アナザーノート

 

(パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで)

 

「抑止力」とは、もっと論じる場に 高村薫

 

 ◆たかむら・かおる 作家。「マークスの山」で直木賞受賞。著書に「太陽を曳く馬」「土の記」など。1953年生まれ。

 

 

北朝鮮が弾道ミサイルの発射実験を繰り返し、中国による台湾有事も一層現実味を増しているなか、日本では岸田文雄首相が昨年12月、戦後の首相として初めて所信表明演説で「敵基地攻撃能力」の保有を検討すると明言しました。年明けからは国家安全保障戦略と防衛計画大綱、中期防衛力整備計画の改定に向けて、政府は有識者会合を順次開催していますが、話し合われている内容は国民に知らされていません。

 日本人の多くは日ごろ国防を考える習慣がありません。「識者の意見に耳を傾ける場を設け、国民が冷静な判断ができる環境提供に努めて」(60代男性)といった読者の声もありますが、数は少なく、朝日新聞でもこの分野の担当記者は、読者になかなか記事が届かないと悩んでいるようです。大まかに言えば、右に「核共有」まで持ち出す自民党タカ派、左に自衛隊は違憲という一点から動かない左派リベラルがいて、真ん中がすっぽり抜けているのが国防をめぐる言論空間の現状だと、外交・安全保障担当の佐藤武嗣編集委員は言います。真ん中が真空なので国民的議論が生まれにくいのです。

 そうしてまともな議論のないまま安倍政権下で一気に「日米同盟の抑止力」の強化が進んだのですが、国民の無関心をいいことに、政府は抑止力の名の下で何をしようとしているのか、国民に多くを知らせないままです。そのため、どこまで戦略的に妥当な中身であるかの客観的な評価すら欠いているのが現状です。

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 佐藤編集委員の「『敵基地攻撃能力』、着々整備 岸田首相も『政治宣言へ』」(昨年12月17日配信朝日新聞デジタル「アナザーノート」)では、私を含めて読者の多くが見て見ぬふりをしている「敵基地攻撃能力」の現在地が示されています。敵基地云々(うんぬん)の定義はいまなおあいまいなのですが、要は「弾道ミサイル攻撃への対応能力」のことであり、2013年の防衛計画大綱にはそのために「必要な措置を講ずる」と記されました。これが「敵基地攻撃能力保有」の一里塚となって、18年度予算には長射程巡航ミサイルの開発・導入に向けた関連予算が盛り込まれました。国はこれを「離島防衛」用と説明していますが、導入予定の米国製巡航ミサイルの射程は900キロあり、北朝鮮や中国が十分に射程に入ります。

 ところで、こうした兵器で敵艦隊や敵基地を攻撃することを国はなおも「専守防衛」としているのですが、これはどう考えても意味不明です。「敵基地攻撃能力 持てるのか」(2月22日付朝刊「憲法を考える」)や、「なし崩しの『専守防衛』」(3月19日付朝刊)では、同じく外交・安全保障担当の藤田直央編集委員がこの問題を取り上げ、元内閣法制局長官の阪田雅裕氏へのインタビューで簡潔に要点を整理してくれています。

 記事では敵基地攻撃能力保有について、政府が明確にすべき点を二つ挙げています。まず「専守防衛」とは、武力攻撃を受けたときに、その火の粉を払うための必要最小限の「対処」を指す受動的な姿勢とされてきました。ところが、安倍政権下で「対処」が「抑止」に変わり、長射程ミサイルで他国を牽制(けんせい)することができるようになったいま、従来の「専守防衛」はもう成立しないと考えるのがふつうです。

 もう一点は、明白に違憲ではあるものの現実に法制化されてしまった集団的自衛権の行使と、敵基地攻撃能力の関係です。日本が堅持してきた「専守防衛」での武力行使には、日本への武力攻撃があることや、日本近海と周辺の公海といった地理的制限がありましたが、集団的自衛権の行使ではそれらもなくなり、いわば能動的に他国の戦争へ参加することになります。また、武力行使には「必要最小限度」という制約もありますが、何が必要最小限かは他国との戦争の様態に応じて決まるのであって、ここでももはや「専守防衛」での武力行使と言えないのは明らかです。さらにつけ加えれば、敵に脅威を与える長射程ミサイルが、憲法が保有を禁じる「戦力」に当たる可能性があることも大問題でしょう。

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 振り返れば、戦後の国会が営々と積み上げてきた憲法9条をめぐる議論の精緻(せいち)さには舌を巻きます。何ができ、何ができないかを言葉で明確に規定することで、文字通りの文民統制が機能してきたのです。

 いまや「専守防衛」の看板自体を下ろしたいのが国の本音かもしれません。阪田氏や佐藤・藤田両編集委員の問題意識は、すでにあいてしまった憲法9条の大穴をこれ以上広げないことにありますが、これは国民にとっても残された唯一の道でしょう。国会でこの問題がほとんど追及されなくなったいま、新聞はまだかろうじて安全保障を論じる場をもっています。ロシアによるウクライナ侵攻が現実になった以上、新聞は積極的に「抑止力」の意味を問い、憲法との整合性や、長射程ミサイルの安全保障上のリスクを克明に論じることこそ求められているのです。

 

 ◆パブリックエディター:読者から寄せられる声をもとに、本社編集部門に意見や要望を伝える

 

 

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