うたごころは科学する

 

進化論と宗教

 

坂井修一

 

 

アメリカ国民の4割は今も進化論を信じていない――そういう記事が新聞に載ることがある。

その中には、社会的に影響力のある国会議員や科学者も含まれるという。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。これらの一神教は、旧約聖書を教典の一つとする。そこには、創造主である神が、生物を「種類に従って」作ったとある(「創世記」)。これは、「今の生物は、世代を経る中で変化してできてきたもの」とする進化論と矛盾する。

アメリカ人の8割はキリスト教徒。その中で聖書が無謬(むびゅう)と考える人がどれほどの割合を占めるのか、寡聞にして私は知らないが、この方々は当然進化論を信じないだろう。逆に、19世紀以来の進化生物学の成果を正しいと考える人たちは、「創世記」の記述には違和感を覚えるだろう。

私は後者に属する人間だが、それでも、旧約聖書のエレミヤの嘆きに共感し、新約聖書の「山上の垂訓」のキリストの言葉を大切にすることはできる――信仰をもたない自分は、聖書や仏典を、ときには警句集のように、ときには文学書のように読んできた。自分にはそれで十分だったし、これからもそうではないかと思う。

遺伝子を改変することによって人間を人工的に進化させる。そんなことが現実に考えられる時代になった。遺伝子操作で好みの子供を作る「デザイナー・ベイビー」の話だ。

秀才で性格良く、眉目秀麗でスポーツ万能の子供がほしい。そう思うのは親の常かもしれない。たしかにそういう子供は親の自慢の種となるだろうが、彼(女)が本当に幸せになれるかと言われれば、そうでもないと私は思う。人間性豊かな大人に育つかといえば、これも違うような気がする。むしろ才能も性格も凹凸のある人間のほうが、試行錯誤を繰り返しながら面白味のある毎日を過ごし、彫り深い人生を歩むのではないか。

もっと広げて言えば、理想的な「進化」など存在しないということになりそうだ。宗教も科学もこれとは矛盾しないのではないかと思うが、いかがだろうか。

(歌人・情報科学者)

 

 

 

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