時論・創論・複眼
ネット空間に分断の危機 識者に聞く
ヨーラン・マービー氏/デービッド・シェーファー氏/村井純氏/有馬裕氏
インターネットで国内外の情報を手軽に閲覧できるのは、ネット空間を国際的な公共財としてIT(情報技術)企業や各国政府が協力してきたからだ。それがロシアのウクライナ侵攻や強権的な政治体制の広がりで揺らいでいる。ネット空間は「分断」を避けられるのか、ネット管理の国際団体や識者などに尋ねた。
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非接続は恩恵を失う
ICANN CEO ヨーラン・マービー氏
Goran Marby スウェーデン出身。ヨーテボリ大卒。通信・テクノロジー企業を経て、スウェーデン郵便電気通信庁長官。2016年から現職
民間非営利団体「ICANN」の役割は2つに絞られる。ひとつはコンピューターをインターネットに接続できる環境を保つこと、もうひとつはネット上の住所といわれるドメイン名を使って、人々がお互いを探しあえる状況を維持することだ。これ以外の役割は持ち合わせていない。
ウクライナ政府は2月末にロシア政府発の偽情報やプロパガンダを防ぐため、ロシアに割り当てられた「.ru」ドメインの取り消しなどの措置をICANNに要請した。
深刻な内容と受け止めて真剣に協議し、迅速で明快な回答を心がけた。ただ、技術的に不可能ということもあり、従来の姿勢を貫く形となったのが実情だ。政治的な判断ではない。
インターネットは約35年という短い期間で、世界の利用者がゼロから52億人へと急拡大した。しかも、機能不全に陥ることもなかった。技術的なシステムが機能し続けることは珍しい。非中央集権型の運営方式を採用していることが成功の理由だと考えている。
世界には多くの通信網があり、どのような情報が流れるべきかといったルールはそれぞれの通信網が決めている。ICANNは異なる通信網のコミュニケーションに必要な「共通言語=インターネットプロトコル(IP)」を管理する中立的な存在で、誰かを遮断することは目的ではない。
日常生活の違法行為はネットでも違法であり、こうした明確な悪には対応できる。だが、何が悪なのかといった定義を決めるのは私たちの仕事ではなく、選挙で選ばれた政治家が担うべきだ。ICANNのような技術団体が「だれが悪人か」と判断を下すのは適当ではないと考えている。
「インターネットの分断」を声高に叫ぶ論調には慎重な姿勢だ。一部に遮断の動きもあるが、それでもネットを使用する限りIPは使われ続ける。分断はない。気軽に国境を超えて商取引をしたり会議を開いたりできるのも、世界のネット利用者とつながっているからこそだ。分断を決断したら、こうした恩恵を完全に失う。
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ロシア一部「遮断」で守り
米コージェント・コミュニケーションズCEO デービッド・シェーファー氏
David Schaeffer 通信や不動産などの分野での起業を経て、1999年にコージェント・コミュニケーションズを設立し現職
世界51カ国・地域に拠点を置き、170カ国・地域でインターネット接続サービスを提供している。ロシアでは数千社にグローバルなネットワークへのアクセス網を供与してきたが、このうち、政府の監督下にある通信会社を通じてサービスを提供している顧客との接続を3月に遮断した。一方、ドイツなどの通信会社を通じたロシアの顧客向けサービスは以前のままだ。
当社はロシアにおけるアップストリーム(上り)のデータ通信量で2番目の規模を持ち、契約形態としては前者が多い。結果として、ロシアから動画のアップロードなどは難しくなっている。
私たちは「ネット中立性」を強く支持し、当社のようなサービス提供者はコンテンツの送受信の可否を判断すべきではないと考えている。決めるのは制作者や視聴者で、各国当局から頻繁に受ける特定のサイトやIPアドレスの無効化の要請も、法的手続きに基づく正式な承認があった場合にのみ対応している。
国全体を対象とする判断は初めてだったが、当社がサイバー攻撃の「導管」にならないようにすることを考えた。
当社は世界に13個しかないネット全体の制御を担う「DNSルートサーバー」の運用の一部を担っており、毎日数千回の攻撃を受けている。ロシア政府がネットワークに侵入し、これまでの対策を無効にすることも懸念した。
今回のような対応になったのは、ネット全体を攻撃的な活動から守るためだ。誰かを孤立させることが目的ではなく、ロシア市民が文字や画像によりコミュニケーションを図る手段は残した。ロシア政府が攻撃のためにネットワークを使わないことが重要で、和平協定が結ばれれば接続サービスを復旧したい。
ネットは活版印刷などに比べると普及は早かったが、まだ初期段階にある。今後も負の側面が顕在化する可能性が高い一方で、自由に他の人や情報にアクセスできる利点の方が大きい。楽観的ととられるかもしれないが、50年後にネットはよりオープンになっていると信じている。
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国際的な調整の場が必要
慶応大教授 村井純氏
むらい・じゅん 1979年慶応大工卒。84年に国内大学をつなぐネットワークを作り日本のインターネットの父ともいわれる。デジタル庁顧問
インターネットを巡り起きる課題にどう対処するかは、狭義のインターネットと広義のインターネットに分けて考えるべきだ。
「狭義」はIPアドレスとドメイン名で、ICANNが運用を担うネットのインフラ部分だ。「広義」はその上に広がる各種のアプリケーションやサービスで、SNS(交流サイト)やメディアも含む。
課題ごとに対処方法をインフラ側で決めるか、その上に広がる社会で決めるか考えなければならない。
例えばフェイクニュースやコンテンツの海賊版を止めるため、インフラとしてのネットを遮断するのはどうだろうか。その選択はあり得るだろうが、ネットが教育や健康などでも大きな役割を果たしていることにも注意すべきだ。
別の対応方法も考えられる。ネットで流通する情報に、著者は誰なのかという情報をひも付けることだ。情報にトラスト(信頼)を与えて、(トラストがない)フェイクニュースへの対抗とすることは技術的には可能だ。欧州連合(EU)では取り組みを進めようとする動きもある。
解決策をどの層で作るのかは今後しっかり整理した方が良い。例えばサイバー攻撃なら、狭義のインターネットの層で対応している。ネットの専門家が国籍を問わずに情報共有する仕組みが機能している。
ネット空間の統治については、国連のインターネット・ガバナンス・フォーラム(IGF)があるが、国連は政府間の調整機関で、IGFもまだ議論の場にとどまっている。
狭義のインターネットはどの国の政府の管理にも属さないという考えで運用が図られてきた。政府間調整とは異なる、グローバルな統治の場をつくる挑戦は今後さらに必要になる。
デジタル分野だけでなく環境問題や健康・医療などあらゆる課題は、正確なデータが流通してこそ対策を議論できる。インフラとしてのインターネットがあってこそだ。地球温暖化対策のように、政府・企業・個人すべてを含めてインターネットを「守る」方法を考える場が必要だろう。
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攻撃に責任追及ルールを
外務省審議官(サイバー担当大使) 有馬裕氏
ありま・ゆたか 1991年外務省入省。国連政策課長、中国・モンゴル第一課長などを経て、2021年8月から現職
サイバー空間は日本国内でもあらゆる活動に不可欠な社会基盤になっている。全ての国民が参画する「公共空間」として重要性が高まる一方で、サイバー空間では他の国家の関与が疑われる攻撃の脅威が増大している。日本の政府機関や重要インフラを狙う事例も起きている。
サイバー空間での攻撃は匿名性や隠密性を確保しやすいため、地政学的な緊張を反映した国家間の競争が頻繁に展開されている。攻撃においては平時と有事の境界がますます曖昧になってきている。
既存の国際法の適用やルールの在り方について議論を深めていくことが重要だ。日本政府はサイバー空間での国家の活動に対して、既存の国際法が適用されることを前提にして自由と公正、安全を確保するルールの形成に積極的に取り組んでいる。
サイバー空間は攻撃者にとって「攻撃が露見するリスク」や「仮に露見した場合のコスト」が低い状況にある。国際場裏での議論を通じてルール形成や運用を図っていくことは、サイバー攻撃を抑止する観点からも重要な意義がある。
国家によるサイバー空間の統制・強化を主張するロシアや中国などのグループと、自由や公正などを重視する日米欧各国との間では国際ルールの形成を巡る対立はさらに深まる状況となっている。
日本はネット空間の遮断など民主的価値を損ねる可能性がある措置に断固として反対している。自由で開かれた分断のないグローバルなインターネットを守り、強化していくことが重要だと認識している。
国家を含む攻撃者に責任の追及や対外公表につながる予見可能性を与えることなどで、攻撃側のコストを高めていく必要がある。
そのためにはサイバー攻撃が国家に帰属していない場合でも、自国の領域から行われた場合は、一定の条件下で国家責任が認められるような国際社会のルールの形成と運用を目指す必要がある。
各国との日常的な情報共有・政策調整のための連携体制を強化して、信頼醸成を推進していきたい。
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<アンカー>分断回避の議論 日本の存在示せ
160年近い歴史を持つ米リンカーン大学が閉校を発表したのは5月9日のことだ。新型コロナウイルス禍に加え、サイバー攻撃で業務停止に追い込まれ、ダメ押しとなった。インターネットが社会に深く入り込み、生殺与奪を握ることを改めて印象づけた。
ネットが当たり前の存在になり、意識する場面は減っているが、自律的に発展して世界中をつなげたからこそ価値を発揮している。中国などの動きに加えてロシアのウクライナ侵攻によって、抱える課題があぶり出された。
解決するには多くの識者が指摘するように、粘り強い話し合いでコンセンサスを形成する以外にはない。ただ、残念なのはこうした場面で日本の存在感が低いことだ。人材を含めてどのような貢献ができるか、現状を直視して真剣に考えるべき時期を迎えている。