人間発見
役に立つお寺に(1)
全日本仏教会理事長 戸松義晴さん
宗教は役に立たなければならない。主要59宗派を統括する全日本仏教会理事長の戸松義晴さん(67)は、自らの信念を愚直に実行する日本仏教界のトップだ。米ハーバード大で神学を学んだ異色の経歴。タブーを排した議論に挑み、世間とのズレを直視する。感染症に疲弊する社会。「今役に立たなければ寺はなくなる」。危機感がにじむ。
東京のど真ん中、港区東麻布にある心光院という浄土宗の寺に生まれ育ちました。江戸時代は近くにある大本山・増上寺の別院でした。父も祖父も僧侶ですが、家を継ぐつもりはありませんでした。ただ大学時代から法事を手伝うようになり、死ねば極楽浄土に行くというのは単純に信じていましたね。
心光院の住職を務めながら、母校の慶応大学で、医学部生に死に関する講義をしたこともあります。今は国際医療福祉大学で生命倫理を英語で教えています。例えば、体外受精や代理母など「神の領域」ともいわれる生殖補助医療の問題について学生と考えます。仏教の立場でいえば、どこまで人間の欲望を拡大するのかという問題です。
生殖補助医療は単に子どもをつくるだけでなく「背が高く美人で頭のいい子が欲しい」という欲望も満たせます。それは否定すべきか。例えば、お寺もかかわるお見合いの「釣書」には両親の学歴まで書いてある。「これなら生まれてくる子はハンサムで頭が良くなるね」などと坊さんも普通に言うのです。一体何が違うのか。現実に起きている問題を常に考えます。
新型コロナウイルス禍の20年8月に全日本仏教会が行った実態調査で、寺院・僧侶に求める役割は「不安な人たちに寄り添う」が3割強に急増。前年まで最多だった「特にない」は大幅に減った。
とても驚きました。お寺離れが進む中、私たちがこれほど求められたことはなかったからです。不安の中にいる人が大勢います。不安に寄り添うことこそ仏教の役割です。「ありがたい」と思いました。ところが、最近の葬儀社との会合では「コロナで収入が減っている人にも、高いお布施を要求する例が後を絶たない」と苦言が出ました。せっかくの期待を落胆に変えてしまっているのです。
社会の役に立たないものは例外なく消えていきます。私たちは檀家以外の圧倒的多くの人たちのために何もしてきませんでした。結果的に仏教界は世間とのズレを自覚できないまま多様な考え方を排除してきたのではないかと思います。
上意下達で同じ方向を向いて組織で動く時代から、一人ひとりが情報を得て個人の価値観で生きる時代です。例えば「戒名はいらない」「位牌(いはい)はいらない」といったオーダーメードへの対応が必要です。
日本人の多くは特定の宗教を持たない「困ったときの神頼み」だと思いますが、私たちはそれに応えなければなりません。「今役に立たなくていつ役に立つんだ」。本当に変わらなければいけないと覚悟しています。
役に立つお寺に(2)
全日本仏教会理事長 戸松義晴さん
東京タワーの真下にある心光院の長男として生まれた
生まれ育った実家の浄土宗・心光院(東京・港)は東京タワーのほぼ真下。寺の中は都心とは思えない静けさだ。表門と本堂は国の登録有形文化財。木と鉄の建築美が対比する。
4、5歳の頃、東京タワーができる様子を自宅から眺めていました。当時は今のような大型クレーンもなく、トビ職人が下から組み上げた。落下事故もありました。塗装のペンキが風に乗ってお墓に飛んでくることもよくありましたね。
お寺の裏の墓地からはタワーを真下から見上げるアングルになるんです。自由に入れますからよく外国人観光客が写真を撮りに来ます。おそらく撮影スポットとして誰かが紹介したのでしょう。
寺は保育園も経営していて、父が園長の「心光保育園」に通いました。戦後の復興期で共働き夫婦が増え始めた頃。地域の若い夫婦の要望で始めたようです。今思うと、それも社会に役立つ寺の実践だったと思います。やはり僧侶だった祖父は近所の子どもたちのために受験塾も開いて無償で勉強を教えていました。文字通り寺子屋です。
祖父は法話も上手でしたが、とても実践的な人でした。ある日、祖父が葬儀をしたお檀家さんの家に「これを届けてくれ」と頼まれました。いただいたお布施に3万円を足した現金でした。「私が行ったら受け取らないから、おじいちゃんからのお供えですと言って、おまえが渡してこい」と。そのお檀家さんは家族も病気で大変な時でした。その場面はよく覚えています。本当に困っている人には、実際に役に立たないといけない。そう学びました。
越境入学で麻布小学校に通い、進学校の芝中学、芝高校で学んだ。
中学の頃から黒人のソウル音楽に夢中になり、FEN(米極東軍放送網)のラジオをむさぼるように聴きました。夜中の2時から始まる番組を聴くのが日課。朝起きられなくて、1時間目の鐘を聞いてから家を飛び出すこともよくありました。
遅刻も多く先生ににらまれていましたが、問題を起こしても成績さえ良ければ退学にはならないんですね。それで、試験の前だけは友達のノートを借りて集中して勉強しました。「自分ならどんな問題を出すか」を予想して山をかけ、それが結構当たるので友達からも信頼されて調子に乗っていた。要するに要領だけで乗り切ったわけです。
高校2年の実力テストで自分の力を思い知らされます。150点満点で100点以上取れば東大、早慶に入れるといわれていました。自分でも驚きましたが私は9点でした。そこから1日15時間勉強して現役で慶応の文学部に入りました。
大学紛争の時代でしたが、相変わらずソウル音楽ばかり聴いていました。寺を継ごうと思ったことに明確な理由は実はありません。ただ、約450軒のお檀家さんたちとの関係が切れるのが何だかとても寂しかった。かわいがられていましたから。祖父や父が築いてきた人のつながりが、結局決め手でした。
役に立つお寺に(3)
全日本仏教会理事長 戸松義晴さん
ハーバードではアジアからの留学生に支えられた(右から2人目が戸松さん)
慶応大学を卒業後、僧侶になるため大正大学大学院で仏教の勉強を重ねた。さらに米ハーバード大学大学院の神学校に留学し、キリスト教の社会性や生命倫理を学んだ。
大正大学時代に結婚し、ハーバード時代に子どもが生まれました。妻と子も最初はボストンで一緒に暮らしましたが、大学の勉強がハード過ぎました。部屋から空港が見えるのですが、朝6時の1番機を見る日が多かった。夜中にミルクをやるのが私の役目で、ある夜ミルクの後のゲップをさせたら、宿題のペーパーの上にミルクを吐いて、全部ダメになったこともありました。結局、私に余裕がなさ過ぎて、妻と子は帰国しました。
授業はキリスト教が社会にどう貢献できるのかをケーススタディーで学びます。フェミニスト問題や医療倫理と宗教の関わりなどもディスカッションしました。ハーバードはとてもリベラルで、キリスト教がいかに労働搾取と環境破壊を繰り返してきたかも語られます。徹底した現実主義で、エイズ患者や売春団体の女性幹部を招いて講義してもらう授業は刺激的でした。
「力なき正義は無力なり。正義無き力は暴力なり」という空手家、大山倍達の言葉がある。戸松さんはこの言葉を実行するアメリカの考え方に衝撃を受けた。
その名も「正義と力と金」という授業がありました。正義とは何か。力だと言うのです。平時はカネの力。有事は軍事力です。キリスト教神学も力を重視する傾向があります。「絶対的な正義がある」という立場を取るからです。正義を脅かす悪を殺すことは問題ない。むしろ悪を滅ぼさないと正義がやられると考えます。「ヨシ、話し合いで解決した紛争が歴史上あったら教えてくれ」と言われました。
これが、絶対的な善も悪もないと考える仏教とは隔絶しています。大ヒットしている漫画「鬼滅の刃」は仏教の教えそのものです。鬼ももともとは人間で、事情があって鬼になっている。一方、人間にも鬼の要素がある。善の中にも悪があり、悪の中にも善がある。絶対正義ではなく多様性を認める立場です。
ハーバード時代に忘れられない出会いがある。ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンだ。ダライ・ラマと並ぶ世界的な仏教指導者で「行動する仏教」(エンゲージド・ブッディズム)を説いた。
今注目されているマインドフルネスという座禅に基づく瞑想法はハン師が最初に提唱し、私も普及にかかわりました。1991年、ベトナム難民の僧侶とチベット人難民の僧侶と3人でボストンでお会いし、短い修行に参加しました。エンゲージド・ブッディズムは「社会から離れて悟りはあるのか」という疑問を持ち「仏の慈悲は思いではなくアクションだ」と。それこそが私のやりたいことでした。
神学修士を取得して帰国後、私はそれまで以上に「現実に問題が解決しなければ意味がないじゃないか」と考えるようになりました。そんなことを口にしているとどうなるか。周りから嫌われるようになりました。
役に立つお寺に(4)
全日本仏教会理事長 戸松義晴さん
「不透明なお布施問題」など取り上げにくいテーマについても積極的に発信してきた
原子力発電や性的マイノリティーなど取り上げにくいテーマに積極的にかかわってきた。最大の課題は「不透明なお布施問題」だ。
お布施で嫌な思いをした方はたくさんいらっしゃるでしょう。私たち仏教界が抱えている最大の問題です。私の身内でも葬儀や戒名料など総額で500万円以上もお寺から要求されたことがあります。お布施は儀式や戒名への対価ではなく、あくまで「お気持ち」です。定価はありません。ところが、実際にはとんでもなく高い金額を要求するお寺があるのも事実です。
問題なのは、悲しみにくれる家族に対し追い打ちをかけるような金額を平気で言い苦しませてしまうことです。東日本大震災の被災者に高額の負担を求めた例さえあります。「お布施は気持ち」と言いながら「高額を要求する」ダブルスタンダードがまかり通っている。これでは信頼を失い、葬式離れ、戒名離れが起きるのは当然です。
お寺の信頼を得るために会計の公開も必要と考える。
ではどうすればいいか。お寺は個別の法人として独立しているので我々が強制はできないのですが、私は寺の会計を公開すべきだと思います。
各寺の収入と支出を見てもらい、お布施の参考にしてもらう。さらに言えば、信頼できないお寺やお坊さんとの付き合いはやめた方がいいです。遺族に無理な負担を強いるようでは、故人の供養はできませんから。
僧侶の派遣ビジネスがはやるのも、お布施の不透明さに一因があります。イオングループなど葬儀サービスを提供する企業とも率直な議論を重ねています。ただ、どれだけ改善できているか。自己嫌悪の日々です。
「お通夜、お葬式をやらないと成仏しませんよ」と言っても、本当に成仏したかは誰もわからない。私たちの弔いの言葉に価値があると信じていただくしかありません。「意味がない」と思われたらそれまでです。
毎日お経を読む熱心な檀家の家族がいた。おじいさんの一周忌で「おじいさまはみなさんを守ってくれます。三回忌でまたお会いしましょう」とあいさつした1週間後、その妻が交通事故で亡くなる。
「神も仏もない」という現実に直面することが本当にあります。お通夜とお葬式で私はご遺族に何も声をかけられなかった。ただオロオロしていました。
東日本大震災の被災地でも、おえつで読経できない僧侶がいました。コロナで大勢が亡くなっていく世界各地の現場でも、祈りをささげながらオロオロしている宗教者たちがたくさんいるに違いありません。
「お葬式にはお坊さんに来てほしい」。そう言ってお布施を包んでくださる方はまだいます。その信頼に応えなければいけません。「神も仏もない」という体験をしつつ、それでも「神も仏もある」と信じてもらう仕事をする自己矛盾を抱えているのが私たち僧侶です。
苦しいときほど頼られる存在でありたい。私だって神頼みをします。子どもが受験の時、湯島天神に行きましたからね。
役に立つお寺に(5)
全日本仏教会理事長 戸松義晴さん
自由な議論を好み「挑戦する仏教」を目指す(実家の心光院=東京・港)
人工知能(AI)を活用して故人をよみがえらせる技術が開発されている。生前に収録した音声やSNS(交流サイト)などの情報をAIが読み込み、インターネット上で故人と対話できる仕掛けだ。
まさに宗教が担ってきた役割をAIが取って代わろうとしているわけです。亡くなった人を思い出し、会いたいと思うから法事をやる。それをグーグルなどがリアルに再現しようとしている。これまで以上にお寺が故人の弔いをする役割は求められなくなっていくでしょう。
ではどうするか。死んだ後の役割から生きている人の生活に役割を移すべきだと思います。そこに仏教の可能性があるのだと考えています。
AIと仏教は相性がいいと思います。AIは個人の多様性に対応できますが、仏教も絶対的な正義を目指すのではなく、一人ひとりが悟りを開くのを理想とするからです。自分で自分を頼りにして生きなさいという教えは個人主義に合うんです。
極端な話、AIが悩める個人を救うのなら、お寺もお坊さんもいなくてもいいのです。むしろ、仏教の考え方は、檀家との組織的な関係でやってきたお寺とは相性が悪い。だから「お寺離れ」は加速しても「仏教離れ」は起きないと思っています。
賛否が分かれる尊厳死についても議論してきた。仏教は「家」から「個」に移ると考える。個人を尊重する考え方は自らの死にも向かう。
仏教は自己決定権を大切にします。これは私個人の考えですが、もし終末期に自分の意思がなくなり、強い痛みがあって自分も家族も社会的にも負担が大きい場合は、私は安楽死したいと思います。
自分の意思に反して最期を迎えるのは避けたい。人には「極楽浄土に行くから大丈夫」とか言っていますけど、死ぬのは怖いです。でも、社会的なコンセンサスが得られているのであれば、自分の最期の願いがかなうように、僕は自分らしく死にたいと思います。
これから独り暮らしの高齢者が増えます。私がみとられる立場だったら、死んだ後に知らない人が来てお経を読んでくれてもあまり意味はないと思いますね。これからのお寺は、生前から地域の人の生活に寄り添い、話を聞いて、困ったときに相談に乗り、終活にも積極的にかかわるべきです。
希望は次の世代を担う若い人たちです。各地で若い僧侶が貧困に向き合っています。お供えなどでいただいたお菓子や果物を、恵まれない子どもたちに届ける「おてらおやつクラブ」には全国で1600を超えるお寺が参加しています。無料で食料を提供する「フードパントリー」の会場を提供して支援している30代のお坊さんもいます。私たちが支援を促したわけではなく自主的にかかわっています。
宗教は生きている人のためにこそ役に立つべきです。若い僧侶たちが地域の問題に向き合い、檀家ではない住民とも新しい関係を築いていけば、お寺は生き残れると思います。