カバーストーリー
科学が生む残酷な不平等
カズオ・イシグロ氏に新作聞く
英作家カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞後初の新作「クララとお日さま」が2日、刊行される。人工知能(AI)を主人公に、最先端の科学が不平等を生み出すジレンマを描く。人はいかに生きるのか。魂とは、愛とは何か。作品に込めた思いを聞いた。
――語り手のクララはAF(Artificial Friend、人工親友)と呼ばれるロボットで、人間の子どもに寄り添い、成長を助ける役割を担います。物語の視点をAIに置いたのはなぜですか。
「クララを中心に据えることで、人間世界における人の姿を際立たせることができました。クララは初めから『寂しさ』というレンズを通して人間世界を見るように作られている。人間が感じる寂しさとは何だろう、寂しさを退けるために人は何をするんだろうという疑問は、次第に人間同士の『愛』に対する関心へと結びつくのです」
――愛という概念を、クララは必死に理解しようとしますね。皮肉にもその姿は人間の子どもの成長過程とそっくりで、読み進めるうちにロボットと人間の境界が曖昧になっていきます。
「ビッグデータやAIの時代、人間が個人としてお互いを理解するやり方が、これまで何百年となく続けてきた方法とは少しずつ変わっていくかもしれない。そこに興味を持ちました。人を人たらしめる条件とは何か。私たちの体には魂のようなものがあるのか。十分なデータさえあれば、同じ性格や個性を持った存在を複製できるのか。そんな問いを改めて投げかける時に、我々は来ているのではないか」
――人間の固有性、かけがえのなさを、個人の肉体や頭脳の内側だけに求める人間観にこだわっていては行き詰まる。読者は発想の転換を促されているようです。
「小説に登場する科学者がこんなことを言います。『人間の肉体のどこを探っても(魂なんてものは)何も見つからなかった。だから、愛する人の脳からすべてのデータを発掘して機械に移したら、それが愛する人の替わりになるよ』と。古風な私は納得できません。『君は間違った場所を探しているんじゃないか』と言い返したくなる。魂といわれるものはおそらく、その人を大切に思う周りの人々の感情の中にこそ宿っているのではないでしょうか。これは科学者からしてみれば、あまり優れた思いつきではないかもしれない。でも、私は(小説家として)そのように答えたい」
――クララが生活をともにする病弱な少女ジョジーをはじめ、小説に登場する子どもたちのほとんどは、遺伝子操作を思わせる「向上処置」を受けています。科学技術の進歩に不安をおぼえることはありますか。
「私は、AIについてはあまり恐れや懸念を感じていません。太陽光がエネルギー源のクララは太陽に全幅の信頼を寄せ、決して希望を捨てようとしない。それは人間と神の関係に似ている。いずれ機械にも宗教に似た感情が芽生えるんじゃないかという想像はとても魅力的で、小説のタイトルを『クララとお日さま』にしたのも、それが理由です」
「むしろ遺伝子編集技術のほうが懸念は大きい。例えば2020年のノーベル化学賞を受賞した『クリスパー』という技術は大きな革新をもたらし、医療や食糧問題などで人類に貢献する側面は多々あります。だが、この技術が子どもたちの身体的・知的能力を高めるために応用され始めたとき、人間社会に大きな難問を突きつけてくる」
「具体的に言うと、社会が残酷な能力主義に染まるのではないかと心配しています。私はかねがね階級的特権や人種ではなく、能力によって人を評価する方法は善いものだと考えてきました。しかし、ある人間を他人より優秀に改造することが技術的に可能な世界になると、かつて南アフリカにあったアパルトヘイト政策と似たようなものに能力主義が変化してしまうかもしれない」
――AIと人間、向上処置を受けた若者とそうでない若者、白人至上主義を思わせるコミュニティーの存在。作中には様々な不平等や格差が描かれています。
「科学によってもたらされる多様な課題にくわえ、自分がずっと親しんできたはずの自由で民主的な考え方へのコンセンサスが、実は非常にもろいものだったと知ったときの衝撃を小説のあちこちに盛り込みました。格差を縮めよう、不平等をなくそうと議論を起こし、行動するような強力な存在が、冷戦後は現実世界から消えてしまったように思える。不平等な状況はどんどん大きくなるばかり。これはとても危険なことです」
「世に警鐘を鳴らすなら、新聞に論説を書いたりドキュメンタリー番組に出演したりするほうがより効果的です。でも、私は小説家。小説を通じて読者が思考や感情の実験をする場を提供したい。もし自分が登場人物だったらどう感じるだろうか、というふうに。小説や演劇、映画に接すると、(理性に基づいた)議論とはまた違った道筋で、不平等がいかに人間に犠牲を強いているかを感じられると思います」
▼今回のインタビューは2月中旬、日本のメディア向けにオンラインでおこなわれた。
カズオ・イシグロ
1954年長崎生まれ。5歳で家族とともに渡英、現在は英国籍。小説「日の名残り」で89年に英ブッカー賞を受賞。2017年にノーベル文学賞を受賞した。19年には英王室から「ナイト」に叙せられている。代表作に「わたしを離さないで」「忘れられた巨人」など。
「クララとお日さま」
(土屋政雄訳、早川書房)
人工知能を搭載し、太陽光をエネルギー源にするロボット、クララは街なかのお店のショーウインドーに飾られていたところを病弱な少女ジョジーに出会い、彼女が住む田舎の家にやってくる。優れた観察力と好奇心を備えたクララはジョジーやその親友リックらとの幸せな交流を通じ、人間や自然に対する理解を深めていく。だが、そんな彼らが生きるのは「向上処置」の有無で人間の価値を判断し、ロボットと人間、ロボット同士でも厳しい格差が存在する不平等な世界だった。