経済教室(エコノミックトレンド)

 

経済全体に「DX」を

 

 

柳川範之・東大教授

 

ポイント

○ デジタルは経済の枠組みそのものを変

○ 「イノベーションの民主化」が進んでいる

○ 誰でもアイデアを実現できる社会改革を

 

世界はデジタル化のスピードを一挙に速めている。それに呼応して、日本ではデジタルトランスフォーメーション(デジタル変革、DX)という言葉が強調されている。その際、企業内での変革の必要性が主張される場合が多い。

もちろんそれも重要だが、デジタル化によって生じている経済の構造変化は日本企業の枠組みを根幹から揺さぶるものであり、一企業の変革にとどまらず、経済全体で発想の転換が必要になってきている。

大企業に長年勤めることが、自分がやりたいことを実現させるためのほぼ必要条件だったのが、今はそうではないからだ。昔は、一般の人が自分の主張を広く知ってもらおうとすれば、新聞の投書欄に取り上げてもらうくらいしか手がなかった。音楽制作もそうだ。デモテープをつくって、プロデューサーに認めてもらえなければ、多くの人に自分の歌を聴いてもらうすべはなく、大きなコストがかかった。

それが今ではどうだろうか。誰でもブログなどを書き、簡単に自分の主張を表明できる。自分が作った曲をユーチューブなどにアップすれば、多くの人にすぐにでも聴いてもらうことができる。

 

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同様のことが、仕事で何かを実現させようとする際にも起きている。できるだけ大きな組織に入り、上に行かないと、自分が考えていること、自分が形にしたいと思っていたことを実現させるどころか、見せることすらできない。それが、多くの場合現実だった。その構造が大きく崩れてきている。スタートアップやベンチャー企業ができることが大きく拡大し、大企業でなければできない領域が小さくなっている。

たとえば、コロナ禍において急速にシェアを拡大したビデオ会議システム「Zoom」の開発会社はベンチャー企業だし、コロナワクチンの開発は米モデルナをはじめとして、ベンチャー企業がかなり活躍している。筆者はちょうど2年前、本欄でデジタル化の与える重要な影響として、アイデアを具体化するコストが大幅に低下する点を挙げたが、今やそれがより具体的な形となって、実態に影響を与えてきている。

この変化は、オンライン関係の産業だけでなく、リアルな製造現場においても生じている。試作品レベルでよければ、大企業に長年従事していなくてもつくり出せるものは増えたし、人工知能(AI)を活用することで少人数でも実現できる範囲も広がっている。

もちろん、ベテランの経験が重要になる側面はたくさんあるし、そこから得られる知見が大きなイノベーション(技術革新)を生み出す場合もあるだろう。その重要性を否定するものではない。

しかし、多様なアイデアは、たとえそれが粗削りであったとしても、新鮮な知見を引き出す。思いがけない発想が、新たなイノベーションを生み出す。ベテランによるもの、若手によるものを含めて、様々なアイデアが、場合によっては既存企業の枠を超えて、どんどん具体化され、実現されていく。世界はそういう変化の中にある。

この変化は、米マサチューセッツ工科大学(MIT)のフォン・ヒッペル教授が15年以上前に主張した「イノベーションの民主化」という議論とやや似たところがある。ただし、そこでは、ユーザーが改良・工夫・改善することの重要性が指摘されていて、どちらかというと需要サイドの活動がポイントになっていた。

ところが今の変化は、単なる需要側による改良にとどまらない。新しい企業から新しいアイデアが次々と出現する。その可能性が大きく高まった結果、個人や少人数のアイデアが一気に既存大企業の存在を脅かすようになる。そんな、供給側からの「イノベーションの民主化」が起きている。

ただし、これは伝統的な日本の大企業にとっては、あまり有利といえない変化だ。年功序列は崩れてきているものの、遅い昇進の仕組みは、個人が大きな意思決定ができるようになるのにかなりの年数を要する。つまりアイデアを簡単に形にすることができない。それに、失敗に対して厳しい評価システムが加わると、粗削りなアイデアにチャレンジすることが難しい仕組みになってしまう。

この意思決定の構造は、長年の経験や知見が意思決定に反映されることが重要な案件だったり、大型の設備投資を必要とするため失敗を避ける必要性が高い経済環境だったりした場合には、望ましいものだった。だが、アイデアをできるだけ早く具体化させ、失敗を経験しながらも、その中からよいものが生き残っていく、そこに大きなメリットが生じる経済構造の中では、このような遅い昇進、失敗を許容しない評価・意思決定という組み合わせは、せっかくのメリットを生かすことができない。

日本の特に大企業がこの点を打破するためには、若手であっても高齢者であっても、より多様な人が現在の地位や上下関係にこだわることなく、アイデアを口に出すことができ、それを具体的に実行できるような体制をつくりあげていくべきである。

その決定内容は、必ずしも大型案件でなくても構わない。企業全体がリスクにさらされることを恐れるのであれば、小さな案件から始めることにして、業績が伸びていけば、それを少しずつ大きなプロジェクトに拡大させることにしていけばよい。

現実には、このような変革の実行は、容易なことではないのも事実だろう。意思決定の階層構造を変えていく必要があるし、社内の人事体制も見直さなければならない。アイデアの実現を自社内に求める人ばかりとは限らず、社外にその機会を探す人も当然出てくるだろう。しかし、このような改革を行っていくことが、デジタル化の中で日本の既存企業が飛躍していく大きなカギになる。

 

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また、これが経済全体で起きている構造変化であり、デジタル化によって、より多様な働き方が可能になってきていることとあわせて考えると、いわゆる日本の就職のあり方そのものの大きな変革も避けられないだろう。新卒一括採用の修正のみならず、より大きなマクロ的視点にたった、就職のあり方、労働市場全体の改革やガバナンス(統治)改革が、DXと合わせて必要になっている。

さらに言えば、単なるベンチャー支援といった枠組みで考えるのではなく、全体としてのエコシステム(生態系)をどれだけ強固なものにしていくかという視点も重要だろう。

アイデアに容易にお金がつき、それを実現できる状況は、現在の世界的な金融緩和政策とまったく無縁ではない。金融市場やマクロ経済環境に変化が生じても安定的に資金が提供されるよう、ファンドや金融機関の目利き力をどう高めていくかも今後の課題だ。

 

 

 

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