「パクスなき世界」第5部

 

パクスなき世界 繰り返さぬために(1)

 

酷似する危機の予兆 豊かさ90年ぶり低迷

 

 

20世紀の初頭、技術革新や産業構造の転換でグローバル化が進んだ半面、急速に広がった格差への不満や新興国の台頭は2度の大きな戦争の土壌となった。米国と中国が激しく対立するいま、古代ローマで「パクス」と呼ばれた平和と秩序の女神からほほ笑みは消えた。歴史は繰り返すのでしょうか――。

第2次世界大戦が始まる2年前の1937年。ドイツにいた米国人記者ウィリアム・シャイラーは9月27日の日記に、ナチスが欧州を支配しかねないと警告しても実業家らに信じてもらえず「みんな笑うのだ」との嘆きを書き残している。

振り返ると突然にみえる危機にも必ず予兆はある。問題はそれになかなか気づけないことだ。

ヒトラーが独首相に就く2年前の1931年、世界の79%の国で1人あたり国内総生産(GDP)が前年より減った。1929年の米国発の大恐慌が世界に及び、第1次大戦の戦地だった欧州経済に追い打ちとなった。

急速に広がった格差への不満が、大きな戦争の土壌となった(1930年10月、米オハイオ州クリーブランドの市庁舎の外には大勢の失業者が集まった)=AP

世界不平等データベースによると、30年代前半のドイツとフランスでは国民所得全体の4割を所得上位1割の人が占めた。広がる格差と募る不満が、隣国との摩擦の導火線となった。

格差と不平等が常態となり、富を再配分する機能が弱まった社会はもろい。ゆとりがなくなった人々から公共心や他者への寛容さが失われ、異質なものを安易に排斥するムードが漂う。

米国でいま、アジア系住民を標的にしたヘイトクライム(憎悪犯罪)が急増している。米カリフォルニア州立大の憎悪・過激主義研究センターによると、ニューヨークなど全米16都市で昨年に起きたアジア系への憎悪犯罪は前年の2.4倍だ。

全米で社員の42%をアジア系が占め、多様性を力とする米グーグル。インド出身のスンダー・ピチャイ最高経営責任者(CEO)は3月、社員向けのメールで「人種などを理由に誰もが攻撃の標的となりうる現実は悲劇だ」と懸念を示した。

社会の根深い病巣は癒えたと思っても再び浮き出てくる。

新型コロナウイルス禍により、個人の豊かさは90年ぶりの落ち込みを示す。2020年の1人あたりGDPは世界の85%の国で前年より減った。その比率は大恐慌後の1930年代を上回る。

皆が同じように貧しくなったわけではない。

世界規模で一気に進んだ新型コロナ対策。経済の底割れを防ぐための財政出動や金融緩和は市場への前例のないマネー流入につながった。空前の株高が続き、図らずも金融資産を持つ者と持たざる者とのギャップはさらに広がった。

「4千万人が飢えるのを防ぐ」。バイデン米政権は1月に発表した1兆9千億ドルの米国救済計画で、コロナ禍で食べ物にありつけない人が人口の1割超にのぼる可能性を指摘した。1人あたり1400ドルの直接給付といった巨額の支援策からは、広がるばかりの格差への焦りもにじむ。

90年ぶりの危機の予兆は経済ばかりではない。

スウェーデンの調査機関V-Demが各国の政治体制を数値化した「自由民主主義指数」によると、2016年以降、北米と西欧の平均値は10年前と比べマイナスが続く。民主主義の退行はファシズムが広がった1930年代以来だ。

コロナ禍にうまく対応できなかった国で自由主義や民主主義への懐疑心が生まれている。命の危険に直面し、強い指導力による性急な解決を求める声はポピュリズム(大衆迎合主義)や権威主義への誘惑をかりたてる。

「指導者が自分たちの不安の原因が外国や移民にあるなどと説明すると不幸なことに大概うまくいく」。歴史学者のポール・ヤンコフスキ氏は現代と1930年代で「同じようなメカニズムが働いている」と指摘する。

歴史はしばしば韻を踏む。コロナ禍は人々に危機を実感させ、歴史的にみて不安定な時期に足を踏み入れたと多くの人が自覚するようになった。

分断の力学が強まる世界で新たな秩序を見いだすのは困難な作業だが、すべては足元に表れた危機の予兆を直視することから始まる。現代を生きる私たちは歴史という舞台の観客ではない。

 

 


 

パクスなき世界 繰り返さぬために(2)

 

労働者襲う新たな産業革命 デジタルの富、社会に広く

 

 

「壊滅的な打撃だ」。英西部ウェールズのスケーツ経済相は危機感をあらわにした。約40年にわたって地域経済を支えてきた米フォード・モーターのエンジン製造拠点、ブリジェンド工場が2020年9月に閉鎖になったときのことだ。

18世紀後半から始まった産業革命。ウェールズは産炭地としてエネルギー供給で貢献した。フォードは100年前に世界初の量産車を世に出した20世紀を代表する企業だ。産業構造の転換期、ともに岐路に立つ。

大量生産を通じ物質的な豊かさをもたらした製造業は、社会の安定と繁栄を支える力を失いつつある。英国では1960〜70年代に雇用全体の3割近くを占めたのが近年は1割未満だ。

グローバル化やデジタル化、そして脱炭素。次々起こる変化に企業は揺れる。19世紀後半に生まれた内燃機関で動く車は電動化の潮流にもまれる。エンジン生産の見直しは世界の自動車業界が向き合う課題だ。

かつての産業革命も世界のありようを根本から変えた。繊維産業から始まった機械化は生産性を劇的に向上させ、経済成長をもたらした。激しい変化ゆえに「痛み」も大きかった。手工業で生計を立てていた働き手は自らの技能が役に立たなくなる苦境に直面。中程度の賃金の仕事は減り、富は工場経営者に集中して格差が拡大した。

18世紀後半から始まった産業革命は経済成長をもたらした一方で、労働者に「痛み」を強いた=ゲッティ共同
英オックスフォード大のカール・フレイ氏は庶民が工業化の恩恵を享受するまで「70年を要した」と話す。当時の労働者の苦悩を調べ、栄養状態の悪化で1850年に生まれた人の身長は1760年生まれの人より低い傾向にあったと指摘した。

社会が不安定になった19世紀の英国では「ラッダイト」と呼ばれる機械破壊運動が起きた。それでも政府などは労働者の不満を押さえ込み技術を採用。英国は競争力を高め覇権国家になった。

現代もヒトに置き換わる技術が広がる。調査会社リサーチ・アンド・マーケッツの予測では、産業用ロボットの市場は27年に1017億ドル(約11兆円)と20年の2.3倍に膨らむ。人工知能(AI)の進化もめざましい。

価値の源泉がモノからデータやソフトウエアに移り、「GAFA」に代表されるIT(情報技術)企業が力を握る時代。労働者は勤勉さでは評価されず、優れた頭脳とスキルをもつ一握りの人材が「高評価」を得る。

生み出す付加価値の差は賃金に反映される。米労働省の19年の統計によるとコンピューター・情報関連の職種の年収(中央値)が8万8千ドルにのぼるのに対し、製造部門の職種は半分以下の3万6千ドルと大差がついた。

激動期、労働者の痛みがいつ収束するかは見えない。だが技術の進歩を拒んだ国家や社会は衰退の道をたどる。

自動車産業の黎明(れいめい)期を引っ張った欧州。業界団体や独フォルクスワーゲン(VW)などの企業、有力大学は産業競争力に加え、「経済的・社会的責任を果たすため、労働力の再教育に多大な投資が必要」との考えで一致した。毎年労働者の5%にデジタル関連などのスキルを習得してもらう投資を始める。数年で対象は70万人、総額70億ユーロ(約9100億円)との試算もある。

富を社会に広く行き渡らせることができない「勝者総取り」のゲームはどこかで行き詰まる。個々人のスキルを21世紀仕様に高めつつ、誰もがデジタル革命の恩恵を享受できるような枠組みをどう構築していくか。政府や企業の知恵が問われている。

 

 


 

パクスなき世界 繰り返さぬために(3)

 

陰謀論に試されるネット 見識が生かす「利器」の真価

 

 

あなたは正しい情報をもとに世界を見ていると思いますか――。

「新型コロナウイルスのワクチンは生物実験だ」。3月20日、米国やオーストリア、スイス、カナダなど、世界各地で同時に政府のコロナ対策に抗議するデモが開かれた。陰謀論を信奉する集団「Qアノン」やワクチン反対論者、トランプ前大統領の支持者らが各地でデモを繰り広げた。

メディアの格付け機関、ニュースガードによると、米動画サイト「オディシー」で2020年11月〜21年2月にフランス語の動画本数が英語を上回った。仏語圏の主要SNS(交流サイト)から排除された陰謀論者らが活動の場を米企業が運営するサイトに移したとみられている。サイト上では過激な言葉や真偽不明の情報が飛び交う。

メディア史に詳しい京都大学の佐藤卓己教授は人々の間で情報が拡散する仕組みについて、「語り手と受け手の相互作用で増殖する構造は同じだが、拡散する範囲・速度が上がっている」と指摘する。

情報を伝達する技術はこの100年で様変わりした。米国で4人に1人が電話を使うまでに要した時間は35年。テレビは26年、携帯電話は13年それぞれかかり、インターネットは7年だった。今後も情報を伝達するツールは多様化し、急速な勢いで消費者に浸透する。この流れは戻ることはない。

技術の進歩は生活を便利で豊かなものにする「利器」として機能してきた。コロナの発生が確認されてから1年もたたぬうちに複数のワクチンが開発され、量産化された。かつて黒死病(ペスト)やスペイン風邪の流行では原因の特定ができずに多くの死者を出したのと比較すれば、人類は確実に進歩を遂げているといえる。

一方で、誰かが意図的に虚偽情報を流したり、根拠のない噂話が広まったりする社会構造は今も昔も変わらない。19世紀末から広まった「シオン賢者の議定書」。ユダヤ人が世界を支配しようとしていると記した偽の書物は、人々の反ユダヤ主義の感情をたき付けた。大虐殺に行き着いた過去を経た今でも、憎悪犯罪を引き起こしている。

米マサチューセッツ工科大学が300万人が拡散したツイッターの投稿を分析したところ、フェイク(虚偽の)ニュースは根拠が確かなニュースと比べて6倍の速さで拡散することが分かった。一般的に、虚偽のニュースは人々の好奇心を刺激する内容を含むことが多いため、瞬く間に拡散する傾向があるという。

陰謀論などのフェイクニュースは瞬く間に拡散する(米ラスベガスでQアノンのプラカードを掲げる男性)=ロイター

急速なデジタル技術の発展は国家統治のあり方をも変えた。中国は人工知能(AI)や顔認証などの技術で14億人を監視する「デジタル権威主義」を確立した。アジアやロシア、アフリカなどへの監視ノウハウの輸出も進む。監視の対象は他国にも及び、民意形成への介入も試みる。

米国家情報長官室は昨年の米大統領選でロシアのプーチン大統領が、トランプ前米大統領を有利にするための情報工作を承認した可能性が高いとの報告書を発表した。

欧州の中でもメディアリテラシーの高い国と評される北欧フィンランド。画像がどう加工されるか、プロパガンダとは、ニュースの信ぴょう性は……。旧ソ連やロシアの脅威に直面し続けてきたこの国では、小学校から情報やデジタル技術への対応策を学ぶ。

自由な情報の流通は民主主義の根幹だ。私たちは日々押し寄せる新たな情報や技術を使いこなし、自由や民主主義を守る知恵が試される時代に生きている。

 

 


 

パクスなき世界 繰り返さぬために(4)

 

「一億総中流」もはや過去 成長と安全網、両輪で

 

 

コロナ禍で鮮明になった世界の分断は、日本にとって対岸の火事ですか――。

「女性や非正規労働の雇用に深刻な影響が出ている。自殺の増加や孤独・孤立の問題に真正面から向き合っていく」。菅義偉首相は3月16日、新型コロナウイルスの非正規雇用の緊急対策関係閣僚会議で訴えた。

2020年に非正規雇用者は前年比で75万人減と比較可能な03年以降で最大の減少幅となった。一方で正規は35万人増えている。飲食・サービスなどを除けば大企業の正社員の多くには雇用危機が及ばず、コロナ禍で社会の断層は深まった。

特に影響が大きいのが女性だ。野村総合研究所はパート女性らのうち勤務シフトが5割以上減り、かつ休業手当を手にしていない「実質的失業者」は、20年末の90万人から21年2月に103万人に増えたと推計する。

労働力調査によると、母子世帯は20年10〜12月に71万世帯と、前年同期から13万世帯も増えた。労働政策研究・研修機構の20年11月の調査では、ひとり親世帯の6割が20年末にかけ暮らし向きが「苦しい」と回答した。

過去30年の低成長で生活保護の受給者も増えていた。コロナ禍は、中間層の厚みを背景に社会の安定を誇った「一億総中流社会」が過去のものであることを鮮明にした。

断層は過去にもあった。大正期、農業から工業に産業の中心が変わる過程で「新中間層」と呼ばれるサラリーマンが都市に誕生。安定した賃金を得て豊かになった層が大衆文化をつくり、大正デモクラシーを生んだ。

だが波に乗れない農家や中小企業の労働者の生活水準は低いまま。くすぶる不満は1923年の関東大震災や29年の世界恐慌で高まった。国民は政党や財閥への不信を募らせ、軍国主義の台頭を招いた。

金融恐慌が発生した1927年、銀行では取り付け騒ぎが起きた=共同

原因の一つは組織優先の文化だ。「リーダーの劣化と組織の硬直化」。20年秋、民間経営者や若手国会議員ら有志の勉強会「プロジェクトT」は日本の課題をこう結論づけた。明治維新では西郷隆盛らが独創性を発揮した。途中から集団の論理を重んじる風潮が強まり、国家のかじ取りを誤り戦争の「転落の歴史」をたどったと指摘する。

個より組織を優先させる構造は、重厚長大な製造業が経済を引っ張る高度経済成長期に好都合だった。終身雇用、年功序列の制度を通じ、「豊かになるため組織の一員として忠実に働く」という労働者の思いと経済成長は軌を一にしていた。

00年以降、デジタル経済を中心に世界のゲームのルールが変わったが、官民とも時代に即した人材育成が遅れた。一橋大の森口千晶教授は「バブル崩壊後の30年、日本は多方面で静かに進む危機に抜本的な改革ができなかった」と話す。

政府は目下、官民で過去最大の計120兆円規模を投じ、科学技術の振興と若手研究者の育成を掲げる。同時にコロナ対策で、ひとり親や女性、非正規らを対象に合計200万円まで貸し付ける。誰もが安心し子育てできる環境をつくる。

変われる日本と変われない日本は過去に何度も姿を見せた。デジタル化の遅れなど日本の旧態依然ぶりを浮き彫りにしたコロナ禍。変えるべきものを変え、成長の道筋を取り戻す。それが忍び寄る分断を防ぐための前提になる。(おわり)

 

 

 

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