エッセー
悪態俳句のススメ
俳人 夏井いつき
特に信念を持っているわけではないが、携帯電話はガラケーだ。大学時代の親友ショーコに「いつき、なんでLINEやらへんの」と責められるが、今のところガラケーを不便に思うこともない。
愛用のパソコンは、原稿を打ち、メール送信するだけ。息子マサトが高性能機種を見繕ってくれたらしいが「機能の98%活用してない」と笑われる。時代に取り残されているのかと思いはするが、これといって困ることもない。
が、そんなワタクシが昨年4月からYouTubeを始めた。巷(ちまた)でユーチュー婆と呼ばれていることは知っているが、それもこれもコロナのせいだ。
昨年2月最終週から、講演会も句会ライブも9割以上が無くなった。俳句の種を蒔(ま)くことを生業(なりわい)としているにもかかわらず、どこへも行けない。何も出来(でき)ない。一体どうなるのかと不安にもなったが、こんなご時世だからこそ「やれることをやろう」と励まされ、小さなカメラの前に立ち、家内制手工業的なYouTube配信を始めたのだ。
ところが、やりだしてみるとなかなか面白い。初心者定番の質問、最初の一句の作り方、助詞・助動詞など真面目な講義もすれば、ハリガネムシの話やら漫画ワンピースの話やらで盛り上がるだけの回もある。様々な企画を考えるのも楽しい。
そんな新しいシリーズの一つとして「悪態俳句」を募集してみた。不穏な響きではあるが、実に平和的主旨(しゅし)の活動である。
私たちは生きていく上で、小さなイライラから逃れることはできない。多種多様な人と生きる社会において、心の摩擦が起きるのは当然のこと。
そんな社会の中、誰もが苛立(いらだ)ち、他者を攻撃し始める。まるでそれが正義であるかのように錯覚し、己の言葉に昂(たか)ぶり、感情のコントロールができなくなる。不寛容の連鎖というヤツだ。
胸から噴き出す負の感情を、誰かに叩(たた)き付けると、その言葉は必ず自分に戻ってくる。自分の心が壊死(えし)し始める。
己の心を救うために作った30句を、私は『悪態句集』と名付けた。
あなたがたもセイタカアワダチソウでしたか
共に闘っていると思っていたら、孤立無援であったことに気づく。知らなかったのは己だけだったという、無力感といたたまれなさ。
俳句の有り難さは、十七音という短さだ。「あなたがた」が誰であるかなど書く必要もないし、書ける音数もない。知られる怖れもない。
恩知らぬ君らに雪うさぎを贈る
句友の俳号打楽器ちゃんが、この句が好きですと寄せてくれたコメント。「私も学校で、親身になって考えてあげたのに友達に伝わらなくて、こんな気持ちなったことがあります」。彼女が贈る雪うさぎは、私のそれより何倍も可愛(かわい)いに違いないと思うと、心がぽっと癒やされる。
六十の春こそ佳(よ)けれ絶交す
60年こつこつ生きてきたのだもの。己に負荷をかける人間関係から卒業させていただいてもよかろうという、前向きな絶交もあるのだよ。
怒りや憤りに心が支配されそうになったら、ちょっと待てよ、これも句材ではないか、と立ち止まってみる。ものの本によると、怒りは6秒待てば沸点が下がるらしい。今の怒りを俳句にしようとすれば、誰でも絶対6秒以上はかかる。完璧なクールダウンだ。
YouTubeで呼びかけた悪態俳句募集には、今も書き込み投句がぞくぞくと増えている。
呉れてやる新巻鮭と熨斗(のし)付けて 雨子
「この企画燃えます。理性を失いそう」と雨子さん。呉(く)れてやる! と怒る具体的出来事がなんであったかは分からないが、呉れてやるモノが、「新巻鮭(さけ)」であるところに俳諧味がある。
俳号というのも便利な仕組みだ。本名ではない自分として、生身の自分を表現できる。
ほっといてくれよ恋猫なんだから 田祥聖
「恋猫」が春の季語。発情期の猫のことだ。祥聖くん、誰に向かって、ほっといてくれと開き直っているのか。色々想像できて可笑(おか)しい。
悪態を罵詈(ばり)雑言のままにしておかず、俳句という文学作品にしてみる。それを読んだ人の心には、私だけではないのだという共感も生まれる。皆いろいろ抱えて生きてるんだよね、と励まされる。同じ時代を生き抜くための小さなエネルギー。十七音の俳句には、そんな力もあるのだ。