経済教室

 

科学にどう向き合うか 

 

基礎軽視・技術偏重に危うさ 

 

 

ジャンマルク・レヴィルブロン ニース大学名誉教授

Jean-Marc Levy-Leblond 40年生まれ。オルセー大博士(物理学)。専門は理論物理学

 

ポイント

○ 現在の科学進歩は古典的な理論が基盤に

○ 利潤追求第一の民間部門の影響力強まる

○科学者は科学の活動に関し広い視野持て

 

われわれの身の回りには科学知識に基づく技術があふれている。しかしながら、人類史でこうした状態が生じたのはごく最近のことだ。過去に技術的、文化的に発展していた多くの文明でさえ、現在の意味での科学活動は存在しなかった。

西洋で最も説得力のある例は、ギリシャとローマの比較だろう。ピタゴラス、アルキメデス、ユークリッドなど、ギリシャの科学者ならすぐに名前を挙げられる。反対にローマ帝国には彼らと同等の業績を持つ科学者は一人もいなかった。数世紀にわたり地中海地域を支配したローマ人には優れた建築家、エンジニア、戦略家、法学者、詩人はいたが、科学、つまり知識のための知識の生産に興味を示す者はあまりいなかった。

また8世紀以降、最先端の科学をけん引してきたアラブ・イスラム文明の人々も、12世紀になると科学から遠ざかった。

現状の科学は、ローマ時代のように基礎的な発見に無頓着なテクノサイエンス(技術重視の科学)に陥る恐れがある。もちろん現代の高度な技術発展が科学知識に基づくのは確かだが、科学と技術の結びつきは近代になってからのことだ。

「自然の支配者にして所有者になる」(デカルト「方法序説」、1637年)という計画は、始まったのが17世紀、実行に移されたのは18世紀末になってからだ。つまり技術が科学に基づくようになったのはそれほど昔のことではない。

 

◇   ◇

ところが今日、この結びつきが弱まっている。ここ数十年のテクノロジーの発展は、19世紀末から20世紀前半にかけての科学理論に基づいている。今日の電子機器(例えばテレビ、コンピューター、スマートフォン)は1930年代の量子論に基づく。また全地球測位システム(GPS)の精度は、アインシュタインの一般相対性理論(1915〜16年)を利用したものだ。

原子力も同様だ。原子核内に巨大なエネルギーが宿っていることが明らかになったのは30年代であり、このエネルギーを大規模に放出させる核分裂の発見は、悲劇的な偶然として第2次世界大戦前夜だった。生物学も同様だ。生物学における最後の飛躍は、50〜60年代の遺伝暗号の発見だ。

20世紀後半の基礎研究に基づく技術はあまり存在せず、ほとんど主要なものはない。現在の科学進歩は相対性理論、量子力学、遺伝学、情報工学など、今日では古典ともいえる枠組みを基盤とする。暗黒物質の正体など未解決の理論的な問題を解明して未踏の領域に踏み込むには、既存の理論基盤を見直すべきだろう。

要するにわれわれの文明は、新たな科学的な知識を得ることなくテクノロジーを発展させるローマ型へと回帰するかもしれない。例えば原子力発電の技術は石炭火力発電と同様、水を温めるだけという非常に古臭い原理に基づく。1世紀近くもの間、原子力エネルギーを直接電気に変える方法は見つかっていないのだ。

ほかの分野も事情は同じだ。作用する仕組みがよくわからなくても効能効果の高い医薬品は数多くある。また多くの新素材(例えば高温超伝導体、フラーレン、グラフェン)は純粋に経験からの産物だ。こうした状況は10世紀の中東バグダッドに合金理論を知らずして卓越した技術を持つ鍛冶屋がいたのと同様だ。

技術の発展は科学的な発見だけでなく、社会的な条件、特に経済的、軍事的な争点と強い結びつきがある。原子力の場合、軍事利用されなければ民生用として発展したかは疑わしい。42年に始まる米マンハッタン計画への巨額な投資を可能にしたのは戦時体制だ。

また今日の宇宙探査からは、人類の幸福よりも権力争いのための技術開発に資する際の口実として、科学が利用されていることがわかる。ロケットが商業テレコミュニケーションや軍事防衛のニーズに応えられなかったら、望遠鏡や惑星探査機を宇宙に送り込むことはできなかっただろう。

だが利益を追求する競争は過酷であり、市場の支配者たちは科学者を失望させることなど意に介さない。さらには、こうした技術開発は科学の妨げになることさえある。例えば、大量の通信衛星を打ち上げる米スペースXの巨大通信衛星網プロジェクト「スターリンク」は、天文観測に悪影響を及ぼす恐れがある。

真に問題にすべきは科学と技術の関係だけでなく、政治、経済と技術の関係だろう。福島第1原発事故の大惨事は、安全性よりも収益性を重視した産業界の不見識から生じた例証だ。

今日先端技術を手中に収めるのは米アマゾン・ドット・コム、米グーグル、米マイクロソフトなど、市場を支配し利潤追求を第一とする大企業だ。これらの企業は、多くの民主国家よりも大きな権力を持つ。民間部門の科学研究に対する影響力が強まったのだ(図参照)。これこそが、われわれの社会がテクノロジーの発展に関する集団管理能力を失いつつある理由だ。

しかも社会には人類学的な激変が生じている。テクノロジーの発展速度は世代更新サイクルを上回るだけに、われわれにはこれらの変化を理解し、制御し、導くための時間がない。だからこそ真の課題は政治なのだ。社会と文化よりも経済と商業に資することを目的とするテクノロジーの進歩を、われわれは民主的に管理できるだろうか。

 

◇   ◇

この悲観的、かつ現実的な見方を裏付けるように、多くの若者が基礎科学を敬遠するようになった。優秀な学生の多くは、研究者や学者になることに興味を示さない。学者の世界は知力よりも管理能力が求められると察したからだろうか。あるいは民間企業に就職するほうが自由を謳歌できると考えるからだろうか。

には全人類に利益をもたらすイノベーション(技術革新)につながる科学的な発見はいくつもあるだろう。それでも自然科学は社会科学や人文科学より優れているという考えは捨て去り、両者を同等に扱う必要がある。前者の専門家が後者の知識を深めれば、実りある交流が生まれる。

自然科学の授業には科学に関する歴史、哲学、社会学を加えるべきだ。こうした課程を経た将来の科学者は、細胞や脳、あるいは社会といった複雑な対象の研究の難しさを知り、謙虚さを身に付けるはずだ。同時に自分の仕事でのパワーゲームや、その社会経済的な背景や歴史的な変遷を理解できるようになる。そうなれば彼らは、研究職とは科学的真実だけでなく研究費を探求する仕事だと学ぶことになるかもしれない。

科学の活動に関して広い視野を持てば、研究活動はより豊かで喜びに満ち、さらには研究の効率も高まるはずだ。芸術や文学は科学的な発見の源泉だ。

基礎研究が技術の要請だけに支配されるのを防ぐため、われわれは科学知識がそのあらゆる側面で深遠な文化的な価値を持つことを再確認する必要がある。同時に科学をより良く共有および管理することで、そうした文化的価値に貢献していかなければならない。

 

 


 

 

科学にどう向き合うか 

 

生活者の役割・関与、重み増す 

 

 

佐倉統・東京大学教授

さくら・おさむ 60年生まれ。京都大博士(理学)。専門は科学技術社会論。理化学研究所チームリーダー

ポイント

○ 政治家と専門家集団との信頼関係醸成を

○ 科学技術の庇護者は国家から民間企業へ

○ 一般生活者の発想が専門家の限界を補う

 

 

コロナウイルス感染症の蔓延(まんえん)は、政治的判断と科学的知見の関係、あるいは政治家と専門家の関係がどうあるべきかについて、大きな課題を突きつけている。科学的知見に基づく専門家の意見と政治家による意思決定がしばしばかみ合わない。

こうした問題は日本に限らない。欧米諸国を含め世界中で混乱が生じている。また今に始まったことでもない。日本でいえば2011年の東日本大震災時の福島第1原子力発電所事故後の放射線被曝(ひばく)による健康リスク評価でも類似の問題点が顕著だった。

今回は原発事故後の対応に比べると、専門家の見解が政治的判断に取り込まれているようだ。東京五輪の多くの会場で最終的に無観客開催になったのも、官邸がしぶしぶとはいえ専門家の意見を重視したからだ。

一方で、相変わらず政治的意思決定と科学専門家集団の間はぎくしゃくしている。政治的判断の責任は本来政治家が負うべきだが、専門家の見解に押されてやむなく下したのだから、不利益の責任は専門家にあるとの構図を政治家が演出したようなこともあった。政治家があまりに判断を先延ばしにするので、業を煮やした専門家がソーシャルメディアなどで直接見解を公表したこともあった。

政治家たちは専門的知見との距離感をつかみかねていると言わざるを得ない。

こうした状況について、多様な分野の専門家たちの意見を集約して最終的な判断を下すのは政治家の役目だと言われる。正論ではあるが、現実問題として政治家がいつもそのように機能するとは限らない。

そもそも政治家の多くにとって、意思決定の際の判断材料の一つに、次の選挙で当選できるかどうかがある。総選挙が近づいているとなれば、その比重はさらに増すだろう。だとすれば、国民の不満を引き起こすような感染症対策を率先してとることは、政治家には元来難しいのかもしれない。

 

◇   ◇

ではどうすればよいのか。一発で解決できる秘策はないが、いくつかの対応策を組み合わせて状況を改善することはできるだろう。ただ、いずれも平常時に備えておくべき事柄であるうえ、効果が出るまでには時間を要する話である。

まず第1は、政治家と専門家集団との間の信頼関係を醸成する機会を増やすことだ。科学技術や医療などの専門家といっても分野は多岐にわたる。学会名鑑によると、日本には20年時点で2075の学会がある。将来生じうる災害やリスクのすべてに関して、該当する専門家たちを事前登録しておくことは不可能だ。

そうではなく、専門家のエージェント(代理人)たりうる人物を首相の近くに置き、密なコミュニケーションを平常時から形成しておくべきではないか。このエージェントは、科学技術や医療関係の専門的知見もある程度持っていて、なおかつ政治的・社会的な文脈についても理解できる人材でなくてはならない。

日本には内閣府の管轄下に総合科学技術・イノベーション会議があり、日本の科学技術全般についての戦略や方針を決めていく作業を担っている。だがリスク管理を含めて専門家集団とのパイプ役として機能しているようにはみえない。

立場としては、むしろ日本学術会議の会長がこのエージェントに近い。学術会議は日本の諸学術専門団体を束ねている組織だ。その会長には、学術会議の各専門部会からの情報も届く。首相は学術会議を目の敵にしている場合ではない。学術会議と信頼関係を築き、統治に有益な知見を引き出す才覚と度量が、政治的リーダーには求められる。

科学技術が社会にとって大きな存在になったのは最近だから、統治権力者がそれに疎いのはやむを得ないなどと思ってはいけない。

古来、中国でもエジプトでもインドでも、人類が文明を築きだしたときから、科学技術を適切に管理して人々の生活を安定させることは統治者の重要な使命だった。星の運行を読み解いて生活のサイクルに合った暦を作成したり、河川の氾濫を予測して的確に管理したり、優れた武器を開発・整備して自国の勢力を維持・拡大したり、そうしたことすべてが優れた統治者たるための必要条件だった。

科学技術およびその専門家集団を味方にできない統治者は、権力を維持できなかったのである。それが人類の歴史の示すところだ。

 

◇   ◇

政治的意思決定と専門家の意見との関係を改善するために重要なもう一つのアクター(関係者)は一般生活者である。政治的意思決定のプロセスに一般国民が参画するのは難しい。だがフィードバックを、より早く、的確にすることはできるだろう。現在、新型コロナ対策への批判や不満がソーシャルメディアにあふれている。内容を精査し系統だったものにして、国民からの生の声として表明していくことはできるはずだ。NPOや大学の研究者がそうした活動のハブ(中核)となることも可能だろうし、その兆しもみられる。

科学技術と社会の関係を歴史的に振り返ると、昔から科学技術の専門家集団が自律した職域として確立していたわけではない。17世紀欧州のように地方領主や王家がパトロンとなり、科学者を庇護(ひご)することで研究が成り立っていた時代もある。19世紀後半か20世紀前半にかけては、帝国主義的国民国家が国力増強のために中央集権的に科学技術者を養成していた。

日本の明治期の富国強兵政策は後者の代表例だ。日本が近代化・工業化を短期間で成功させられた一因は、明治政府が科学技術や専門家たちを鼓舞・庇護してきたことにある。

2度の世界大戦とその後の米ソ冷戦を経て、国家は科学技術の主たるパトロンであり続けてきた。だが20世紀後半からは民間企業が科学技術の重要なステークホルダー(利害関係者)として大きな役割を占めるようになった。特に生命医科学や情報科学の分野ではその傾向が著しい。昨今、人工知能(AI)研究の一番の担い手は米グーグルだ。

だがいつまでもこうした構図が続くとは限らない。科学技術の次世代の主要ステークホルダーの一つは間違いなく一般生活者だ。

市民参画型の研究開発や、障害のある当事者たちが自らの言葉と概念で病態を語る当事者研究など、生活者が科学技術の専門家に働きかけ、あるいは専門家の一翼を担う形で、旧来の専門家たちには見えなかった領域や課題に取り組む事例が増えている。

新型コロナ感染拡大への対応では、ニュージーランドや台湾などが生活者の心情を的確に反映した方法で成功している。女性やトランスジェンダーの人がリーダーシップを取っているのは、偶然なのかどうか。

後世から振り返ると、新型コロナのパンデミック(世界的流行)は、生活者が科学技術の主たる担い手となる時代への転換点として位置づけられるかもしれない。暗く苦しい時ではあるが、新しい時代への幕開けとなることを祈りたい。

 

 

 

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