日本は水際対策見直しを ソフトパワー消失

 

By Leo Lewis

 

岸田文雄首相は1月17日の施政方針演説で「日本酒、焼酎、泡盛など文化資源のユネスコへの登録を目指すなど、日本の魅力を世界に発信していきます」と述べた。

新型コロナ対策の入国制限は、低水準の出生率が続く日本にとって、移民を受け入れるべきかどうかを考える機会になるのかもしれない=ロイター

この約束は、相当の説得力を発揮しなければ実現は難しいだろう。なぜなら日本の新型コロナウイルスと政治の状況を考えると、日本は今、すさまじいスピードでその魅力を失いつつあり、マイナスの領域へと突入しつつあるようにみえるからだ。

 

「これだけのソフトパワーが失われたことは過去ない」

日本政府は新型コロナのパンデミック(世界的大流行)への対応策の一環として2020年3月以降、観光や就労、研究、留学など目的に関係なく外国人の新規入国を厳しく制限している。日本経済新聞は21年10月22日付の記事で、在留資格の事前認定を受けながら新型コロナの水際対策で来日できていない外国人が、同10月1日時点で約37万人に上ると報じた。

この事態についていろいろな人から聞く話やインターネット上に上がっている激しい怒りの声の多さが何かの参考になるとすれば、こうした外国人の多くが日本への入国を諦めてしまった可能性があるということだ。

しかも1年延期されて21年夏に開かれた東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会では、何万人にも上る選手やチームのメンバー、大会関係者が周知の通り例外的に入国を許されたわけで、多くの人はこのことを不愉快に感じている。

東京オリンピック開催による感染者数の急増が懸念されていたほどではなかったと考えたとしても、オリンピックに関連してとったこの例外措置は、日本政府がいかに一貫性に欠く政策を展開してきたかという証拠として、当時もそうだったが、今後もずっと指摘されるだろう。

そして日本政府がこの厳しい水際規制を一向に緩和しようとしないことについては、ここへきて異例とも思えるほど様々な分野から強烈な批判の声が上がっている。だが各国とも感染拡大の予防措置をとっているわけで、日本の措置は他国より厳しいだけだとみることもできる。65歳以上が人口の30%近くを占めるにもかかわらず、新型コロナによる死亡率が比較的低いのは厳しい水際規制のおかげだという反論もある。

しかし、日本は何年にもわたり海外からの観光客や投資家、研究者、学生、企業を大歓迎する方針を取ってきただけに、新型コロナへの対応でこの姿勢が一気に消失したのは驚くべきことだ。ある日本のベテラン外交官は、これだけのソフトパワーがこれほど急速に失われたことは過去にないと語った。

 

「移民受け入れなければどうなるか」の実験との説も

だが別の解釈も成り立つ。日本政府が「もし移民を受け入れなければどうなるか」という実験をひそかに進めているという説だ。そんな実験ができるとは夢にも考えていなかったものの、新型コロナの登場で突如、机上の空論を実践してみることが可能になったというわけだ。

ここ数週間、国内外の様々な組織は日本政府に水際規制の見直しを懇願してきた。それは、ビザ保有者やビザ申請者の差し迫ったニーズのためだけではなく、日本が築いてきた長期的な国益のためでもある。

学者らは、海外研究者らの受け入れ拒否は研究に長期的にマイナスになるだけでなく、海外から優秀な人材を日本にひきつけること自体が今後、不可能になると警告している。金融関係者は、厳しい入国規制によって、世界の様々なファンドが以前なら無視できなかった日本市場への関心を失うことにつながると懸念している。

在日米国商工会議所の元会頭(編集注、クリストファー・ラフルアー氏)は先週、新規入国禁止措置の継続は企業活動の足かせとなり、世界的な金融センターを目指す東京の努力が水泡に帰すことになると発言した。

多くの人がここ数カ月、指摘しているように、日本には以前も似たことがあった。17世紀中ごろから19世紀にかけて日本は世界との接触をほとんど断った。後に「鎖国」と呼ばれた時代だ。だがこの鎖国が自国の弱体化を招いているという認識を余儀なくされ、苦渋の決断の末、開国に至り、日本の近代化は始まった。

しかし、今のところ水際規制への批判はあまり日本に影響を与えていないようだ。国境を閉ざす政策は、政治的観点からみれば当然の政策なのだろう。

海外からの観光客を相手にする産業が苦境に直面しようが、外国人労働者への依存度が高い業界が深刻な事態に陥ると予想できても、厳しい水際対策は現在、日本の有権者の圧倒的な支持を得ている。現状では、間違った政策だと誰をも説得できるような深刻な目に見える代償は生じていない。

 

水際規制は日本の強靱(きょうじん)さの証しか

この代償が痛みを伴うものになるという点が明らかになるまで、あるいはパンデミックが終息するまで、日本は移民受け入れゼロの実験を続けることができる。この実験が成功するかどうかは、この議論のどちらの側に立つかによって異なる。

もし日本が悲惨な事態に陥ることなく何とかやり過ごすことができれば、新型コロナ感染拡大が始まる前から外国人の流入増加に不満を募らせていた人や、日本はむしろガラパゴス的鎖国状態の方が活力にあふれ、順調に進化できるのではないかなどと深く信じている人たちを喜ばせることができるだろう。

一方で、今の水際規制が悲惨な結果をもたらすという警告がすべて正しいことが証明されれば、他の人たちはやっぱり警告は正しかったのだと悲嘆にくれることになる。

過去をひもといて、その歴史的な傾向から日本は「新たな鎖国政策」を採用したのだと結論づけるとしたら、それは今の水際規制が過剰に長く維持されると判断することになり、この厳しい水際対策が今、意味する本質的な重要性を見逃してしまうことになる。

日本では何年も外国人の流入が増加してきた。そしてまともな人々の間では、日本の将来は出生率の低下を外国人労働者で補うことができるかどうかにかかっていると真剣に考えられてきたにもかかわらず、日本の政治は移民の受け入れについて徹底した議論をすることを周到に避けてきた。

あと何年かは、そうしてやり過ごすことはできるかもしれない。だがきっかけが新型コロナという不幸なものであったとしても、今回の水際規制は日本の今後の政策を決めていく人々に少なくともある議論をする機会を提供したといえる。

つまり、新型コロナによる今の鎖国政策は、日本の強靱(きょうじん)さの証しなのか、それとも脆弱さの証しなのかという問いだ。

 

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