「数学的思考の欠如」が経験に固執する企業を生む

 

「言うべきことを言わない」組織が生まれる理由

 

山本 直人 : コンサルタント/青山学院大学講師

 

 

「数学的思考」と組織の風土には、どのような関係があるのでしょうか(写真:horiphoto/PIXTA)

「数学が苦手で文系を選択した」という人の声がよく聞かれる。一方でデータサイエンス、AIなどがビジネスの重要なテーマとなり、数学的な素養が求められるようになった。数学が苦手だった文系出身者たちには、「これから、自分たちが損をするようになる?」という危機感が広がっている。『数学的に話す技術・書く技術』(曽布川拓也/山本直人著)は、ツールとしての数学の本質に触れつつ、ビジネスや社会との接点を明らかにしている1冊である。著者の1人で、自らも文系出身者である山本直人氏が「数学的思考」と組織の風土の関係について解説する。

 

一番「ジワリときた」2021年の言葉

毎年さまざまな流行語が生まれる。年末になれば、そうした流行語に賞を出すような企画もある。筆者の中での個人的な流行語大賞というほどのものでもないが、昨年、生まれたものの中で、ひどく引っかかったのはこの言葉だ。

 

「言うべきことを言わない、言われたことだけしかしない姿勢」

報道でも話題になったので覚えている方も多いかもしれない。これは、11月26日に金融庁が出した「みずほ銀行及びみずほフィナンシャルグループに対する行政処分について」という文書の中に書かれた一文である。

この一文は「システム上、ガバナンス上の問題の真因」としてあげられた4項目の1つだ。公文書というより、どちらかというと「入社1年目の振り返り研修」などで言われそうな言葉である。

「子供に対する説教のようだ」という声も聞いたし、精神論めいていると感じた方もいるだろう。しかし、この内容を聞いて「ゾッ」としたビジネスパーソンもまた多かったようだ。

先の一文に、いかにも日本的な、それもいまだに脱却できない「昭和の日本的な空気」を感じたからだと思う。そして、「ゾッ」としたビジネスパーソンが多かったのは、「言うべきことを言わない」「言われたことだけしかしない」姿勢が、私たち自身、身近な人々、そして所属している集団や組織にも多かれ少なかれあり、それを行政処分の公文書の中で厳しく指摘されたからだ。

そして、みずほは昨年末のトラブルで、年始早々に金融庁から報告命令を受けた。

筆者はみずほの風土や姿勢を批判しようとしているわけではない。ただし、「言うべきことを言わない、言われたことだけしかしない姿勢」の背後にある構造を探っていくことは、とても大切だと思っている。みずほに対する行政処分の話から始まったが、これから述べていくことは、みずほ以外の企業、組織の風土や行動にも広く通ずる話として考えてほしい。

 

「数学的思考」とは理系的スキルではない

「言うべきことを言わない、言われたことだけしかしない姿勢」が組織に醸成される理由はさまざまあるだろうが、中でも重要なのは「数学的思考」の欠如だと考えている。

そのように指摘をすると、いわゆる「文系社員」が幅を利かせている企業風土を連想されるかもしれない。またシステム開発において、理系人材が欠落しているようにイメージする方もいるだろう。

もちろんそのような課題もあるだろうが、ここでいう「数学的思考」というのは、もう少し広い意味で書いている。それはこのような意味だ。

ありのままを見て、都合の悪いことに目をつぶらず、もっとも適切な解を探し、オープンに議論をすること。
つまり、客観的かつ論理的に思考するということだ。そのためには「いま起きていること」を明らかにして、そこからの原因究明と解決への道筋をコツコツと探っていけばいい。

それは、当たり前だ。そんなことをなぜあらためて指摘するのか?

そう思われるかもしれないが、ここに組織の罠がある。「これは間違っているのでは?」と誰かが考えても声に上げなければ問題は放置されたままになる。

仮に問題点が指摘されたとしても、きちんと手順を踏んで取り組まれるとは限らない。あらゆる可能性を考えて、1つひとつ検証しながらベストの方法を探ろうとしたとすれば、大きなコストがかかることも多い。

「そこまでする必要があるのか?」という問いかけが地位の高い人から発せられた途端になし崩し的に中途半端な対策で終わってしまうことは多いのではないだろうか。

ここには、何の論理も存在していないのだ。

 

経験に頼るのはもっとも反数学的発想

この記事を読んでいるあなたに思い出してほしいことがある。数学の問題を解いているときに、「まあ、大体こうだろう」という解法はありえない。「今までもそうだったから、この角度は30°だ」と書いたらまず評価されない。

しかし、実際の組織ではそういうことがまかり通っているのだ。つまり経験に頼って判断しており、「誰が見ても納得できる」ような正しさが欠落している。

その原因もさまざまだが、いくつかのパターンがあると思う。

もっとも多いのは「出る杭回避」だ。「これはまずい」と思っても、声すら上げられない。目立っては損をする。見たいものだけを見て、みんなで合意したつもりになってしまうのだ。当然「言うべきこと」は声にもならない。

また「鶴の一声」というパターンもある。現場はキッチリとシミュレーションして、積み上げたプランを出したとしても、最後に否定されるのだ。当役員や経営者など絶対的な権力をもった人が、非論理的な結論を下す。場合によっては、それが第一線を退いた元経営者だったりすることもあるから、病根は深い。

しかも、否定の理由が「時期尚早」のような根拠のわからない一言だったりする。現場の士気は着実に下がっていく。

 

非論理の惰性の企業から人材が流出

それとは逆に「現場を抑えられない」というパターンもある。経営陣が精査して決断したことに現場が反発して、動きがとれなくなるのである。事業縮小や、営業組織改革などで見られることがある。

「現場主義」といえば聞こえがいいものの、結果としては感情に流されてしまっているのだ。これもまた客観性・論理性からはほど遠い行動だ。

こうした組織は、コツコツと論理を積み上げてきた人にとっては、大変に居心地が悪い。誰が見ても正解を書いたのに、「なんか違う」とバツになるようなものだ。

当然のように優秀な人材は流出していき、ますます経験則だけに固執する人々が企業の針路を決めるようになっていく。

そして、日本の企業はこうした「経験則だけに流される惰性の集団」がいまだに目立つ一方で、「客観と論理で動く推力の集団」は着実に増えつつある。現在は、その分化の真っ最中ではないだろうか。

 

論理を消失させてしまう同質性の恐怖

もう四半世紀にわたって日本の企業組織の課題は指摘されているにもかかわらず、なぜ惰性の集団は多いのだろうか。

もちろん海外の事例を研究しても、意思決定でしくじる例は多く見かける。そこには、客観性と論理性が欠けていることは同じだ。しかし、日本の場合は各業界のトップクラスの企業で同様の事例が相次ぎ、それは停滞する成長率や低い生産性に表れているのではないか。

そして、惰性の集団に共通するのは組織内で意思決定にかかわる人々の同質性の高さである。日本で教育を受けて、類似した経歴をもっている一定以上の年齢の男性の集団が目立つのだ。

しかも、同一企業に勤める「生え抜き」が多い。そもそも論理的なコミュニケーションは堅苦しいと言われかねないし、オフィスの外の遅い時間に大切なことが決まっていることもある。

一方で、いま注目されている企業を見ていくと、その人材が多様であると感じるし、実際にそのような傾向を見いだしている調査(McKinsey & Company , ”Why diversity matters”, 2015)もある。

国籍、性別はもちろん、さまざまなキャリアの人が集まれば、「あうんの呼吸」のような感覚は通用しない。そこで共通語となるのは、言語を問わない「論理性」だ。

数学は共通言語と言われる。それは数式などの記号や法則が共通であることはもちろんだが、その根底にある論理は誰もが共有できるからである。

だとすれば、「言うべきこと」は明確になり、それが少数意見であっても、集団の中で正しく検証されて、行動に反映されるはずだ。

もし、いまの組織の意思決定に不安や疑問があるのなら、「どのくらい数学的思考がなされているか?」という視点で見直してみるのも一考だろう。また数式以外の視点で、数学を学び直すのもいいかもしれない。

「言うべきことが言えない」というのが、数学的思考の欠落によるものではないか?という趣旨はご理解いただけただろうか。もっとも、この厳しい指摘をした金融庁にもやや疑問はある。

みずほのシステムトラブルは長期にわたっていたのだから、監督官庁も「言うべきこと」を先送りしていたように思えるのだ。