科学の絶景 悪意を宿すチップ

 

スマホ盗聴の脅威 半導体回路の改ざん、専門家が警鐘 

 

実物を見たわけではないが、考えるだけで恐ろしい。専門家たちはそう語った。その脅威とは半導体回路の改ざん。悪意のある人物が細工した半導体チップが、世界中の電子機器に出回る危険があるという。たくらみが成功すれば、デジタル技術で成り立つ現代社会は大混乱に陥る。科学技術の最先端にいる研究者が感じ取る危機の真相に迫った。

ある悪夢がささやかれている。突如、スマートフォンや家電が盗聴を始め、車や工場は急停止して大騒ぎになる。様々な機器で半導体チップに潜んだ回路が動き出し、正しい制御ができなくなる光景だ。

東北大学の本間尚文教授らは4月、半導体チップに紛れ込む不正な回路を検知する新技術を開発したと発表した。国際学術誌に載った成果は数学を取り入れたユニークな手法に注目が集まったが、気になったのは研究の動機だ。

「半信半疑に思えるかもしれないが、今の半導体チップは『絶対に安全』とは言い切れない。安全を保証する技術が必要だ」。正規のチップに、不審な回路が組み込まれる脅威が高まっていると明かす。

チップは回路データをもとに作る。製造までの間に回路データの一部を改ざんすれば、望みの機能を持つチップが大量に出回る。悪意のある人物が暗号を解く回路を潜り込ませたら、理論上はそのチップを使った機器のデータをのぞき見できる。東北大の新技術は製造直前の回路図と設計仕様を比べ、回路データの書き換えを見抜く。

専門家ですら実物を目にしていないと話す不審な回路の存在だが、事実だとしたら影響は計り知れない。科学技術の進歩で身近な機器のほとんどにチップが入り、通信もできるようになった。スマホを代表格とするIoT機器の数は2016年の約170億台が、23年に倍増するとの世界予測もある。

専門家は、木馬に隠れた兵士が油断した相手を欺いたとする昔の物語を思い浮かべて、設計者を欺く悪質な回路を「トロイの木馬」に例える。「バックドア(裏口)」という人もいる。トロイの木馬にあたる回路を載せたチップを、海外では盗聴や盗撮を連想する「スパイ・チップ」とも呼んでいる。

対策は難しいと感じる。悪意は宿るがチップ自体が正規品であるうえ、精緻な製造工程をたどる半導体回路という「モノ」が「改ざん」される事態が想像しにくいためだ。

電子機器の脅威にコンピューターウイルスがある。怪しいメールを開くと、パソコンに不正なプログラムが感染する。外部から敵が襲来し、対策ソフトで防戦する構図はわかりやすい。ところが回路の改ざんに対策ソフトは効かない。不正な回路を内蔵したパソコンそのものが既にむしばまれているからだ。

ウイルスが原因の感染症ではなく、いつ発症するのかわからない癌(がん)のようだ。内なる敵にも備えなければならない。既存の対策が根底から覆るだけに、警鐘を鳴らす研究者たちは異次元の怖さを感じているのかもしれない。

懸念を裏づける確証はないが、杞憂(きゆう)でもなさそうだ。複数の研究者がこの問題に関心を持つきっかけになったと話す「事件」が12年にあった。米国で産業分野からも引き合いがある軍隊仕様のチップに、暗号を外すような回路が見つかったという論文が出たのだ。

当時、分析結果をまとめた一人が英国ケンブリッジ大学のセルゲイ・スコロボガトフ博士だ。研究をするうえで誰かの責任を追及するようなことはしないという同博士だが、今、深い憂いを抱いていた。

「潜在的な脅威に警鐘を鳴らしてきたが、チップメーカーは対策に投資しようとはしない。企業は『まだ脅威にはなっていない。悪用もされていない』とし、行動する必要はないと考えている」。そして持論を続けた。「しかし今後、大きな問題が起きる」

米中摩擦で中国製品の安全性が議論になったとしても、現時点で、どこかの国の誰かが仕掛けた回路が身近で大混乱を引き起こしているわけではない。心配のしすぎだと思う人も多い。

不正回路を入れたチップの製造に成功した=タリン工科大学提供 脅威をあおっているのではないか。そんな雰囲気も漂い始めるなか、不正な回路を組み込んだと告白する人物が欧州のエストニアに現れた。

「製造前に不正な回路を挿入し、企業に渡してチップの製造に成功した」。不審人物になりきって悪事が実行可能かどうかを実証した研究チームの責任者が、タリン工科大学のサミュエル・パリアリニ博士だ。その手口は「簡単にできるはずがない。杞憂だ」という主張を覆す手軽さだった。

 

 


 

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