医療の進歩は早められる コロナワクチン開発が実証

 

ジリアン・テット

 

 

2020年春に新型コロナウイルスが米国を襲った時、米ペンシルベニア大学のジーン・ベネット教授(生物医学)は大事にしてきた実験用マウスの殺処分を始めた。

前代未聞の早さで開発された新型コロナウイルスワクチンの教訓を他分野でも再現すべきだ=ロイター

理由の1つ目は、コロナ対策のロックダウン(都市封鎖)によって研究室が部分的に閉鎖されたことだ。2つ目は、ベネット氏のチームが研究している盲目などコロナ以外の医学的課題に取り組むための研究資源や資金、そして人材をコロナ禍との戦いに取られたことだった。

それでもベネット氏の場合、ひとまずは安堵できる結果となった。チームは研究の一部をコロナ関連の調査研究に振り向けることで同氏はライフワークの一部を守ることができ、一部のマウスも殺さずに済んだ。

 

コロナで中止された研究

医学に携わる多くの人は、ベネット氏のようにはいかなかった。

視覚障害の治療・研究を支援する米国の非営利団体「ファンデーション・ファイティング・ブラインドネス(FFB)」の報告書は、「パンデミック(世界的大流行)以前に進められていた数千件に上る有望な臨床試験(治験)が中断され、なかには打ち切られたものさえあった」と指摘している。

今年もまだ約千件の治験が保留されており、このうち約2割が承認申請前の最終段階だ。この中で「約30%ががん、13%が心疾患、別途13%が中枢神経系に影響を及ぼす疾病の治療に取り組んでいる」

その結果、コロナ感染による犠牲者に加えて「非ウイルス関係の犠牲者」が今後増える公算が大きいと報告書は付け加えている。

これは悲劇にほかならない。そして、同時に2つの重要な疑問を投げかけている。1つ目は、未来の歴史学者が過去2年間の異常な時期を回顧した時、コロナ禍の直接的な影響と比べ、二次的、間接的、あるいは見えにくい被害をどう評価するかだ。

2つ目の疑問は、コロナ感染が収束した時に、コロナ禍で頓挫した計画を再開させる方法はあるのかという点だ。これは長期的損失を軽減するために最大限の手を打てるか、という問題も含む。

2つ目の問いに答えが出ない限り、1つ目の問いには答えられない。そして、この問いの結論がどうなるかはわからない。コロナ禍は、医学研究の長期的な未来について、以前より楽観的な気持ちにさせてくれる結果ももたらしたからだ。

 

研究費、分野によって不均衡

独立系の経済シンクタンク、米ミルケン研究所はコロナ禍という苦境のなかでの希望の光は「生物医学の研究者らが科学の前進、革新につながる行動をとったことだ。この進歩を特定、認識し、その基盤の上にさらに積み重ねていくことが極めて重要だ」と指摘している。

最も顕著だったのは、科学者たちがデジタルプラットフォームを使い、かつてないほど緊密に協力し合ったことだ。これにより、ワクチンが前代未聞のスピードで開発された。

一方、企業は政府と協力し、多額の資金を受け取った。もしこのひな型を医学の他分野でも実現できれば、ワクチン開発と同じくらい目覚ましい成果を確実に出せるだろうとミルケン研究所は指摘している。

ここで肝心なのは「もし」という一言だ。研究者らの力を結集する上で障害となるのは、盲目のような医学的課題については切迫感があまりないことだ。

もう一つの障害が研究資金だ。コロナ禍との戦いには多額の資金が捻出されたが、例えば膵臓(すいぞう)がんなど、生物医学研究の一部の分野はコロナ以前でさえ研究資源の確保に苦労しており、今後もその状況が続くとみられる。

研究資金の不足は、政府予算に制約が多いことが一因だ。各国で債務が増えるなか、制約は今後さらに増すだろう。

民間資金が投じる研究費が分野によって不均衡なことも背景にある。資金が潤沢なベンチャーキャピタル(VC)は成功しそうなベンチャー企業には大金を投じるが、初期段階の治験への資金提供には消極的なことが多い。大手製薬会社も、病気が少数の人にしか影響しない場合は支援を渋る。

「我々はこれを『死の谷』と呼んでいる」。FFBの報告書を執筆した金融コンサルタントで、自身も目が見えないために視覚障害研究の資金調達に深くかかわっているカレン・ペトロウ氏はこう話す。

科学者はしばしば、画期的な研究の初期段階については公的部門から資金をかき集めるが、研究を実証するための開発での資金の獲得には苦労する。「画期的な研究についての報道があっても、その後、何も聞かないことが多いのはこのためだ」

ペトロウ氏は「死の谷」の解決策をみつけたいと考えており、そのため米政府が300億ドル(約3.4兆円)相当の「バイオ債」を発行して民間投資家に販売する提案をまとめた。研究で何か問題が発生した場合、最初に出る損失は政府と慈善団体が負担する仕組みの債券だ。

この種の「ブレンドファイナンス(混合金融)」の概念は、米国の住宅市場で利用される金融商品で実証されている(住宅市場では米連邦住宅抵当公社=ファニーメイ=のような大きな団体が債券を保証している)。

 

混合金融、医学研究の資金調達に適切

だが、ペトロウ氏によると、このような仕組みは実は、むしろ医学研究の資金調達により適しているという。10月中に、この仕組みを推進する超党派の法案が米連邦議会の委員会で議論される可能性がある。

ペトロウ氏の論理は妥当に思えるかもしれないが、法案が日の目を見るかどうかは全く定かでない。議会はほかの政治的な戦いで頭がいっぱいになっており、ブレンドファイナンスという言葉は大抵、有権者には退屈に聞こえる。

もう一つの問題は、政治家も市民も集中力が持続しないことだ。コロナ禍のような大惨事が発生した時には医学研究への支持を得やすいが、がんや視覚障害など進展が遅い危機はさほど注目を集めない。研究が進まないことが原因で出る犠牲者は気づきにくいからだ。

だが、コロナ禍の脅威が薄れつつあるなか、こうした注目を集めにくい研究を無視し続ける理由は薄れている。新型コロナは、科学がなぜ重要なのか、大胆なアイデアのために財源をみつけた時に何ができるかを実証してみせた。この教訓を今こそ、万事において実現していく必要がある。

 

 

 

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