日本のリーダー「危機を語らず隠す」が招く大迷走

 

このコロナ対応を「失敗の本質」著者はどう見るか

 

船橋 洋一 : アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長

 

 

コロナ禍の対応で日本が迷走している。PCR検査体制、医療体制、ワクチン接種体制、緊急事態宣言など、どれをとっても政府・自治体の対応は後手を踏み、長期にわたる行動制限が我慢の限界に達しつつある民心には政府への不信が募っている。未曽有の危機に直面する日本の今に、何が求められ、何が足りないのか――。

約40年にわたり読み継がれている名著『失敗の本質』で旧日本軍の失敗を分析した戸部良一氏と、独立系シンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ」(API)を率い、福島原発事故と新型コロナウイルス感染症対策の民間調査を実施した船橋洋一氏が、日本の課題を4回にわたって話し合う。

 

「敗戦」とは呼びたくない


船橋 洋一(以下、船橋):今年の3月で東日本大震災と福島の原発事故から10年の節目を迎えましたが、今、日本だけでなく世界は新型コロナウイルス感染症のパンデミックの渦中にあります。先の戦争とフクシマ、そして今回のパンデミックはさまざまな意味において、私たちが経験した大きな危機ですが、私はまだ、日本のコロナとの戦いを「敗戦」とは呼びたくないと思っています。

今後、局面がどう変わるかまだ予断を許しません。この1年半、それこそオセロゲームのように、中国、イタリア、イギリス、アメリカ、ブラジルなど感染爆発の局面はその都度、変わり、今はインドが大変な状況に陥っています。

また、世界的に接種が進んだとしても、インド株をはじめとする変異株に対して今のワクチンの有効性はいつまで、どこまで持続するのかという問題も浮上しています。ワクチンはパンデミック収束の切り札とはならず、変異株とワクチン開発のいたちごっこになる可能性すらあります。ですから、そのような状況で、結論を出すのはまだ早いと思うのです。

しかし、これまでの日本政府の対応を見ていると、例えば、デジタル活用では後れを取ったと感じます。中国が感染対策にICT技術やAI技術を駆使したのに対し、日本ではトラッキング、隔離、通知・警告、データ収集・分析のいずれの分野でもデジタル技術のイノベーションを使いきれなかった。「デジタル敗戦」は否定できない。

また、残念ながらワクチンに関しても、開発・生産体制、承認体制、接種体制のいずれを見ても、「三周半遅れ」(民間臨調報告書)で喘いでいる。「ワクチン敗戦」と言われてもしょうがない。世界の日本を見る目もすっかり変わってしまっています。

1990年代の金融危機、2011年の福島原発危機、そして今回のコロナ危機と、国家的危機に対して政府が対応に失敗するたびに、読み返すのが『失敗の本質』です。この本は、戸部さんや野中郁次郎さんをはじめとする各分野の研究者の共同研究の成果です。1984年にダイヤモンド社から刊行された、日本軍の失敗を研究した名著ですが、その後、中央公論新社で文庫化され実に70刷を刻んでいます。

コロナ危機はまだ進行形ですが、フクシマの経験も含め、日本の危機対応について、戦前の日本軍の失敗に照らして、何が問われているのか。さまざまな観点から日本の課題について伺いたいと思います。

戸部 良一(以下、戸部):『失敗の本質』は40年近く前に出版した本ですが、実は福島の原発事故の際にもよく読まれました。そして、今回も思い出していただいたということで、著者の1人としては大変うれしいことなのですが、これほど多くの方々に読んでいただいているにもかかわらず、同じことが繰り返されているとすれば、こんなに悲しいことはないとも思います。

コロナやフクシマの話に入る前に、前もって申し上げておきますと、『失敗の本質』で取り上げているのは「目に見える」敵との戦いです。が、フクシマの場合も、コロナの場合も敵は目に見えません。もっとはっきり申し上げると、意志を持たない敵との戦いです。そこは、切り分けて考えなくてはならないと思います。

 

戦争の場合には相手も意志を持っていますから、ある程度、予想や予測を立てることができます。もちろん、相手に予想を裏切られる場合もありますが、相手の文脈で考えることができれば予想は立てられます。

しかし、意志を持たない敵の行動を予測することは難しいと思います。科学的な知見の蓄積で、ある程度は根拠を持って予想できるところもあるとは思いますが、ここが目に見える敵との戦いとは違うということは、前提として理解しておかなければなりません。

もう1つ、顕著な違いがあります。『失敗の本質』では6つのケースを扱っていますが、そのうち、ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦の5つは自ら攻めていった戦いで、相手から攻められたケースは沖縄戦だけです。つまり、私たちが分析した日本軍の戦いの大半は自ら攻めた戦いです。

一方、コロナもフクシマも、ある意味で、攻められている戦いで、その違いはあるのだと思います。だからどうした、と問われると、それに対する回答を持ち合わせているわけではありませんが、違いがあることは考えておく必要があると思います。

 

官僚制の本質は戦前から変わっていない

船橋:私どものシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ=API」(当時、日本再建イニシアティブ=RJIF)は福島の原発事故の際に、民間事故調査委員会を立ち上げ、調査・検証し、報告書を作成しました。それとは別に私自身、その後も取材を続け、危機の現場の様々な姿を拙著『フクシマ戦記』(文芸春秋社刊)で描き、今年刊行しました。

そこで痛感したのは、日本のガバナンスには深刻な問題があるということでした。とくに、リスク評価とリスク管理のギャップ、各省庁の司司のタコツボ・縄張り、そしてリスクを引き受け、ガバナンスを効かすリーダーシップの不在といった問題です。戸部さんがご覧になって、どこに問題があるとお考えですか。

戸部:『フクシマ戦記』を拝読して、最も興味深かったのは「戦記」と表現されていたことです。確かにそうだな、という思いを強くしました。私の問題意識に添って申し上げると、最も関心を持ったのは、官僚制とリーダーシップの問題です。船橋さんも『フクシマ戦記』で言及しておられますが、官僚制の本質は戦前の日本軍の時代から変わっておらず、そこに問題があるということだろうと思います。

ただ、官僚制の弊害は、日本だけではなくどの国の官僚制にも付きまとう問題で、いわば官僚制の逆機能として発現するものだと思います。それが日本の場合、危機が最高潮に達している最も大切な場面で出てしまうという特徴があり、その原因を考えることが課題だろうと思います。

リーダーシップ論については、『フクシマ戦記』で当時の民主党政権の菅直人首相を厳しく批判しながらも、「彼がいたから持った」と指摘されているところが意外で、ちょっと菅さんを見直したというところがありました。

 

もう1つ、余計なことかもしれませんが、日本の問題を考える際、文化論に落とし込むことの危険性を指摘しておきたいと思います。私は防衛大学校の国際関係学科で教鞭をとっていましたが、それは当時から学生に口を酸っぱくして指導していたことです。さまざまなケースを分析した後に、その原因を日本的な文化やその欠陥に求めたのでは、実は何も言っていないことと同じで、その結論は逃げでしかありません。

ところが、その後に国際日本文化研究センターに身を移しましたが、そこには、多くの研究者が「日本独特なもの」と口を揃える“文化”がありまして、大変なところに来てしまったと思いましたが、やはり、「日本的」「日本の文化」というところに逃げずに、問題の本質を突き詰めることが必要だと思います。

船橋さんも、『原発敗戦』(文春新書)で、文化決定論は無責任と敗北主義をもたらすだけだと警鐘を鳴らされていたと記憶しています。

 

文化に流し込むと教訓を得るのが難しい

船橋:以前に、昭和史家の半藤利一さんと『原発敗戦』について対談したことがあるんですが、私が失敗の本質は文化ではないと主張したのに対して、半藤さんは「いや、それでも日本の問題は、最後は文化だ」だとおっしゃっていましたね。私は、危機に当たってのガバナンスは、当事者と担当者の個々人の判断、役割、責任が重要で、それを文化のせいとするのは個人の役割や責任をあいまいにする危険があると思います。

どこの、どいつが、どうしたことが問題だった、ということを突き止めることが重要だと思います。文化に流しこむと、教訓を得るのが難しい。学習の芽を摘んでしまう危険がある。もちろん、組織としての対応の可否を問うときに組織文化の問題はあると思います。ただ、その場合も、人事制度、昇進制度、報奨制度、コンプライアンス制度、法制度、判例、メディアの取り上げ方などの組織文化を成り立たせる構造と状況があります。むしろ、そちらを分析することが重要だと思っています。

船橋:ここで、官僚制とリーダーシップという問題提起をいただきました。それに関連して、まず、コロナとの戦いについて伺います。

菅政権は7月末までに高齢者全員に対してワクチンの2回接種を終えると、大見得を切りました。1日、100万回の接種という大号令です。ただ、これまで1年間のPCR等検査の実施状況を見ても、こんな数字本当に達成できるのか、と国民も半信半疑なのではないでしょうか。私も高齢者の1人で、住まいは横浜の鶴見区ですが、接種券は届いたものの昨日(5月10日)50回ほど電話してもつながらない状態です。

そんな状況にもかかわらず、誰も菅首相に「総理、それは無理です」と言わなくなっているんじゃないか、「数合わせ」と「忖度」の危機管理になってしまっているのではないか、と危惧しています。

もう1つ、対策に優先順位が付けられていないのではないかとも感じます。PCR等検査とワクチンは最大限、必要な資源を投入して、断行する最優先順位課題ではなかったのか。またしても、「逐次投入、小出し」の様相を呈しているようです。この辺りは、どうご覧になっていますか。

 

リーダーは危機を率直に語るべき

戸部:私は昔のことしかわかりませんので、その辺をわきまえて申し上げますが、今はテレビがあり、SNSがありということで、指導者は頻繁に国民の目にさらされています。戦前は、日本だけでなくどの国でもそんなことはありませんでした。せいぜいラジオがあったぐらいです。

で、議会の場やラジオを使って国民を説得するわけですが、例えば、チャーチルやルーズベルトの演説を文字で読む限り、指導者は数字を出して細かいことは言っていません。むしろ、今の状況がどれほど逼迫しているかということをストレートに話して、打ち克つために何をすべきかを端的に訴えています。その違いだと思います。

「血と涙と汗しか提供できるものはない」というチャーチルの有名な演説がありますが、そのときも、ドイツ軍は強いと言って、いかにイギリスが危機的な状況にあるかを率直に述べています。

船橋:「数字を出して細かいことは言わない」ですか。危機の時、リーダーが国民に伝えるべきは数字でもない、細部ではない、ということですね。

戸部:きちっと危機の状況を言わないと結局、説得力がないのではないでしょうか。数字は専門家が言えばいいのであって、リーダーは率直に危機について語るべきです。

船橋:これは、リスク評価とリスク管理に関わるテーマですが、フクシマでもコロナでも、今は大変な状況なのだということを言うと、国民がパニックになるのではないかと恐れて、リーダーは危機の実体と有事の対応策を真正面から言うことをためらう傾向があります。福島原発事故前までの原子力安全規制側の決まり文句は「住民に不必要な不安と誤解を与える」ようなことはしない、というものでした。

戦中の大本営発表と同じだとまでは言いませんが、国民が不安になるようなことを言うのはできるだけ避け、「いい知らせ」だけを伝えようとする。国民に安全と安心を保証する政治は間違ってはいませんが、ややもすれば安心を優先させその結果安全を犠牲にしてしまっているということがあるのではないでしょうか。

 

安心ポピュリズム

私はそれを「安心ポピュリズム」と名付けているのですが、与党も野党もメディアも、そしてほかならぬ国民も安心を要求します。そしてその結果、人々を不安にしかねない「リスク評価」、そうした「想定外」を織り込んだ訓練、有事に備えた法制度改正、「最悪のシナリオ」策定などのタフな案件は敬遠されるのです。この「安心ポピュリズム」、戦前はどうだったのでしょうか。

戸部:それは大変難しい問題ですが、恐らく、指導者が国民をどの程度信用しているかということに関係しています。船橋さんご指摘の「安心ポピュリズム」は、ある種の愚民観によって立っているのだと思います。国民を信用していれば、政府や指導者が持つ正確な情報をストレートに伝えるはずです。

私は、多くの国民は理解する、と楽観的に思うのですが、政府が正確に情報を伝え、国民が冷静にそれを受け止めるということを繰り返し、慣れていかなければ、何時まで経っても、政府が本当のことは隠すという状況は続くのだと思います。

 

またチャーチルの話になりますが、ドイツとの交戦中、ロンドンに夜間の爆撃が集中していったときのことです。このとき、ドイツの侵攻を食い止めるため、イギリス軍は航空機とパイロットを温存する必要があり、夜間の爆撃には全力で反撃していませんでした。

ある評伝によると、チャーチルが爆撃を受けた町を翌朝、慰問に訪れたとき、そこで多くの住民に囲まれてしまいました。チャーチルは一瞬、危険を感じましたが、住民は怒って首相を囲んだのではなく共感を示すために集まってきたというのです。帰りの車中でチャーチルは感涙したとも伝えられています。

このエピソードがどこまで事実なのかはわかりませんが、指導者が率直に状況を語ることの重要性をよく示していると思います。指導者が真実を率直に語っているからこそ、国民も状況を理解し受け容れたのではないでしょうか。

 

 

 

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