「パクスなき世界」第4部

 

パクスなき世界 夜明け前(1)

 

 

世界裂く「K字」の傷 民主主義・資本主義の修復挑む

 

 

 

世界は転機にある。20世紀の繁栄の礎となった民主主義と資本主義という価値の両輪は深く傷つき、古代ローマで「パクス」と呼ばれた平和と秩序の女神は消えた。新型コロナウイルスの危機は超大国・米国の衰えに拍車をかけ、世界の重心は力を増す中国に傾く。あなたは歴史の転換を傍観するだけですか――。

トランプ前米大統領の支持者らによる米連邦議会議事堂への襲撃は、民主主義に傷をつけた=ロイター

ドイツでは昨夏、極右勢力が国会議事堂に侵入を図った。オランダの地方都市の首長はコロナ下の夜間外出禁止に反発する暴動をみて「内戦になる」とおびえた。トランプ氏本人は権力の座を去る前、イラクで市民殺害に関与し有罪判決を受けた米民間軍事会社の4人を恩赦した。国連の専門家グループは「正義への冒とくだ」と批判する。

古くから「夜明け前が最も暗い」という。私たちはいま内なる敵と外からの脅威を同時に抱えている。世界を内から切り裂くのは「Kの字」の傷だ。米国の上位1%の富裕層は資産全体の3割を握る。コロナ下の財政出動と金融緩和で株価は上がり、持つ者と持たざる者の差はさらに開いた。

力の逆転という外部環境の激変が追い打ちをかける。中国の名目国内総生産(GDP)は2028年にも米国を抜く。30年代とみられていた時期がコロナ禍で早まり、35年に中国と香港を合わせたGDPは日米合計を上回る勢いだ。中国は共産党の支配体制を守るためなら自由や人権を犠牲にすることもいとわない。

 

 

▼経済社会の「Kの字」の傷


上向きと下向きに分かれた「K」の文字の形から、富裕層がさらに富み、貧しい者がさらに困窮する状態を示した表現。景気が急に回復する「V字」回復や、回復が不十分なまま横ばいが続くのを「L字」と称するのに対し、経済の二極化に拍車がかかる局面を「K字」になぞらえる。イエレン米財務長官は「ずっと前から私たちはK字経済の中にいる」という。

1カ月前、第46代米大統領に就いたジョー・バイデン氏は「民主主義はもろい」と語る。古代ギリシャ以来、2500年以上の歴史を持つ民主主義は長く衆愚政治に陥ると忌避された。それがこの2世紀ほどで自由や法の支配という価値と結びつき、経済成長に伴って普遍的価値に高まった。

そして今。豊かさが行き渡らず、人の声に耳を傾けない不寛容が広がる。英歴史家エリック・ホブズボームは民主主義を実現する条件の一つに「富と繁栄」を挙げた。民主主義と資本主義を磨き直し、闇のなかで未来を探る挑戦が始まった。

「今こそ大胆に動くべきときだ」。米財務長官に就いたジャネット・イエレン氏は12日、主要7カ国(G7)の財務相・中央銀行総裁に訴えた。バイデン政権はコロナ禍からの脱却を最優先し、1.9兆ドル(約200兆円)の「米国救済計画」の実現を急ぐ。家計への追加現金給付や失業給付の上乗せなどをめざす。

米製造業の雇用は約40年間で4割弱、700万人減った。バイデン政権は中間層の復活を掲げるが、税制改革などで格差を是正し、中間層に厚みをもたらすのは時間がかかる。「K」の傷を癒やすにはまず底辺を支え、引き上げるしかない。

 

バイデン、イエレン両氏が胸に刻むのは副大統領、米連邦準備理事会(FRB)幹部として支えたオバマ政権の教訓。リーマン危機後の09年に発足したオバマ政権は医療保険改革に注力して雇用回復が後手に回り、最初の中間選挙で大敗した。

1.9兆ドルの財政出動は米国のGDPの1割近い規模となる。その大盤振る舞いに、同じく民主党政権で財務長官を務めたローレンス・サマーズ氏は「未知の領域だ」と経済の過熱を警戒する。

財政措置が大きすぎ、増税などで資金を吸収できなければ、急激なインフレやバブルの発生・崩壊などの深刻な打撃を経済にもたらしかねない。社会はさらに傷つき、24年の次期米大統領選で「トランプ」に再び取って代わられる――。そんな未来さえ引き寄せるリスクのある賭けにバイデン政権は打って出た。

「私たちの無為や怠惰は次世代に引き継がれる」。1月20日、バイデン大統領の就任式で詩を朗読した22歳のアマンダ・ゴーマンさんは「新たな夜明け」へ行動を呼びかけた。価値の修復への挑戦はあすも続く。

 

 


 

パクスなき世界 夜明け前(2)

 

 

反グローバリズムの限界 コロナが迫るEU協調

 

 

反グローバリズムは私たちの生活を豊かにしますか――。

1月18日、ロンドンの国会議事堂近くの道路が大型の冷蔵トラックで埋まった。英国の欧州連合(EU)離脱で、EUで海産物を売れなくなったと訴えるスコットランドの漁師らのデモだった。

スコットランド自治政府は2014年に英国からの独立の是非を問う住民投票を実施した。否決されたが、早期に新たな投票をめざす。ブレグジットという保護主義がかえって自由貿易を要求する声を増幅させ、分断がさらなる分断を招く。

米ソ冷戦の終結から30年たった世界で「国際協調疲れ」が目立つ。一極体制下で、米国は世界の経済と安全保障を一手に引き受けた。グローバル化の恩恵を受けた中国が急成長し、米国で製造業を中心に雇用が減った。

新型コロナ下でも米中間の貿易量は衰えない(2020年4月、米ロサンゼルス港)=ロイター

トランプ前大統領の保護主義や中国への強硬姿勢が支持されたのは米国ばかりが重荷を負うグローバリズムへの不満の表れだった。バイデン政権も米国製品を優遇する「バイ・アメリカン」の看板は下ろせない。

安保面では中国包囲網の色はなお濃い。米欧が同盟再建を探る協調ムードの中でも「ex-China(中国を除く)」がキーワードとなる。

それでも一度定着したグローバリズムの流れは止まらない。

米中間の貿易総額は20年10月に過去最高水準に迫り、翌11月の世界の貿易量も新型コロナウイルスの感染拡大前の水準を超えた。新興国の金融市場への資金は一時的な断絶にとどまり、以前と変わらぬ流入が続く。

世界は何度も危機を克服してきた。保護主義に走った米国がドルと金の交換を停止したニクソン・ショックから半世紀。かえってドルの流動性は高まり、今の国際貿易体制の基盤をつくった。

「グローバル化か反グローバル化かの二者択一ではない」。自国の雇用を重視する米最大労組、労働総同盟産別会議のリチャード・トラムカ議長でさえこう話す。

感染急拡大がグローバル化の副作用なら、それを克服する動きもグローバル化のたまものだ。

米ファイザーとワクチンを共同開発した独ビオンテックの創業者はドイツに移り住んだトルコ移民。ウイルスゲノム解析は国際的な研究者ネットワークで進み、協調の必要性を浮き彫りにする。

 

新型コロナの死者数が9万人を超え、欧州で英国に次いで深刻なイタリア。20年の感染拡大初期に医療崩壊に直面し、EUに医療防護具の支援を求めたが、自国の対応に追われるEU各国から救いの手はなかった。EU加盟の意味はあるのか。もとより根強いEU懐疑論がさらに深まった。

危機感を抱いた独仏がEU加盟国を説得し、20年7月に欧州復興基金の創設で合意。今年稼働した。イタリアには最多の2千億ユーロ超を割り振った。13日にイタリアの新首相に就いたドラギ氏は使い道を決め、EUの承認を得る使命を担う。

かつて欧州中央銀行(ECB)総裁として欧州債務危機の克服に辣腕を振るったドラギ氏。17日の所信表明演説では「EUの視点を共有し、新たな復興をめざす機会だ」と連帯を訴えた。

欧州の深刻な分断を、より力強い求心力へと変えられるか。イタリアの成否はポピュリスト政党の台頭で結束が揺らぐEUの未来を占う。

 

 


 

パクスなき世界 夜明け前(3)

 

 

中国買い、通貨覇権揺らす 膨張続く「戦時財政」

 

 

 

あふれるマネーで「安定」を買えますか――。

Tシャツにバンダナの青年がウォールストリートのプロに打ち勝った。キース・ギル氏。ファンドが空売りしていた株の買いをSNS(交流サイト)で呼びかけた。個人の参戦で株価は急騰し、ファンドは巨額の損失を被った。「歴史的な1日だ」。1月、ギル氏は動画配信で勝利を祝った。

同じ頃、暗号資産(仮想通貨)ビットコインの価格が急騰した。テスラ最高経営責任者(CEO)のイーロン・マスク氏がツイッターのプロフィルを「#bitcoin」としたのがきっかけだ。

あふれるマネーとSNSが結びつき、市場を揺さぶる=ロイター

2人の「ヒーロー」の背景に政策がある。マスク氏は脱炭素の時流に乗り、ギル氏を取り巻く個人は新型コロナウイルス対策で現金給付などを手にした。カネ余りとSNSが「狂乱」を生む。

コロナ禍で政府の借金は積み上がった。米政府債務は2020年に国内総生産(GDP)比で100%を超し、第2次大戦時に並ぶ「戦時財政」にある。米連邦準備理事会(FRB)が緩和策で長期金利を1%程度に抑え、GDP比の利払い負担こそ増えない。だが債務膨張は基軸通貨ドルの覇権を静かにむしばむ。

「中国債は米国債よりずっといい」。世界最大のヘッジファンドを率いるレイ・ダリオ氏は20年11月、米メディアに言い放った。20年もプラス成長だった中国の長期金利は3%台で、海外勢が持つ中国の債券は20年に2.9兆元(約47兆円)と1年で5割増えた。ロシアは5年前に外貨準備の約半分だったドルを半減し、中国の人民元をドルに次ぐ12%に増やした。

戦時中の1944年に開かれたブレトンウッズ会議はドルを基軸通貨として認め、国際通貨基金(IMF)と世界銀行を柱とする戦後の国際金融秩序を定めた。20世紀後半の民主主義と資本主義の繁栄は、経済開発のために世界に出回ったドルを媒介にして広まった。

その秩序を民主主義に染まらない中国が揺さぶる。世界銀行によると20カ国・地域(G20)から途上国への2国間融資で中国は19年に63%を占める最大の貸し手で、13年から18ポイント上昇した。「内政不干渉」を掲げ、支援先に民主化や人権重視を求めない中国に強権体制の多い途上国はなびく。

もっとも中国の融資金利は高く、平均4%強と国際機関の2倍との推計もある。返済に窮したスリランカは99年間の港湾の運営権を中国に事実上譲渡した。借金漬けで影響下に置く「債務のわな」への警戒感は世界で高まった。人民元を使おうにも国境をまたぐ取引が制限され、使い勝手は悪い。ドルに代わって秩序の中心となる道は遠い。

「きのうではなく、きょうとあすの課題に取り組む」。バイデン米大統領はいう。トランプ前政権は国際協調を傷つけただけでなく、財政規律や説明責任と向き合う真摯さを政治から奪った。バイデン政権は野放図な政治に一線を画し、富裕層の課税強化など負担増の是非を問う道を探る。

戦時の英首相チャーチルは大勢に流されず「治療法」を示すことが指導者の役割だと説いた。米国がコロナ禍で膨らんだ「戦時債務」をいかに制御し、ドルの信認を保つか。怠れば米国の衰退は速まる。民主主義、資本主義の盟主として米国がいつまで機能し続けるかという、21世紀の世界を左右する挑戦になる。

 

 


 

パクスなき世界 夜明け前(4)

 

 

高学歴は賃金2倍に 格差埋める教育アップデート

 

 

 

教育は万人に開かれていますか――。

「もうログインしたくない」。米西海岸シアトル市のアドリエン・マックイアンさんの娘、アリアさん(9)は2020年9月、学校のオンライン授業初日で打ちのめされた。生徒同士のあいさつもなく朝から画面を見続ける6時間は苦痛でしかなかった。マックイアンさんは私的な学習活動「ポッド」の利用を決めた。

 

信頼の置ける隣人や友達同士で教師を雇い、超少人数の授業を受ける。新型コロナウイルスの感染拡大で対面授業が規制された米国で台頭し、情報交換のためのフェイスブックページの参加者は4万人に達した。

米国では、オンライン授業への不満がくすぶる=AP

アリアさんは午前7時40分から午後2時半まで授業を受けている。教師1人を雇う1家庭あたりの費用は月800ドル。マックイアンさんの家計では食費や光熱費を上回る出費だが、「成長には大事な時期。勉強の質と友人関係を考えれば払う価値がある」。

コロナ禍は各国で一般市民の教育への不安を増幅させた。所得に余裕がある層は教育への支出をためらわない。

米マサチューセッツ工科大の分析では、1963年からの54年間で大学院卒男性の実質賃金は約2倍となる一方、学歴が低いほど賃金も伸びなかった。同大のデービッド・オーター教授はIT(情報技術)産業など「技術の進歩の恩恵は高度教育を受けた者に偏った」と指摘する。

米国の哲学者ジョン・デューイは「教育は社会の進歩と改革の基本的な方法」だと説いた。社会が求める人材は時代とともに変わる。デジタル化の急速な進展に既存の教育システムは追いつかない。高度な教育の裾野をどう広げるか。模索する動きが出始めている。

全米科学財団(NSF)は大手IT企業などと組んで、中高生の段階から次世代テクノロジーの量子技術に触れる人材「量子ネーティブ」の育成を始めた。通常、量子技術にかかわる専門知識は大学で学ぶが、若い世代にも先端の教育機会を広げ、「将来の労働参加の幅を広げる」と意義を強調する。

米IBMは多くの黒人が通う大学で100億円超を投じて量子教育などを充実させる。デジタル時代に続く「量子時代」の到来を見据え、スキルを持つ高度人材育成での格差縮小を狙う。

世界経済フォーラム(WEF)は25年までに自動化で8500万人の雇用が機械に置き換わる一方、9700万人分の新たな仕事が創出されると分析する。日々進歩する技術に対応するには、学び直しができる環境の整備も急務だ。

「必要なスキルを身につけ、より良い仕事を」ロックダウン(都市封鎖)で1億人以上の出稼ぎ労働者の雇用が危機にひんしたインドで、主に低所得者層に職業訓練などを行う施策「スキル・インディア」に人々の関心が集まっている。

オンラインで職業訓練を施し、地域別の労働需要を細かく分析するなどして就労を促す。都市で廃棄物処理の仕事を失った20代の若者は訓練を受け、郊外の地元で携帯電話の修理店を開いた。

より豊かな生活への希望を諦めなければ学びの活力となる。コロナの空白を断絶とするか、新たなスタート地点として転換点とするかは私たち次第だ。

 

 


 

パクスなき世界 夜明け前(5)

 

 

破綻よそに高額報酬 資本主義、危機が問う進化

 

 

 

企業の目的は利益だけなのでしょうか――。

「この計画は腹立たしい」。2020年9月、米レンタカー大手ハーツ・グローバル・ホールディングスの破産手続きを進める裁判で、裁判官の厳しい言葉が何度も発せられた。批判の矛先は経営陣にボーナスとして合計540万ドル(約5.7億円)を支払う計画。同社は一時解雇を含め1万6千人を削減した一方、破産申請の数日前にも役員に高額の特別手当を支給した。

米百貨店大手JCペニーは破産申請の直前に最高経営責任者(CEO)に450万ドルを支払った。経営責任を問われるはずの幹部が利益を得ていた。従来、正当化されてきた米国の経営トップの高額報酬のひずみはコロナ禍で拡大している。

コロナ禍で経営陣の高額報酬に批判の声があがる(2020年6月、メキシコシティ)=ロイター

資本主義では企業を中心に利益を追求する行動が経済全体のパイを拡大してきた。18〜19世紀の産業革命以降、企業を通じ雇用や所得が増え、中間層が大衆消費社会を支えた。企業の成長で労働者も恩恵を受けられた。

21世紀は大量雇用が不要なデジタル経済に軸足が移り、企業が生む利益と労働者への配分は同じベクトルとはならない。国際労働機関(ILO)によると、17年の世界全体の労働分配率は51.4%と04年から2.3ポイント低下。労働者に回る富は限られ、経済のダイナミズムが失われつつある。

 

危機の度に企業のあり方は問われる。08年のリーマン・ショックで金融機関幹部らの強欲さが批判された。コロナ禍は放置されてきた問題の深刻さを浮き彫りにした。

共通の未来を描きにくい今、企業は社会における存在意義を自問する。「コロナ禍で優先したのは従業員と顧客の安全」。米ゼネラル・モーターズ(GM)のメアリー・バーラCEOは1月、デジタル技術見本市「CES」で強調した。人類の危機に際し、同社は「我々には製造業の専門知識がある」と、人工呼吸器を3万台、マスクを2億枚生産した。

行き過ぎたテック企業の流儀への対抗軸も広がる。「フェイスブックは『監視資本主義』に陥っている」。マーク・ワインスタイン氏は利用者のデータを使い広告収益を得るモデルに疑問を感じ、16年に広告なしのSNS(交流サイト)の「MeWe」を立ち上げた。基本料金は無料で、追加機能を使いたい利用者が料金を支払う仕組みだ。

プライバシーを重視する消費者が他のSNSから乗り換え、足元で1700万人が使う。ワインスタイン氏は「顧客のデータを売らない倫理的な企業をめざした。本来の資本主義は顧客に喜んでもらい信頼関係を構築するものだ」と訴える。

21年3月期に初の純利益1兆円超えを見込むソニー。18年に社長に就いた吉田憲一郎氏が最も力を入れたのが、企業の存在意義の再定義と社員・株主などとめざす方向性の共有だ。その価値観を人工知能(AI)活用の規範にも反映し、自社製品が人類に悪影響を及ぼさぬよう自らを律する。

「神の見えざる手」で知られるアダム・スミスは「道徳感情論」で、利己的に見える人間には「他人を心にかけずにはいられない生まれ持った性質がある」と説いた。両方がかみあってこそ秩序と繁栄は保たれる。高潔さを併せもつ資本主義を築けるか。人類共通の課題だ。

 

 

 

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