「シン・保守」の時代(上)

 

「愛国」への誤解乗り越える 将基面貴巳オタゴ大学教授

 

現代の日本で社会の保守化がいわれて久しい。本来、「保守」とは何か。3人の識者に聞いた。

日本では、保守的な思想と「愛国」という言葉は結びつけて語られることが多い。だが実際には、保守思想と愛国が接近したのは歴史的偶然の所産にすぎない。政治思想史をたどれば、保守と結びついた愛国思想はむしろ伝統を逸脱したものだ。

一部の保守派は「自国の歴史や文化に誇りを取り戻さなければならない」という通俗的な愛国思想を標榜している。しかし保守思想とは元来、社会主義など特定の思想への反対として捉えられるものだ。

現代の日本では政府に対する批判を「反日」だと排撃するような声すらあるが、本来の「愛国」はむやみに国を称賛するのではなく、政治や社会に課題があれば、批判して改善を探ることであるはずだ。日本で「愛国」が保守的な思想と結びついている背景には、西洋思想を受容した明治期の欧米の影響がある。

「愛国」という日本語は明治期に「パトリオティズム」という英語の訳語として用いられ、広まった。語源は「祖国」を意味する「パトリア」というラテン語で、愛国思想の歴史は、古代ローマの哲学者キケロにさかのぼることができる。キケロが重視したのは市民が法によって共有する政治体制に奉仕する精神で、その思想に基づけば、共通善が実現される共同体であれば、自国以外もパトリアと考え得た。

しかし18世紀後半のフランス革命では、革命政府は自らを自由や平等を実現した「パトリオット」だと主張した。それと同時に、国語や国民の歴史を作り上げ、国民を統合しようとした。パトリア(祖国)を国民国家と同一視する、ナショナリズム的パトリオティズムの登場である。

当初、ナショナリズム的パトリオティズムは革命派による反体制的な主張だった。それを換骨奪胎し、保守的な思想に仕立て上げる道筋をつけたのが、英国の思想家エドマンド・バークである。バークは急進的な仏革命を批判するなかで、パトリアの英訳だった「カントリー」を「歴史的伝統や慣習」と定義した。

バークのこうした主張の背景には、国への愛着は家族や友人への愛情の延長線上にある自然な感情だという考え方がある。情緒的で共感しやすい言説で、主に英語圏で広まった。いわば保守的パトリオティズムだ。今日に至るまでの日本の愛国思想も、バークの影響下にあると言える。

 

批判や政治参加こそ美徳

保守的パトリオティズムに端を発し、今日世界中で見られるようになった自国第一主義的な愛国思想を乗り越えるには、パトリアを自国に限らないものとして構想し直す必要がある。また、日本では政治について公共の場で語ることをタブー視する空気が強いが、政治について自ら考え、議論したり行動したりすることは愛国的な行いであると言えよう。

参院選の期間中に、安倍晋三元首相が銃撃される事件が起きた。殺人が許されない行為であることは言うまでもない。同時に、市民にはいま特別の冷静さが求められている。凶行を許さない態度と安倍政権の功罪に評価を下すことは両立するはずだが、感情を揺さぶる事件が起きると「我々」と「彼ら」を二分して、異なる意見を持つ者を「非愛国者」とみなすような言説が優勢になりかねない。体制や政権について批判すること自体がタブーとならないよう、勇気はいるが懐疑精神を忘れてはいけない。

 

しょうぎめん・たかし 1967年生まれ。専門は政治思想史。ニュージーランド・オタゴ大学教授。著書に「ヨーロッパ政治思想の誕生」(サントリー学芸賞)、「愛国の起源」など。

 

 


 

「シン・保守」の時代(中)

 

あふれる「思想なき保守」 宇野重規・東京大学教授

 

 

 

「保守主義」は政治的な立場を論じる際に用いられるが、真意を理解して使われる例は昨今ほとんど見られない。男女平等や外国人との共生に抵抗するネット右翼、古いものを無批判に賛美する精神性とは無縁なのに、それらと同一視する言説が流布している。現代は「曖昧な保守論がインフレした時代」と定義できる。

起源は18世紀半ばまで遡る。欧州で絶対主義や封建主義を打倒する市民革命が起こり、「社会は理想の未来に向けて邁進(まいしん)する」という進歩主義が興隆した。フランス革命が顕著な例で、既存の制度一切を白紙に戻し、望ましい社会をゼロから再構築することを目指した。

模範を過去ではなく未来に求める進歩主義は楽天的で傲慢だとも言える。歴史や伝統には知恵や配慮が込められているし、私たちの理想通りに人類社会が発展するわけでもない。急進的な進歩主義を批判して、自由を守る伝統的な制度や習慣を守り、漸進的な改革を求める立場として保守主義の思想は生まれた。

ある思想に対するブレーキ役となり、20世紀でも価値を持ち続けた。ロシア革命で実現した社会主義や、「大きな政府」の下で福祉国家を目指す米国リベラリズムの対抗軸になり得たからだ。

現代では進歩主義の存在自体が危うくなっている。労働者による革命や計画経済を目指した社会主義や、大きな政府による社会改良を信じたリベラル派が大きく衰退したからだ。理想の社会像を失った結果、保守主義も対抗軸を見失い迷走する事態が起きている。

保守主義は日本に存在したのか。戦後を代表する2人の知識人、丸山真男と福田恆存は、1960年の安保闘争の頃にはすでに「保守主義の不在」を指摘していた。

丸山は、現行の政治体制を自覚的に守る立場は現れなかったという。欧米から新しい思想や制度を輸入することにあくせくする日本の伝統は、保守主義を何かと関連付けることもなく受容した。その結果、ズルズルとなし崩し的に現状維持を好む「思想なき保守」ばかりが目立つようになった。

福田は、日本における2つの断絶を指摘した。江戸時代以前の制度や慣習を捨て欧米化に走った明治維新と、事実上の征服を経験させられた第2次世界大戦での敗戦だ。過去との連続性が絶たれた社会では、何が自分たちに大切かを共有できず、保守主義を確立させるのは難しいといえる。

 

デジタル空間も議論の場に

現代の日本で以前のように保守と進歩を対比して語ることが有用かは分からない。政治家や政党の間ですら保守主義は誤用されるし、かつて進歩主義が唱えた社会の展望は全く見えないからだ。

だが、今後も保守主義に意味を持たせ続けるには、一人ひとりが「本当に大切なもの」「保守したいもの」を自発的に問い直し、他者と共有して行動することが必要だ。地域社会に目を向ければ、祭りや芸能、自然と密着した暮らしが受け継がれている。こうした財産が、守るべき歴史や伝統だと考えることもできる。

若者の政治離れも指摘されるが、政治や社会との関わり方は古典的な選挙運動やデモ活動に限定しない方がよい。SNS(交流サイト)などのデジタル空間を活用し、「守りたいもの」を共有する他者と関わり、それに向けて議論することも一つの社会参加ではないか。

今後はオタク文化や特定の商品や人物に熱狂した人同士の集団(ファンダム)を取り込むことが保守にとっても重要になりそうだ。現代的な通信手段を前提に「保守」をよりダイナミックに捉えることが求められている。

 

うの・しげき 1967年生まれ。専門は政治思想史。著書に「トクヴィル 平等と不平等の理論家」(サントリー学芸賞)、「保守主義とは何か」、「民主主義とは何か」など。

 

 


 

「シン・保守」の時代(下)

 

終わり迎えた進歩幻想 吉田徹・同志社大学教授

 

 

 

先進国では1970年代から階級意識が薄れていき、政治の対立軸が富の分配から個人の生き方に関する意識の相違へと変化した。90年代にはそれまでの左派がリベラルと称するようになり、自己決定権の重視が掲げられるようになった。

一方、今の日本で「保守」と呼ばれる人たちが守ろうとしているのは「失われた平和な20世紀」だと私は考える。

20世紀後半は人類史の中でも特殊な時代だった。第2次世界大戦後、国境が引き直され、先進国では豊かな中間層が多数派になった。しかし、石油危機を経てリーマン・ショックがとどめとなり、豊かな時代は幕を下ろす。少子高齢化に転じ、国境を越えた人の移動で同質的な社会も失われた。先進国の多くで「子供世代は自分たちほど豊かにならないだろう」という意見が多数派になった。進歩幻想が終わりを迎えたのだ。だからトランプ政治は喪失された「偉大なアメリカ」に訴えかけたのだった。

没落と喪失の恐怖は現代日本の保守的な態度にもつながっているように思う。五輪や万博、令和版所得倍増計画。ノスタルジーを持ち出して未来を投射しようとしている。「保守すべきものがない保守」といえよう。

幻想にとらわれているのは、日本国憲法が前提とした世界が崩壊しているにもかかわらず、護憲に固執する古いリベラルの側も同じだ。保守、リベラルともに内実が失われているからこそ、有権者は政治と生活が結びついていないように感じるのだろう。現状が変わらなければ、将来には悲観的にならざるを得ない。

 

未来見えぬ若者、権威主義化

日本の保守化を考える際、特徴的なのは世代間の差だ。松谷満「若者」(田辺俊介編著『日本人は右傾化したのか』=2019年=所収)によれば、若年層の愛国主義や排外主義的な意識は中高年のそれよりも低い。「外国人労働者に近所に住んでいてほしいか」という問いでは「住んでいてほしくない」が多数派の中高年に対し、若年層の多くは「気にしない」というリベラルな態度を示している。

半面、若年層の間で強まっているのは現状の権威を認め、従うことを良しとする権威主義化の傾向だ。松谷が「右傾化なき保守化」と呼ぶこの現象は、若者の反権威主義化が進む他の先進諸国の例とは対照的だ。

背景にあるのはメンバーシップ型の労働市場の存在だろう。日本では正社員と非正規社員の間に大きな溝があり、失敗すれば再チャレンジは認められない。安倍政権が支持されたのも就職率が良かったからだ。競争社会を生き抜くために強い立場の人間に従うことは、彼らにとって合理的な生存戦略ともいえる。

他方、日本の若年層は決して政治的関心が低いわけではない。投票率の低さが取り沙汰されるが、世代でみれば若者の投票率が一番低いのは各国共通だ。異なるのは他の政治参加の水準だ。

日本の若年層はデモやストライキといった政治参加の経験割合が低い。要因の一つは自己肯定感の低さにある。ゆえに、日本は先進国の中でも20代の自殺率が高い。自己肯定感が低いと、大多数の意見や共同体のあり方を否定しきれない。失敗や試行錯誤を許してこなかったツケともいえる。

日本社会は勝ち負けを判断する尺度の種類が少ない。人生にはいろいろな尺度があってしかるべきで、それが多様性の本来の意味だったはずだ。社会のモデルを再考し、自分が受けた恩恵を後世に再投資していく循環を作っていく必要がある。

 

よしだ・とおる 1975年生まれ。専門は比較政治学、欧州政治。著書に「くじ引き民主主義」「アフター・リベラル」「感情の政治学」など。

 

=おわり

 

 

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