掘りしていくと、生物の中にある分子の動きが問題になるのですが、個々の分子の動きはきちんとつかまえることができず、ぼんやりとしかわからないそうなのです。

実は、その構造というのは、経済学において、社会の中で人々が動いている様子を把握しようとするときに似ています。個々の人がどのように動いているかは、やはり完璧な情報としては追うことができず、社会のトータルとして動きを把握するしかありません。

そのレベルで考えると、社会と個人の間の関係と、生物と分子の間の関係とが、まったく同一とはいわないまでも、似たような構造になっていて、研究者としては似たような悩みを持っていることがわかってきます。

逆にいうと、生物学の本を読むことで、それが経済学の理解や経営の問題に役に立つ面があり得るということです。問題の本質を理解することができれば、つまり問題の抽象的な意味合いや構造を理解することができれば、違う分野の情報であっても、自分のテーマを深掘りするのに役立てることが可能なのです。

たくさんの情報を頭の中に流していると、前に見た情報とは矛盾した情報が見つかることもあります。

例えば、いろいろな本を読んでいたら、あせって失敗するという話と、のんびりしていたら失敗するという2つの矛盾した話が出てきたとします。そうすると「この違いはどこから来ているのだろう」という、別の「なぜ?」が生まれてくるわけです。また、さらに別の情報に当たると、「気がはやったおかげで成功した」「決断を遅らせたのがよかった」という話も見つかるかもしれません。

情報同士が矛盾しているように見えたり、原因がよくわからなかったりするかもしれませんが、新しい情報が見つかるたびに、「では、どういうときに決断を急ぐべきなのか?」「時流に遅れたはずの会社が、なぜ最終的に勝者となったのか?」というように、新しく問題意識を追加していくことが重要なステップでしょう。

 

1つの答えが出るたび新しい問題意識が生まれる

自分なりの解決策を考え出したとしても、たいていの場合はそこで終わらないのです。問題意識に対する部分的な解決策がもたらされると同時に、新しい問題意識(問いかけ)もまた生まれてきます。ときには、せっかく大量の情報を頭の中で熟成させてきたのに、解決策がほとんど見つからず、新しい問題意識しか生じない場合もあるのです。

さらに、新しく生まれた問題意識に対して別の情報が入ってくると、再び新しい問題意識と新しい解決策に分かれていきます。つまり、考えるという行為は、こうした繰り返しがずっと続いていくことをイメージするといいかもしれません。

このように、1つの答えが出るたびに、新しい問題意識が生まれるのですから、考えることに終わりはないのです。

また、解決策と思っていたら、実はそれがうまくいかなかったということもあるので、その場合はまた別の問題意識が生まれます。

難しい問題であればあるほど、100%の解決策は簡単には見つかりません。

結局は問題意識が頭の中で変容しながら、進んでいくことになります。それでも、良い情報を取り入れてよく考えることによって、自分なりの解決策が少しずつ導き出され、問題意識はより高度なものに進化していくのです。

場合によっては、広がりのある大きな問題意識に成長するかもしれませんし、逆に解決していく部分が多ければ細部の問題意識に収束していくかもしれません。いずれにしても、質が変わっていくわけです。

 

考えることに終わりはない

私にとっては、だからこそ考えることがおもしろいと思うのです。

例えば、料理をつくったりコーヒーを淹れたりすることを考えてみてください。そこには、正解というものはありませんし、明確なゴールもありません。

同じ料理人が毎日同じ料理をつくっていて、「今日はよくできた、これは満足だ」ということはあっても、「今日の料理でとうとう正解に達した」ということはないと思います。

料理の喜びは、毎日少しずつ改善していき、自分なりに少しずつ良いものができたというところにあるのだと思います。その点はプロの料理人だけでなく、料理を趣味にする人でも同じです。試行錯誤しながら少しずつ向上していくことに、ある種の楽しみを見いだすのです。

考える楽しみは、これと同じだと思うのです。確固とした正解を求めるのではなく、情報を頭の中で整理しながら、問題意識を少しずつ変容させて深めていき、進歩させていくプロセス自体に楽しみがあるのです。

考えた結果、新しいアイデアが出てきたり、自分なりに理解できたと思えれば、誰しも満足感やワクワク感を覚えることでしょう。たとえ問題に正解がなくても、料理人と同じく、そこに楽しみを見いだすことができると思います。

おもしろいと思える方向に頭を使っていけば、それがさらに考えることにつながり、能力も身についていくという、良い循環ができてきます。そもそも、正解は誰にもわからないのです。行動した結果、また自分なりにそこから問いかけを発して、より良い方向に向かうことが大切なのです。

考えることはけっしてつらいことでも小難しいことでもなく、楽しいことなのです。

 

 



 

 

「頭の悪い人だから独学で身に付かない」の勘違い

 

読んでもわからない教本だったら替えてしまおう

 

柳川 範之 : 東京大学大学院経済学研究科教授

 

 

何かを新たに独学で身に着けるのは難しいもの。三日坊主で終わってしまったという経験は、多くの人にあるでしょう。ではどうやれば学べるのか。高校に行かず大学は通信制、独学で東大経済学部教授になった柳川範之氏の著書『東大教授が教える独学勉強法』を一部抜粋、再構成してお届けします。

 

自分の理解に合った教材を選べる

私は高校から大学の独学時代、参考書やテキストはいきなり1冊には絞らず、必ず何冊か目を通すようにしていました。なぜ何冊か読んだほうがいいかというと、理解のパターンには相性があって、この説明の仕方だとわからないけれど、別の説明の仕方をしてもらうとわかるということがしばしばあるからです。

これは頭の良し悪しとはまったく関係ありません。みんなが良いと思うテキストが良いとも限らない。結局、理解の仕方は、人によってパターンの違いがあって、それは上下の違い、良し悪しとはまったく別で、バラエティーとして違いがあるということです。

例えば、自分の理解のパターンにうまくはまった先生にあたると、すぐに理解できて「ああ、よくわかった」と思うのですが、そうでないとさっぱりわからないときがあります。それでも、教室にいるほかの人が、うなずいていたりすると、「あれ、自分の頭が悪いのかな」と思い込んでしまうことがあります。

でも、それは実は大間違いです。みんなに合う説明の仕方と、自分に合う説明の仕方が違うだけという場合が往々にしてあるからです。

ですから、何冊も読んでみて自分に合うものを探していくのがいいのです。何冊か本を読んでみると、どれが自分に合うものかも何となくわかってきます。

私も経済学を最初に勉強したときがそうでした。当時シンガポールで慶応大学の通信教育を受けていたのですが、経済学の勉強をするにあたり、最初に読んだ本が、1ページ目からさっぱりわからなかったのです。頑張って読み進めてみたのですが、まったく理解が進まない。最後まで読んでも、何が言いたかったのかほとんどわからないという状態でした。「これは本当に困ったことになった」というのが当時の実感でした。経済学に興味を持つどころか、正反対の体験でした。

それで何をしたかというと、別のテキストを探しに行きました。とはいっても、当時はネット書店などありませんでしたし、シンガポールの書店では、日本語のテキストなど置いていませんでした。しかたがないのでまずは英語の本を買いに行くことにしたのです。

とはいえ、一応海外にいましたが、英語のテキストでいきなり勉強するというのは初めての経験だったので、かなり不安いっぱいで読みはじめたのです。ところが、予想に反してわかりがよかったのです。実はそのとき選んだ本は名著のテキストで、結果的にとても良い本を選んでいたことがあとでわかりました。

でも、必ずしも初心者向けではないし、何より英語でしたから、最初に学習するのに、すすめられるような本ではなかったのです。でも、それが自分には合っていた。もし最初の1冊だけ読んで、「経済学はわからない」と思ってしまっていたら、今の私はいなかったんだろうと思います。

 

なかなか理解できないならテキストを替えよう

だから、1冊読んだだけで、つまらないとか、わからないといった結論を出してしまって、意味なく自信をなくしたり、自分はだめだと思ったりするというのは、とてももったいない話だと思います。

大教室の授業ではカリキュラムもテキストも自分で選ぶことは難しいですが、独学の場合は、いくらでも自分の理解のパターンに合う参考書を探す自由があります。読んでもなかなか理解できない場合には、テキストをどんどん替えてみましょう。

こうしたことを繰り返していくと、徐々に「自分はこういう説明をされると納得できる」という自分の理解のパターンもわかってきます。そこまでくれば、勉強のコツがつかめたといってよいでしょう。

理解のスピードやパターンは人それぞれだという前提で勉強すれば、無用な劣等感に陥ることもありません。また、独学をはじめるにあたって、そういうことを認識しておけば、同じ試行錯誤であっても、先行きの見通しがかなり違ってくるはずです。

「能力のある人は、どの本を読んでもわかる。能力のない人はどんな本を読んでもだめだ」――誰もがそう思いがちですが、それは間違いです。ぜひ自分の理解のパターンに合った本に出合うために、自分なりに探してみる試行錯誤をしてほしいと思います。

 

すぐ人に聞けないから、自分で考えるクセがつく

独学だから、自分で好きなようにペースを決められたというのは、たぶん自分としてはとても楽でしたし、よかったのだと思います。さらに言えば、その結果として、すぐに人に聞かないでまず自分で考える、というクセがつくことにもなりました。

学校だと、決まったカリキュラムのペースに合わせて、進まなくてはならず、そのペースに沿って理解していかなければなりません。ですから、自分でじっくり考えたり悩んだりする余裕はなくて、わからないところはさっさと誰かに聞いて解決していかないと困ってしまいます。

けれども、自分のペースでいいとなると、自分で考える時間的な余裕が出てきます。落ち着いて考えてみる、ということができるようになるわけです。

ただ、じっくり考えたからといって、わからない場合もあります。どうしてもわからないことが出てきた場合に、もう1日頑張るか、それともそこであきらめて誰かに聞くか、あるいは別のことをやるか、という選択をする必要があります。この選択を自分で決めなくてはいけないのが、少し独学の難しいところかもしれません。

例えば、書いてあることの意味がよくわからなかったり、問題が解けなかったりすると、私はだいたい飛ばして先に進んでしまうのですが、それでもあまり簡単に飛ばしていると、何もわからなくなります。そこで、1日考えてわからなかったら先に進むというくらいに、選択のルールを決めたりします。本当は、大事なところは時間をかけるという形にするべきなのですが、初学者にはどこが重要かはなかなかわかりませんから、このような単純なルールでよいと思います。

そうはいっても、まだ高校までの勉強というのは、参考書も問題集も豊富にありました。大事なところは色が変わっていたり、要点がまとめられたりしていたので、人に聞かないとわからないということは少なかったように思います。

大変だったのは、大学の通信教育からでした。例えば教養課程の哲学などは、分厚いテキストが送られてきて、(当然ですが)太字もなければラインも引かれていないのです。かなり以前に書かれた古くて難解で、ややそっけないテキストでした。独学でどうやって大学の通信教育の科目試験に合格できるのだろうと、最初のうちはずいぶん悩みました。

テキストしかない、要点も重点もわからないという厳しい状況の中で、試験に合格しなければならない。今から思うと、そこで、うまく要点をつかむ工夫を考えたり、自分なりのテキストの読み方を試行錯誤しながら身につけていったように思います。

また、それとほぼ並行してはじめた会計士の勉強も似たようなものでした。財務諸表論といった専門書や解説書のような本を何冊か買ってシンガポールに持って行ったのですが、入試の参考書と違って、どこにも赤ラインなど引いてありませんし、コラムのようなものもありません。何のメリハリもなく、(これも今から思うと当たり前なのですが)ただ淡々と文章が続いていくだけの本を見て茫然とした記憶があります。

手取り足取り教えてくれるような高校の参考書とは、まったく違っていたからです。会計士には論述試験があるのですが、「この本に書かれたことを、どうやって読み進めて、どんなふうに消化していけば問題を解けるようになるんだろう」と途方に暮れたことを覚えています。

そこをどう切り抜けたかといえば、結局のところ、自分で考えて、自分でどこが重要かを判断していくしかないと割り切って、自分の頭で考えるクセをつけていったのだと思います。

人にすぐには聞けない環境で、こうした試行錯誤の過程を経て、自分なりに考えるクセも身についていったように思います。その経験は今でもとても役に立っています。

 

独学に向く人、向かない人

私が、高校の勉強から大学の通信教育まで独学でやってきたという話をすると、たいていの人は「さぞかし、自分をきちんと律することができて、意志も強かったのでしょう」と感心してくれます。

そうした面がまったくないとは言いませんが、私は謙遜抜きで結構なまけ者なのです。なるべくなら楽をして過ごしたいという性格なので、今から考えてみると最初に立てた目標をほとんど達していません。例えば、取り組んでいた問題集にしても、2、3割しか終えていなかったように記憶しています。

むしろ、そのくらいのいい加減さだったから、長い期間を独学で通すことができたのでしょう。

多くの人には、完璧主義者でないと独学には向いていないというイメージがあるかもしれませんが、実際はむしろ逆です。独学を続けるには、少しいい加減なくらいの気持ちのほうがうまくいきます。テーマや目標もあまり無理して明確にする必要はありません。すでに「これをやりたい」ということが決まっている資格の勉強なら別ですが、そうでなければ、無理して決めてしまうとかえって自分の可能性を縛ってしまうことになります。

 

実際にはじめてみれば、いろいろな道が見えてくる

これは卒業論文や修士論文を書く際にもよく起きることです。最初にテーマを一応決めさせるのですが、それが途中でかなり変わっていくことが珍しくありません。実際にやってみると、思った通りにはいかないので、だんだんテーマが変わっていき、できあがりはまったく違ってくるものなのです。

そもそも論文を書くというのは、それまで誰も書いたことがないことをやるので、やってみないことには、先にどんな道が待っているかもわかりません。行ってみたらもしかすると、行き止まりかもしれません。

ですから、最初にテーマを決めてとりあえず走り出しはするのですが、道がなかったら臨機応変にすぐ変えていくことが大切です。最初に立てたテーマにこだわりすぎると、たいていうまくいきません。「絶対に最初決めた場所に行くんだ」といって無理に進もうとすると、山を切り崩さないと前に進めないような状況に陥ってしまいます。

 

論文執筆に限らず、一般的な独学もまったく同じことです。実際にはじめてみれば、だんだんと思いもかけなかったいろいろな道が見えてくることでしょう。それに応じて臨機応変に道を選びながら勉強するというのでかまわないのです。いや、むしろそうでないとうまくいかないと思います。

そう考えると、完璧主義でないほうがむしろ独学には向いていることがおわかりでしょう。完璧主義だと初志貫徹しようとして壁に当たるか、やむなく方針をころころ変えて自責の念にかられるかのどちらかにならざるをえないからです。

ですから、どうぞ気楽な気持ちで独学に取り組んでいただければと思うのです。

 

 


 

 

本を読み「ものにする人」と身につかない人の大差

 

「独学」を三日坊主で終わらせないために必要な心得

 

 

柳川 範之 : 東京大学大学院経済学研究科教授

 

独学の場合、いきなり勉強をしても、実はなかなか続きません。思い立って新しい分野の勉強をはじめたけれども、三日坊主で終わってしまったという経験は、多くの人にあるでしょう。

ではどうやれば学べるのか。高校に行かず大学は通信制、独学で東大経済学部教授になった柳川範之氏の著書『東大教授が教える独学勉強法』を一部抜粋、再構成してお届けします。

 

いきなり勉強してはいけない

独学に限ったことではないのですが、「さあ勉強をはじめよう」というときには、どうしても高い目標を掲げがちになります。

とくに独学のイメージというと、ねじりハチマキをして、しかめ面をしながら本を読み、壁には目標を書いた紙が何枚も貼ってある。そんな光景を思い浮かべるかもしれません。

「この分厚い本を1冊読み通す」「3カ月の間にここまで理解できるようにする」といった具合です。これは、おすすめできません。最初から意気込みすぎたり、目標を高く持ってしまったりすると、必ず失敗します。それは、新年の抱負と同じようなことです。いわば、独学は長距離走やマラソンのようなものです。いきなり最初から全速力で走ったら、すぐにバテてしまいます。長い時間を走り通すには、しっかりとした準備運動や助走期間が必要なのです。

まずは、自分の理解のパターンや無理のないペースを探すために、時間をかけていろいろと試行錯誤する期間が必要です。資格試験の勉強のように、やるべきことが決まっている場合というよりは、もう少しやりたいことが漠然としている場合について考えてみましょう。この場合、勉強のテーマをあまり決めてしまわずに、いろいろな本を読んでみることが大切です。そうすると、それまで思いもしなかった分野に興味を持つこともあります。

また、評価の高い本や参考書が自分にはまったくわからない場合でも、たまたま手に取ったそれほど知られていない参考書を読むとスッと頭に入ってくるという場合もありえます。

ですから、いきなり本格的に勉強に取り組むのではなく、少し時間をかけていろんな試行錯誤をする準備期間を持つことが大切なのです。

もちろん、そのためには本を読まなくてはなりませんが、この段階では、最初から最後まで読み通すことが目標ではありません。この段階の読書は、どんなことに自分は興味を持てるのか、どんな学びのスタイルが自分に向いているのかを探るための手段と割り切って考えたほうがよいでしょう。ですから、最初の10ページでやめてしまう本があってもかまいません。

人によって、この勉強がしたいというものが1週間で見つかる人もいれば、半年ぐらいかかる人もいるかもしれません。それでかまわないのです。大事なのは自分のやりたいことや目標を探しながら、ぶらぶらと歩きまわることです。たとえ、自分は教養として学ぶんだからという人でも、やはり何かの目標を探してみることは必要だと思います。勉強をする際に、目標を探しながら進んでいるのと、あてもなく進んでいくのでは、大きな違いが出るからです。絶えず考えながら歩きまわっていれば、必ず求めるものに行きあたります。あてもなくぶらぶらするのとは違うのです。

もちろん、何を学びたいのかを最初から決めている人や、やりたいことが明らかな人は、そのまま真っ直ぐ進んでかまわないと思います。ただ、そうした人はごく少数派でしょう。そうした例外的な人を除けば、本格的な勉強の前には、試行錯誤の期間を必ず設けたほうがいいと私は思っています。

 

勉強する前に、勉強する姿勢をつくる

おそらく多くのみなさんは、学問というのは伝統があって、立派なものであり、疑う余地はないものだと考えていると思います。ましてや教科書は、偉い学者が考えてきたことをまとめたものだから、書かれていることは全部正しいと思っているのではないでしょうか。

もし、「先生、それ書いていること違うんじゃないですか」と質問する学生がいたら、ひねくれたやつだとなって、先生からもまわりからも白い目で見られるのが関の山です。

そのため、勉強というのは、書かれていることをいかにきちっと覚えるかだということになりがちです。勉強をするとなったら、本を読むにせよ、講義を聴くにせよ、無意識のうちに、とにかく偉い御説を一生懸命覚えよう、要点をつかもうとしてしまうのではないかと思うのです。そうすると、勉強は退屈でつまらなくなりますし、頭の中もすぐにいっぱいになってしまいます。

でも、勉強をはじめる前にまず知っておいてほしいのは、本の内容を覚える必要なんてまったくないんだということです。読んだことや聞いたことをそのまま頭の中に入れるだけでは、それは、本当の意味で学んだことにはならないのです。

勉強や学びのプロセスとは、実は、いったん押し返してみることです。

偉い先生が言ったことを鵜呑みにするのではなくて、教科書でも本でもそこで得た知識をもう一度自分なりに組み立ててみる。場合によっては、著者である偉い先生とは違う理屈を自分なりに語れるくらいにしてみる。本当に正しいのかという反論も含めて頭の中で考えていくことが、学びの大事な過程なのです。いや、それこそが学びです。何度も頭の中でさんざん反論してみたあげく、ああ、やっぱりこの人の言っていることは正しいかと、自分で納得できたときに、初めてその内容がわかったと言えるのだと思います。

とりわけ、これまで受験勉強など解答テクニックの習得がしみついてしまっている人は、何でもかんでも素直に受け入れすぎる傾向があるように見えます。本に書かれていることは疑いもなく信じてしまうし、とくに偉い先生が言っていることや、有名な新聞に書かれていることを素直に信用する傾向があります。

あまりに素直に読みすぎてしまうと、右から左に抜けていってしまうので、結局のところ本当の意味では何も身につかないんだと思います。

極端なことを言えば、勉強は疑うことからしかはじまらないと私は思っています。学びたいという欲求は、何か疑問があったり反論があったりするところから湧き出てくるものです。ですから、学ぶクセをつけるには、教えられたことをただ素直に受け入れるのではなく、疑問を持つことが第一だと思うのです。

 

本の中に正解を探さない

私は本から得られる何らかの情報や知識をもとに、自分なりに考えていく過程のほうが勉強するうえで大事だと考えていますから、本を完璧に理解することに時間と労力を費やすのは無駄だと考えています。わからない単語があっても別にいい、わからない内容があっても別にいいというふうに割り切って読んでいってかまわないと思っているのです。

ただし、その本の基本コンセプトや基本の考え方については、きっちりわかるように読むことは大事だと思います。入門書や概説書といっても、初めての分野なのですから、要点だけつまみ食いというのはなかなかできません。ですから、その本やその分野の勘所がわかるまでは、少し精読する必要があると思います。

本を書いている著者には何か大きな考え方があって、1つひとつ組み立てながら書いているはずなので、そういう何かベースとなる考え方をおぼろげながらでもいいから、理解できるまでは、ある程度しっかり読んだほうがいいでしょう。

ですから、こうした意味でも、本を2段構えで読むことは意味があるのです。

1回目は書かれている内容をすべて受け入れるつもりで、ともかく読み進める。その目的は、筆者の考え方なりメッセージなりを理解することです。そこがある程度わかってくるまでは、少し腰を据えて我慢して読むことが必要です。ただし、枝葉の部分や難解な部分には、あまりこだわることなく読み進めることです。最後まで読み進めてみると、途中でわからなかったことも、読み返してみて理解できることもあります。

考え方やメッセージがある程度理解できたら、2回目は勘所みたいなものをつかんでいくのです。そのときは、批判的な目を持って疑問を持ちながら読んでいきます。2回目は、興味ある部分を重点的に読んでいくのがいいでしょう。そのうえで、わからないことは、時間をかけて何度も読み直していけばいいのです。

 

ものごとを「普遍化」させていく

そもそも、経済学や歴史学のような社会科学系の学問を学ぶ場合、最終的には社会をどのように理解するのか、その理解の仕方を身につけるところに意義があります。例えてみれば、社会というとりとめのないものを料理するために、その道具として包丁や料理用具を手に入れるようなものです。

社会で起こっている出来事や自分の目の前に起こっている現象を、自分なりにどう理解して、どのように解決に持っていくのか。仕入れた知識や情報を材料にして、そこまで自分の中で考えを深めて、実際に役立たせていくことに、学問を勉強する意義があります。

歴史の勉強で例えてみましょう。歴史を学ぶ意義は、単に年号や事実を記憶するものだと考えている人も多いかもしれませんが、私はそうではないと思います。人によって意見は分かれるでしょうが、私は歴史から未来へのアドバイスをもらうのが目的だと考えています。

もちろん、歴史の出来事をそのまま教訓に使えるわけではありません。

 

時代や地域の違いを超えた「普遍的な構造」を見いだす

そこでヒントになるのが、「普遍化」というキーワードです。

「普遍化」という視点を持って、17世紀のオランダで起きた、いわゆるチューリップ・バブル以来のバブル経済の歴史を勉強していけば、現在起きているバブル的な経済現象がどう推移していくのかの見当がつきますし、将来バブルが起きたときに対処の仕方や起こった原因などを理解できます。

このようにさまざまな歴史上の出来事の中から、時代や地域の違いを超えた「普遍的な構造」を見いだすことが重要です。

この普遍化の作業がなければ、歴史で学ぶことは過去の一事例に過ぎず、使いものにならないと思うのです。それは歴史に限らずあらゆる学問で言えると思います。

表面的な歴史的事実は何もしなければ単なるデータに過ぎません。その歴史的なデータを自分なりに分析しながら、組み立て直したり、なぜこの事件が起きたのだろうと考えたりしながら、何か未来の自分たちに生かすメッセージを受け取ろうとして歴史を学んでこそ、意味があると思うのです。

だからこそ、歴史的な事実から、いつの時代にも通じる普遍的なストーリーを読み取るという「普遍化」の作業は重要なのです。

それによって、自分なりに理解してきたものが、もう一段階熟成されていくきっかけになるのではないかと思うのです。さらには、現在の自分が置かれている状況を、今よりも俯瞰して見られるようになるでしょう。それができれば、学問というものが、机上の空論に終わらず現在や未来に生きたものになるはずです。

 

 

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