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必然だったワクチン敗戦 不作為30年、民のはしご外す

 

 

新型コロナウイルスのワクチン開発で日本は米英中ロばかりか、ベトナムやインドにさえ後れを取っている。菅義偉首相が4月、米製薬大手ファイザーのトップに直々に掛け合って必要なワクチンを確保したほどだ。「ワクチン敗戦」の舞台裏をさぐると、副作用問題をめぐる国民の不信をぬぐえず、官の不作為に閉ざされた空白の30年が浮かび上がる。

世界がワクチンの奪い合いの様相を強める中で、国産ワクチンはひとつも承認されていない。ところが、厚生労働省で医薬品業務にかかわる担当者は「米国や欧州ほどの感染爆発は起きていない。何がいけないのか」と開き直る。「海外である程度使われてから日本に導入したほうが安全性と有効性を見極められる」

1980年代まで水痘、日本脳炎、百日ぜきといった日本のワクチン技術は高く、米国などに技術供与していた。新しいワクチンや技術の開発がほぼ途絶えるまで衰退したのは、予防接種の副作用訴訟で92年、東京高裁が国に賠償を命じる判決を出してからだ。

このとき「被害者救済に広く道を開いた画期的な判決」との世論が広がり、国は上告を断念した。94年に予防接種法が改正されて接種は「努力義務」となり、副作用を恐れる保護者の判断などで接種率はみるみる下がっていった。

さらに薬害エイズ事件が影を落とす。ワクチンと同じ「生物製剤」である血液製剤をめぐり事件当時の厚生省生物製剤課長が96年に逮捕され、業務上過失致死罪で有罪判決を受けた。責任追及は当然だったが、同省内部では「何かあったら我々が詰め腹を切らされ、政治家は責任を取らない」(元職員)と不作為の口実にされた。

いまや欧米で開発されたワクチンを数年から10年以上も遅れて国内承認する「ワクチン・ギャップ」が常態となった。国内で高齢者への接種が始まったファイザーのワクチンは厚労相が「特例承認」したものだが、これは海外ワクチンにだけ適用される手続きだ。

日本ワクチンが歩みを止めている間、米国は01年の炭疽(たんそ)菌事件を契機に公衆衛生危機への対応を進化させている。有事には保健福祉省(HHS)が中核となって関係省庁が一枚岩となり、製薬会社や研究機関と連携。ワクチン開発資金の支援や臨床試験(治験)、緊急使用許可といった政策の歯車が勢いよく回る。

世界のワクチン市場の成長率は年7%近い。致死率の高い中東呼吸器症候群(MERS)、エボラ出血熱などに襲われるたびに新しいワクチンが編み出された。新型コロナで脚光を浴びた「メッセンジャーRNA(mRNA)」の遺伝子技術もワクチンへの応用研究は20年越しで進められていた。

ワクチンは感染が広がらなければ需要がなく、民間企業だけでは手がけにくい。しかし日本では開発支援や買い取り、備蓄の機運は乏しい。北里大学の中山哲夫特任教授は「ワクチン・ギャップが生じるのはポリシー・ギャップがあるからだ」と政策の停滞を嘆く。

新技術でインフルエンザワクチンに挑んだバイオ企業、UMNファーマの挫折は語り草だ。工場建設に100億円超を投じたが、認可申請は17年、既存ワクチンに比べて「臨床的意義に乏しい」との理由で退けられた。

UMNは債務超過に陥り、曲折の末に塩野義製薬の傘下に入っている。米国で認可済みのワクチンだっただけに、医薬品業界は「単に新しいワクチンを導入したくないだけではないか」(国内製薬会社)と不信を募らせた。

医療従事者への先行接種にはファイザー製のワクチンが使われた(2月、東京都目黒区)

研究者と技術は海外に流出している。あるウイルス学者は「日本は規制が多い一方、支援体制が貧弱だ」と指摘する。危険なウイルスを扱える実験施設は国内に2カ所しかなく、ひとつは周辺住民の反対で最近まで稼働しなかった。

厚労省、農水省、文科省をまたぐ規制は複雑で、遺伝子組み換え実験は生態系への影響を防ぐ「カルタヘナ法」に縛られる。欧州は医薬品を同法の適用除外とし、米国は批准もしていない。

製薬会社は日本市場を迂回する。武田薬品工業が開発中のデング熱ワクチン、田辺三菱製薬のタバコ葉の植物由来ワクチンも国内承認への計画は未定のままだ。

政府は新型コロナで急きょワクチン担当大臣を置いたが、アンジェス、塩野義などが開発中の国産ワクチンは承認されるとしても22年以降の見通しだ。国家の危機管理という原点を見失って漂流した30年の代償は大きい。

 

問われる科学的理解

ワクチンはラテン語の「牛」が語源で、牛痘から死亡率がはるかに高い天然痘のワクチンが開発されたことに由来する。日本のワクチン開発の停滞は官だけの責任ではない。副作用のリスクを踏まえても予防接種のメリットが大きいという公衆衛生に対する理解がわたしたち国民を含めて社会全体で足りなかった。

2013年に定期接種になった子宮頸(けい)がんワクチンは接種率が1%未満にとどまる。投与後に慢性の痛みや運動機能の障害などが出るとして一部メディアで「薬害」と騒がれ、接種勧奨が中止されたためだ。

大規模調査でワクチンと痛みなどに因果関係は証明されなかったが、その後も接種率は改善していない。科学的根拠のない不確かな情報であっても「なんとなく打ちたくない」というムードが広がると挽回が難しい。がん患者を減らす効果が証明され、接種率90%を目指している世界のワクチン先進国とは対照的だ。

日本は予防接種法を改正し、義務接種を取りやめた。かつてのような学校での集団接種も見られなくなった。ワクチン接種は個人の判断に委ねられている。

厚労省は新型コロナワクチンの副作用の疑いを公表している。「科学とは信じることではなく理解すること」。18世紀末に天然痘ワクチンを開発したエドワード・ジェンナーの理念をかみしめ、国民一人ひとりが危機と向き合わなければならない。

 

 

健康被害の救済制度

ワクチン接種では極めてまれだが深刻な健康被害が出ることがある。被害者は法律に基づき、医療費と医療手当、障害年金などの支給で救済される。医療手当は通院や入院の日数に応じて月額3万円台。障害が残ってしまった場合の養育費は年120万〜150万円ほど、障害年金は年300万〜500万円ほどだ。 厚労省の審査会では健康被害申請の8割が認められており、副作用の程度にかかわらず諸外国に比べて手厚いとされる。もっとも認知度は1割に満たず、入院や障害などのケースを除けば、申請せず自己負担している人もいるとみられる。米国にも同様の救済制度はあるが、健康被害が認定されるのは3割程度だ。

 

 

 

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