アナザーノート
人相が変わっていなかったあの政治家、天下国家を語る日は
秋山訓子
政治、NPO担当。日本政治がようやく面白くなりそう!
数年ぶりに会うその政治家の顔がどうなっているのか、想像できなかった。何しろ、最後に見た姿がつらいものだったから。
人は生きてきた道が顔に表れる。特に、頻繁に人と接し、人とたたかい、喜怒哀楽、毀誉褒貶(きよほうへん)激しい政治家はなおさらだ。
利権にまみれ、人を裏切り、あるいは落選して卑屈になり、すっかり人相が変わってしまった人。ずっと安定して変わらない人。生き生きと輝きを増し、華やかなオーラを発する人……。
その政治家とは、緒方林太郎衆院議員。旧民主党などを経て前々回の選挙では希望の党で落選。党をめぐる騒動と混乱に翻弄(ほんろう)されて「一度、この世界と距離を置きたい」と語っていた。政治家をやめるのかとも思われた。だが、無所属で今回の選挙に出て勝ち、永田町に戻ってきた。政党に所属せずここまで来るには並々ならぬ苦労があっただろう。
緒方議員の顔は変わっていなかった。というより以前よりもすっきりして見えた。何というのか、澄んだ感じとでも言えばいいか。
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東大から外務省、なぜ野党に
緒方議員は、東大3年の時に外交官試験に受かり、外務省勤務を経て政界入り……というと、恵まれたエリートという風情だが実はそうでもない。
今の選挙区である北九州市出身。父親は地元の新日鉄(当時)の工場勤めだった。小さい頃から勉強が出来て、県立高校から東大に入った。
「当時の東大の親の平均年収が1200万って言われていて。うちは400万くらいかなあ。ということは、2千万の人もいるわけで。別に気負っていたわけじゃないけど、そういう周囲に負けるもんか、とは思っていました」
父がNHKの海外ドキュメンタリーが好きだったこともあり、外国に行ってみたいと外交官を志す。「それまでの海外経験って、高校の時の部活の柔道の親善試合で、米国に行ったことあるだけだったんですけど(笑)」
弟がいて、家計に負担をかけたくないと3年生の時に外交官試験に合格、大学を中退して入省した。
フランス留学やセネガル勤務、9.11の時にアフガニスタンを担当し、通商交渉にも携わる。仕事は充実していたが、当時の民主党の政治家に「こっちにこないか」と声をかけられた。政治には関心があった。でも自民党じゃなくて良かったんですか?
「役人時代に自民党を見て、お金というか利権のにおいがするというか。それが好きじゃなかった。それに今のやり方を続けていたら少子高齢化の中、財政が破綻(はたん)する。政策を変えなければと思った。その志は今でも変わらないです」
だから野党を選んだ。出身地の選挙区に落ち着き、初出馬した2009年は政権交代の風に乗って小選挙区で当選した。が……。
「自民党のやり方がダメだから新しいモデルを作ろうと民主党が政権を担ったのに、自民党と同じことをやりたい、という人が多くて。幻滅しました」
党は急速に光と支持を失い、12年の選挙では惨敗。自身も比例復活もできず、落選した。
そこからひたすら地元で戸別訪問の日々が始まった。「田中角栄が、『握った手の数しか票は出ない』『天下国家はいつもそこにある。逃げも隠れもしない。当選してから天下国家を語れ』と言ったというので、そうしようと」
1カ月に600人と会うことを目標にした。するとある支持者に言われた。「もっと負荷をかけないと。千人と会ってこい」。
実践した。「月末26日になってまだ700人の時とかあって。4日間必死で回って1003人に達した時もありました」
14年の選挙は、比例復活の最下位に滑り込んだ。次点との差は63票。「千人と会う目標に切り替えて良かったと思いました」
2期目には予算委員会にも抜擢(ばってき)され、国会で活躍し始める。私が彼を知ったのもこの頃だ。政策に詳しく、的確な質問をする。官僚からも「痛いところをついてくる」と彼の名前を聞くようになった。
だが順調な時期は長くは続かなかった。
17年の総選挙で「希望の党」騒動が起きた。当時、民進党の県連代表。「希望の党は、政策も、党が比例上位で単独候補に出してきた人も自分の考えと違う。無所属でやりたかった」が、県連代表という立場で動けなかった。悶々(もんもん)としながら選挙に突入、落選した。
「もうバカらしくて。やってられるか」
全てを振り切るように永田町を去った。
「何も考えたくなくて、しばらくただぼけっとしてました。米国に留学してみようかなと思って資料を取り寄せたり」
半年くらいたち、もう一度自分が何をしたいのか考えた。
「これで終わったら、『そういや昔そんなやつがいたよね』で終わってしまう。それは悔しい」
こんなこともあった。街で見知らぬ70代くらいの女性に声をかけられた。「あなた、負けちゃだめよ。がんばって。期待しているんだから」。手をぎゅっと握られた。
立ち上がると決めた。
朝夕2回、1時間ずつ街角に立って演説を始めた。ビールケースの上にスピーカーを置いてひたすら訴える。夏の暑い日は500ミリリットルのペットボトルを3本前に置いてワイシャツに汗の粉を吹かせながら。冬の風吹きすさぶ日はカイロを体中に貼り付けて。2千回やった。
「最初は誰も聞いてないです。でも5回、10回と重なると認識してもらえる。人は、やる気を見ているんです」
そうやって帰ってきた。野党共闘もせず、共産党も立った選挙区で勝って。
「田中角栄の言っていたことは正しかった。政治家は、べたな地域活動も政策も両方できなきゃだめだと思う。『歌って踊れる』政治家じゃないと」
無所属であるがゆえの利点も感じた、という。「保守から左派系の方まで応援してくれました。無所属なら応援してやる、ってよく言われたんですよ」
私は彼の人相の理由がわかったような気がした。余計な雑念をそぎ落とし、自分がなぜ政治家をやりたいのかを突き詰めて考え、それに向かって極限まで努力したから。そして自信と楽観を身につけたのだ。
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いまの心境は
永田町に戻ってきた彼は、同じような無所属野党系の4人と会派を組んだ。とはいえ超ミニ会派で、国会での活動も限られる。
「いつまでも野党で終わるつもりはないですよ」
いつか必ず政党再編の時が来る、と考えている。その時に核となりたい。
「地元の近くには元炭鉱が多く、捨て石をボタっていうんですが、俺が日本社会の抱えるボタを全部担いで出てってやる。だから一度俺にやらせろって思ってます」。
彼が権力闘争の中枢に登場する日。「天下国家」を縦横無尽に語る日。その時が来たら、彼の顔がどうなっているか、見たい。
夏の参院選がその始まりとなる、だろうか。