時論・創論・複眼
グローバル化の曲がり角 識者に聞く
石井敬太氏/デボラ・エルムス氏/アダム・トゥーズ氏
ロシアのウクライナ侵攻により経済のグローバル化が転機を迎えた。西側とロシア、中国との「新冷戦」に各国や企業が身構え、人やモノの自由な移動が停滞する懸念が高まっている。さらなる分断に備え、乗り越える知恵はあるのか。異なる分野の第一人者に聞いた。
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供給網、「ダブル」で備える 伊藤忠商事社長 石井敬太氏
いしい・けいた 1983年早大法卒、伊藤忠商事に入社。有機化学品第一部基礎原料課への配属以来、化学品部門を歩む。2021年から現職
1989年に冷戦が終結し、2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟することで、その後20年間の世界経済は地球規模のサプライチェーン(供給網)がめざましく発展した。現実には関税など様々な障壁は残ったものの、方向感としてはカネやモノが自由に往来する単一のグローバル市場が登場した。世界中の企業が最適な国や地域で調達・生産・販売活動を行うことで、経済発展が加速するというビジョンだ。
ところがロシアのウクライナ侵攻で時計の針が一気に20年前、30年前に戻ってしまった。以前から米中対立の激化など世界の抱える不協和音は徐々に大きくなっていたが、ウクライナの事態のもたらしたショックは桁違いだ。
今後、供給網の姿は大きく変わる。石油や天然ガスでは西側諸国の「ロシア外し」が始まった。当社は石油開発プロジェクトの「サハリン1」に参画しているが、出資や日本への輸出を継続するかどうかは日本政府の判断に従う。非中東産原油の確保のための1970年代に遡る息の長い国策事業だが、先行きは不透明と言わざるを得ない。
他にも小麦をはじめ食料価格も高騰している。製造業の分野でも、化学肥料の原料や半導体生産に使う希ガスのネオンはロシアとウクライナ両国の生産シェアが高く、世界中に影響が広がっている。
仮に今回の事態を引き起こしたロシアの独裁的な政権が早々に退場し、穏当な政権が生まれたとしても、傷ついた信頼はそう簡単には回復しない。ロシアが信頼できるパートナーとして再び認知されるようになるには、相当の時間を要するだろう。
企業にとって大事なのはリスク管理だ。自社の供給網や投資ポートフォリオがどんな地政学リスクを抱えているかを丹念にチェックし、万一の場合は他からも調達できるようにする「ダブルソース化」などの手を打つ必要がある。それには当然コストがかかるが、新たな現実に向き合うための必要経費と割り切るしかない。商社のビジネスでも顧客への供給責任を全うするために、第2、第3のソースの確保が重要になる。
悩ましい問題はいくつもある。一つは環境問題だ。西側がロシア産ガスへの依存を断つ場合、それを埋め合わせるための新たなガス田開発や液化設備への投資が必要になるが、回収に20年以上を要する長期の投資となる。欧州を中心に「脱・化石資源」の旗印を掲げたままでは、長期のリスクマネーは供給されないだろう。地球環境問題の工程表を一部手直しする必要があるのではないか。
日本にとっては中国とどう向き合うかも大きな課題だ。いわゆる人権問題や知的財産の不正取得については厳しく対応しないといけないが、中国全体を世界経済から排除するのは難しいし、実際にそうした時の衝撃はロシアの比ではない。米中二大国の間に立つミドルパワーとして、中国を世界につなぎ留める役割を日本政府や日本企業は果たすべきだ。
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アジアは域内連携深めよ アジア貿易センター創設者 デボラ・エルムス氏
Deborah Elms 米ワシントン大学で政治学の博士号取得。通商問題を専門とするシンクタンクの創設者
4月中旬に米議会証言のため2年半ぶりにワシントンに出張した。新型コロナウイルス禍を経て、中国への強硬姿勢が一段と強まっているのに驚いた。中国関連の仕事をしている人は米国の敵と言わんばかりで、まるで別世界に迷い込んだようだった。
黒か白かのどちらかを選べというワシントンの見方をアジアは受け入れられない。周辺国は米国との関係の深さにかかわらず、中国と仲良くやっていく方法を見つけなければならないからだ。
それは中国に進出する米国の多国籍企業も同じだ。ウクライナに侵攻したロシアに重い制裁を科した結果、多くの企業がロシア市場から撤退した。これを見たワシントンでは同様の手法を中国にも適用すれば効果は大きいとする意見が出ている。しかし多国籍企業が中国での生産や販売をやめれば、即座に収益に大きな影響が出る。制裁による利益は非常に小さい一方で、そのコストは巨大になる。
米国はアジアへの経済関与を強調するため、インド太平洋経済枠組み(IPEF)を打ち出した。しかし私はアジアの国々がお付き合いで参加するだけで、実質的な成果は何も得られないまま終わることを懸念している。4つの主要協議分野のうち、税・反汚職はアジアのどの国も望む分野ではない。逆に供給網やインフラ・脱炭素は誰もが賛同するが、内容は抽象的で具体的な合意を得にくい。
IPEFよりは、中国が参加し、1月に発効した東アジアの地域的な包括的経済連携(RCEP)の方が実務的な効果が大きい。アジアはこれまで原材料を加工し、欧米に輸出するモデルが主流だった。アジアの消費市場は急成長している。RCEPによって最終製品までアジア域内で作り、アジア域内で消費するモデルが初めて実現する。
環太平洋経済連携協定(TPP)もアジアの貿易の一体化を進める上でRCEPと同様に重要だ。2021年9月に加盟を申請した中国との交渉をいつまでも先延ばしすることはできない。加盟国は遠からず交渉を始めざるを得ないだろう。米国がTPPに復帰せず、ルールメーカーとしての立場を放棄するなら、私は中国を加入させた方が排除するよりよいと考える。
欧州は米国より現実的だ。20年に発効した欧州連合(EU)とベトナムの自由貿易協定(FTA)は、欧州市場への参入が容易になるベトナムに利点が大きい内容だ。東南アジア諸国連合(ASEAN)の他の国をEUとのFTAに駆り立てる誘因となる。英国もシンガポールとデジタル経済協定に署名した。両国はこの協定を他国とも結ぼうとしており、デジタル経済協定が広がる可能性がある。
ワシントンから戻った今、2030年の米中関係がさらに悪化するリスクを以前より高くみている。最終的には各国が経済のブロック化の弊害に気づき、グローバリゼーションに回帰すると思う。しかしそう気づくまでに、どのくらい深刻な供給網の分断を経験しなければならないのかは分からない。
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貿易自由化、日独が軸に 米コロンビア大教授 アダム・トゥーズ氏
Adam Tooze 英国とドイツで育ち、冷戦終結を研究。15年から現職。歴史家として世界金融危機後、コロナ危機を検証した
世界には4層のケーキのように大きなリスクが重なる。
新型コロナウイルスは日常に復帰した米欧と、人流に障害が残るアジアの開きを生んだ。2020年に米国は中国にハイテク戦争を宣言し、長い地政学的な混乱が始まった。ロシアのウクライナ侵攻で予期せぬエネルギー市場の混乱が起き、核戦争の脅威は可能性は低いが起きれば損害が甚大なテールリスクになった。さらにインフレがある。主要7カ国(G7)の中央銀行はそれぞれ違う課題に直面しシステム内で緊張を生む。
グローバリゼーションの将来はどうか。再生不可能な損傷を負ったのか。劇的な貿易減少の悪循環に陥る1930年代のシナリオは除外すべきだ。貿易は頑健であり、グローバル化は終わらない。再配置され、再設計される。
だが90年代のWTO体制、気候変動防止の条約のように、機構をよりどころにしたグローバル化は葬られた。
もはや単一のグローバルなモデルは存在せず、違った要素のパッチワークになった。具体的なセクターや地域ごとの取り決め、長年のもと形成されたサプライチェーン(供給網)に基づくものだ。
米国が西側諸国をまとめて対中国の対立軸をつくれるかどうかは疑問に思う。バイデン政権はインド太平洋経済枠組み(IPEF)で東アジアとの経済連携の構想を出したが、具体的な肉付けがない。米国の仲介能力が限定的になったことを誰もが知っている。一方の中国は過激な要求で自分たちのブロックを形成するかもしれない。
米国では11月の中間選挙で与党の民主党が議会の支配を失うと国内の統治は不可能になる。経済政策で自国優先を唱えるのは共和党も民主党も一緒だ。もう彼らは貿易自由化を先に進められない。米国に期待することはできない。
どうするか。競争力の高い豊かな国々が連合を組み、責任を担って懸案解決に動くことだ。日本やドイツのような中規模だが重要なプレーヤーが歩み出ることが大切だ。これこそ緊急に必要なことだ。
中国と米国との経済的なデカップリング(分離)を単に否定できる段階ではもはやない。だが米アップルのスマートフォンを分解すれば部品の多くが中国から来ていることからわかるように、大規模な分離は困難を伴う。地球温暖化を中国と対話せずに語るのは無意味だ。中国こそ最大の地球環境問題だからだ。
供給網では自国生産を進めるオンショアリングや供給元を移すリショアリングの動きがある。そこにインフレの問題が伴う。低効率の世界貿易は低成長と高コストを意味する。半導体の自国生産を促すために大国の財政資金が使われるが、多額の支出は局所的なインフレを引き起こす。
リショアリングがどの程度進むかは5年、10年単位の問題だ。私はイエレン米財務長官が「フレンドショアリング」と呼ぶ形への収束を予想する。信頼に足ると互いに確信する国々が地域単位で生産網を構築する姿だ。より多くの供給源を確保し、緊急時に余力を残す努力が重要になる。
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〈アンカー〉 中国との距離感、なお難題
米中貿易戦争にウクライナ戦乱。グローバル化の変質が時候のあいさつのように語られる。経営者、歴史家、通商専門家という3者の視点から、変化の本質がみえてくる。
大手商社を率いる石井氏は企業が最適地生産で収益を上げ、経済成長を導くモデルが後戻りしたと説く。エネルギー市場でのロシアの分断は早期の修復が不可能で、企業のリスク管理を激変させた。
だが、世界貿易は止まらない。トゥーズ氏は単一のグローバル化という理念は終息しても「グローバル化のパッチワーク」が残ると読む。頼れない米国に代わる日本やドイツの指導力に期待を示す。
中国との完全な分離は不可能という点は一致をみた。エルムス氏は米国が消極的なら中国をTPPに入れるのが得策とまでいう。新局面でも中国との距離感は難度が高い。