NIKKEI The STYLE 「My Story」

 

 

ジャガイモ精神で挑む 指揮者・佐渡裕さん

 

 

さど・ゆたか 1961年京都府生まれ。84年京都市立芸術大学音楽学部フルート科卒業。89年ブザンソン国際指揮者コンクール優勝。95年レナード・バーンスタイン・エルサレム国際指揮者コンクール優勝。2005年阪神大震災からの心の復興をめざす兵庫県立芸術文化センターの芸術監督に就任し、現在も活躍中。「題名のない音楽会」の5代目司会者(08~15年)となり、温かい人柄でお茶の間の人気者に。

 

 

世界的指揮者の佐渡裕さんは、新型コロナウイルス禍でもオンラインを駆使した「サントリー1万人の第九」などの演奏会を次々と成功させ、人々の心を癒やし続けている。情熱の源にあるのが恩師バーンスタインから授かった「ジャガイモ精神」だ。

憧れの巨匠、レナード・バーンスタインとの出会いは衝撃だった。1987年夏、米マサチューセッツ州西部のタングルウッドで毎夏開かれる音楽祭に参加した。オーディションで指揮のレッスンを受けられる3人に奇跡的に残り、公開レッスンを受けることに。指揮はほとんど独学だっただけに緊張と不安で胸が張り裂けそうになる。課題曲のチャイコフスキー「交響曲第4番」第2楽章を何とか振り終えた。

派手ではないが、才能がある。音楽をよく理解している――。バーンスタインはその思いを「シブイ」という言葉に込め、握手を求めてきた。ところが手を握ろうとしない。20センチほどの距離をとり、ゆっくりと手を近づけてくる。2分ほどたっただろうか。突然ガッチリと手を握り締め、佐渡さんの体に電流のようなショックが走った。

 

 

コンプレックス見抜き「能の極意で指揮を」

 

まさに能の「はこび」のようなすり足を見せたバーンスタイン。そこから能の講義が始まる。「能面の種類はどれほどあるか知っているか」「能面の表情は音楽や動きによって変わる」「静かな動きに膨大なエネルギーが秘められている」。マーラーの交響曲第5番第4楽章「アダージェット」は能の極意で指揮をするんだという。佐渡さんは当時「西洋のクラシックを日本人が指揮してよいのか」「米国で指揮を学ぶのに英語がうまく話せない」といったコンプレックスにさいなまれていた。バーンスタインはこれを見抜き、一瞬にして打ち砕く。「日本人の誇りを持って指揮をすればよい」というメッセージだったのだ。

翌88年夏、再びタングルウッドへ。彼に心酔する佐渡さんは募る思いを爆発させる。「あなたのそばで勉強したい」。するとバーンスタインは「ユタカ、ウィーンへ行け!」。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのレコーディングや70歳の記念ツアーがあるから勉強に来いというのだ。「えっ」と思ったが、そのままウィーンに向かった。

ウィーンの2年間はバーンスタインとウィーン・フィルに必死に食らいつく。バーンスタインが欧州各地の楽団を指揮する際は同行。プライベートジェットで移動するバーンスタインを夜行列車を乗り継ぎ追った。独ハンブルクでは寝袋で夜を明かしたことも。公演は練習から見学し一挙手一投足に注目した。「指揮棒をどう振るかではなく、音楽をどう創るかを学んだ」。ウィーン・フィルもリハーサルから見学し、ホールに入れない時はステージのドアののぞき穴から見た。そして89年。かつて小澤征爾が優勝した仏ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝する。

 

 

90年に72歳で肺がんで亡くなるバーンスタイン。悲しみにくれていた時に聞いた、彼が親しい日本人に佐渡さんについて話した言葉は今も心に刻まれている。「俺はジャガイモを見つけた。今はまだ泥がいっぱい付いているけれども、泥をきれいに拭い去ることができたら、世界中の人々が毎日聴きに来るような音楽を創るだろう」

仏ブザンソン優勝後はバーンスタインが期待した通り、世界中から指揮の依頼が殺到する。だが浮かれることなく仏ラムルー管弦楽団(首席指揮者)などで地道な音楽活動を始める。「僕はジャガイモ」。多くの人々に音楽の感動を伝えるには自身がもっと努力し、もっと泥を落とさなくてはならない。

恩師の言葉が心に響いたのは自身の経歴が決して音楽エリートではないこともあったかもしれない。父親は校長も務めた中学の数学教師。母親は声楽家ではあったが、有名ではない。2歳からピアノを始め、少年合唱団に入った。大学は京都市立芸術大学。指揮とは関係ない音楽学部フルート科だ。

 

高校部活にママサークル 幸福感は名門楽団と変わらず

 

指揮の喜びに目覚めたのも大学時代のアルバイトだ。女子高の吹奏楽部のコーチになり、コンクールで金賞を目指した。生徒たちと夏休み返上で頑張ったことは、結果は銅賞だったが音楽と向き合う大切さを学んだ。ママさんコーラスのバイトでは、楽譜を読めない人たちと一緒に音楽を創る一体感を味わった。「あの時の幸福感は欧州の名門楽団で感じる幸福感と同じ。音楽創りの原点になっている」という。

佐渡さんはコロナ禍で音楽の感動を発信し続けている。昨春には動画投稿サイトに「すみれの花咲く頃」の演奏動画を投稿。昨秋には密を避けつつホールに約120人を配置し、リヒャルト・シュトラウスの大曲「アルプス交響曲」に挑んだ。昨年末には「1万人の第九」を指揮。約1万2千人のオンライン合唱をまとめ上げた。「音楽は様々な立場の人とつながることができる芸術。世界が混乱している今こそ音楽の喜びを分かち合い、心を一つにしたい」

中学校の吹奏楽部をサポートするなど子供向けプロジェクトにも情熱を傾ける。「次代を担う子供たちに音楽の面白さを伝えることはバーンスタインの仕事の継承であり、僕に与えられた大事な使命」という。

これまでの実績で一つの頂点といえるのが世界最高峰ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団への客演だ。小学校の卒業文集に「大きくなったらベルリン・フィルの指揮者になる」と書いたことが11年5月21日から3日間の公演で実現した。特に3日目の演奏は忘れられない。ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」。もう迷いはない。アクセル全開だ。これまで感じたことのない宇宙と一体化したような至極の幸福感に包まれる。指揮をしながら涙があふれ出てきた。最後は祈りのポーズ。カーテンコールが鳴りやまない。1人で舞台に行き、万雷の拍手を浴びた。

15年にはウィーンの名門、トーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督に就任。ジャイガイモの泥はもう十分きれいに拭い落とせたように見える。だが佐渡さんは「まだまだ」「不十分」「全然」。59歳。挑戦は終わらない。

 

 

【My Charge】帰国時は必ず神戸市のバーへ 今は亡き親友との酒、思いはせ

 

世界を飛び回る佐渡さんが、地元関西に帰って来て必ず行く場所が2つある。一つは神戸市のバー「Keith」だ。落ち着いたムードの店内でマスターとの会話を楽しみながら、最高級のスコッチウイスキーで作った極上ハイボールのグラスを傾ける(写真上)。「また日本に帰ってきたんだなあ」とホッとする瞬間だ。

 

時には音楽の仲間や友人たちとの団欒(だんらん)の場にもなる。親友だったミスターラグビーの故平尾誠二さんとも何度も酒を酌み交わし、会話を弾ませた。お互いの立場を尊重しつつ、健闘をたたえ励まし合った。Keithの一角には「ありがとう。佐渡さん。明日も戦う勇気がでます。最後は人間体力ですね。嬉(うれ)しかったです。」と書かれた平尾さん直筆のコースターが今も残る。

もう一つが兵庫県芦屋市の芦屋カンツリー倶楽部。港町・神戸を一望できる絶景ホールを持つ緑豊かなゴルフ場だ。ノーベル生理学・医学賞受賞者の山中伸弥さんと共に特別会員に名を連ねる。シングルプレーヤーの腕前を持つ佐渡さんだが、単にプレーを楽しむだけではない。指揮台からさまざまな楽器の音色を聞き分けるがごとく、ゴルフ場全体を見渡してコースやグリーンの状態にも目を配る。最近ではコースの管理やメンテナンスを行う「グリーンキーパー」という職業に興味を持ち、同倶楽部のキーパー部門に昨夏、1週間ほど弟子入りした。グリーンの芝刈りや穴を開けて肥料を混ぜた砂をまくエアレーション、カップ位置の変更から木々の手入れまで一通り学んだ。師匠役のキーパーは「熱心で優秀。チャンスがあれば実際に作業をお願いしたいくらい」と笑顔で話す。

2015年にウィーンのトーンキュンストラー管弦楽団音楽監督に就任してからは自炊することが増え、料理の腕にさらに磨きをかけた。レパートリーはカレー、チャーハンからパスタ、煮込み料理まで幅広い。時には右手でタマネギをバターでじっくりいためながら、左手にスコア(楽譜)を持って勉強することも。昨秋、ピアニストの反田恭平さんが現地の演奏会に出演した時はウィーンの自宅に招き特製ドライカレーでねぎらった(写真下)。

 

「音楽も料理も人が喜ぶ、心に届くものをつくりたい」という。

 

 

 

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