こころの玉手箱
指揮者 藤岡幸夫(1)
渡辺暁雄先生が下さったスコア
大学3年生の秋ごろ、東京・音羽にあった指揮者の渡辺暁雄先生の自宅に伺った。小学4年生からの夢だった指揮者になれるか、テストをしてもらうためだ。だが実はそのとき、夢を諦めかけていた。他のジャンルの音楽も大好きでやんちゃだった私は、クラシックの世界には向かないと思い込んでいた。
ふじおか・さちお 1962年東京都出身。85年慶大文卒。英国王立ノーザン音大卒。2000年関西フィルハーモニー管弦楽団正指揮者、07年から首席指揮者を務める。19年東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団で首席客演指揮者。
部屋に入ると、いきなりピアノで和音を鳴らし「下から2番目の音を歌って!3番目は?」。続いて聴音の書き取り。最後にチェロとピアノを弾いた。90分ほどのテストが終わると「良い指揮者になれるよ。あさってから毎日うちにいらっしゃい」と一言。内弟子生活が始まった。
シベリウスの交響曲第2番は先生の十八番だった
最初の教えは「人の悪口を言っちゃいけない。言われる側の人間になりなさい」。病室での最期の言葉も同じだった。音楽はもちろん、スポンサーとの付き合いなど指揮者としての振る舞いも学んだ。日本フィルハーモニー交響楽団を創設した先生は、オーケストラをどう発展させていくか、人一倍心を砕いていた。
1987年、日本フィルの指揮研究員になった後にシベリウスの交響曲第2番のスコアを頂いた。シベリウスはフィンランド人の母を持つ先生の代名詞で、中でも第2番は十八番。「第2楽章が勝負。ペンが乾ききっていない音楽にできるかどうかだ」と教えられた。
評論家から取って付けたように「北欧の自然を感じる」などと評されることは嫌っていた。シベリウスは浪費家で、大酒を飲んではけんかをした破天荒な人物。いつも「ものすごい強烈な感情がこもってるんだよ」と説いていた。
振り返ると大変失礼なことだが、当時の私は「先生に何かあったら指揮台に立ってやる」と意気込んで勉強し、どんどん書き込みをした。先輩指揮者には「大事に取っておくものだよ」とあきれられたが、先生は生意気ぐらいのことを私に期待していたように思う。
作曲家の黛敏郎さんらに私を紹介するときにはいつも「何か新しいことをやりそうなんだよ」と言ってくださった。先生は現代音楽の作品を世に問うことに尽力した。今、私が力を入れるのは、多くの人から愛される親しみやすい同時代の新しい音楽を紹介すること。スコアに書き込みを重ねたように、先生の教えを胸に、私なりの「新しいこと」に取り組んでいる。
指揮者 藤岡幸夫(2)
サー・チャールズの形見のカフス
1989年6月、日本フィルハーモニー交響楽団の定期公演で、英国の作曲家ディーリアスの「人生のミサ」が演奏されることになった。タクトを振るのはチャールズ・グローヴス。同じく英国の名指揮者だ。
英国作品を指揮するときには身に着ける
だが、使用する楽譜はミスだらけ。指揮研究員だった私は練習場やホテルで一緒に連弾し、隅々まで間違いを直していった。「ちゃんと勉強してるな」と褒めてくださり、「君の指揮を見てみたい」と言われた。
ホテルにヴェルディの「運命の力」を指揮したビデオを持って行くと「自分は教えていないが、マンチェスターに最高の指揮科があるから受験しろ」との助言。渡辺暁雄先生もいずれは海外の音楽大学で学ぶべきだと口にしていた。
90年春、チェコのターリッヒ国際指揮者コンクールに出場(結果は入賞)。しばらく後、英国の王立ノーザン音楽大学から手紙が届いた。「試験は終わっているが、合格者ゼロだったので受けに来ないか。不合格でも聴講生として受け入れる」。サー・チャールズが話をしてくれていたのだ。
無事合格し、9月に入学した。サー・チャールズが「アケオ・ワタナベに代わって英国の父になるよ」と言ってくださり、とてもうれしかった。6月には暁雄先生が亡くなっていた。
月1回はロンドンの自宅に伺い、レッスンを受けた。楽譜を引っ張り出しては連弾を繰り返す。「この曲がなぜ素晴らしいかわかるかい?」「この音だよ、このフレーズだよ」……。
ヴォーン・ウィリアムズにブリテンと、英国作品を数多く学んだ。「ホルストは指揮者としては最悪だった」など、実際に接してきた人ならではの話も。レッスンの最後は必ずフランスの作曲家ラヴェルの「マ・メール・ロワ」で締めた。
92年6月、サー・チャールズが亡くなった。奥様から形見分けとして頂いたのが、イカリ模様が刻まれたカフス。首席指揮者を務めていたロイヤル・リバプール・フィルハーモニー管弦楽団から贈られたものだ。今も衣装ケースに入れて持ち歩く。英国作品を指揮するときには身に着け、"父"とともに舞台に上がる。
指揮者 藤岡幸夫(3)
ショルティから頂いた指揮棒
1995年初夏、ロンドンの高級住宅街にある世界的指揮者の自宅を訪れていた。通された地下室には、スタインウェイのグランドピアノが向かい合わせに2台置かれている。待つこと10分、老紳士が正装で現れ、一言。「アイアム ショルティ」。カラヤン、バーンスタインと並ぶ大スターが眼前にいた。なんて格好いいんだ!
リハーサルで使っていた
私は当時、BBCフィルハーモニックの副指揮者。次の演奏会ではショルティがブルックナーの交響曲第1番を指揮することになっていた。その10日ほど前、私の指揮で全く同じプログラムをラジオ向けに録音・放送する。楽団としてあまり演奏したことのない曲だったので「ショルティのレッスンを受けてこい」と命じられたのだった。
連弾をして、90分ほどのレッスンはあっという間。おかげで私の演奏はうまくいった。ショルティの本番は格段にすさまじかった。ショルティは私の録音を聴いており、良かった点、悪かった点を助言して下さった。さらに「この日本人にもっとブルックナーを振らせてやれ」と推薦していただいた。おかげで翌年、マンチェスターで開かれたブルックナー・フェスティバルで交響曲第3番を指揮することができた。
95年は秋にも同様に、ショルティと同演目で放送用の録音をした。R・シュトラウスの交響詩「死と変容」と「ツァラトゥストラはかく語りき」。ショルティの「死と変容」のリハーサルは忘れられない。
冒頭の弦楽器が静かに刻むリズムだけを、1時間も繰り返したのだ。普通の指揮者なら総スカンを食らうところだが、ショルティだから納得する。本番では、闇の中でろうそくの炎が揺らめくような、壮絶な雰囲気を作り上げてしまった。
リハーサルに感激した私がスコアにサインをもらいに行くと「記念におまえにやる」と、使っていた指揮棒まで下さった。そのときかけてもらった言葉が胸の中に残っている。「一度指揮台に立ったら諦めるな。それが指揮者の仕事だ」。教えから25年以上がたったが、100人近い音楽家と対峙して諦めないというのは、本当に難しい……。
指揮者 藤岡幸夫(4)
ヘブラーとの共演
1995年、音大生の身ながら英マンチェスター室内管弦楽団の首席指揮者に就いた。翌年にはモーツァルト弾きとして有名なピアニスト、イングリット・ヘブラーと共演することが決まった。中学生の頃からピアノ協奏曲のレコードを愛聴していた私は、跳び上がって喜んだ。
ヘブラー(中央)と。左は妻
4日間の公演で、ヘブラーが弾くのは協奏曲の第27番。素晴らしい演奏にリハーサルから鳥肌が立った。とても謙虚で、指揮もよく見てくれる。本番はもちろん美しく、気高く、至福の時間だった。弾き終わるとサッと着替えて客席に座り、後半のR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を聴く。毎回褒めてくださった上に、音のバランスなど的確な助言を頂いた。自信と勉強になった。
4日目の会場は、車で1時間ほど行った郊外の映画館だった。海外では超一流オーケストラを除き、映画館やスポーツセンターで演奏することはよくあることだ。だが着いてみて青ざめた。ピアノはとても小さく傷だらけ。調律されて音程は合っているが、同じタッチで弾いても鍵盤によって音量が変わる。へブラーが怒って帰ってしまうのではないか、と皆が心配した。
リハーサルに現れたヘブラーは「これはピアノじゃないわ」とあきれ顔。だが次には「私と彼(ピアノ)二人だけにしてくれる?」と穏やかに言った。開場直前まで誰も寄せ付けずにピアノを弾き続けた。
本番、序奏が終わりソロが始まると団員も私も仰天した。同じピアノとは思えない美しい音色。あの時間で、鍵盤の癖を把握し切っていたのだ。「すごい! 奇跡です!」。舞台袖に戻って精いっぱいの賛辞を伝えると、笑みをたたえ一言。「もちろん、私はプロフェッショナルですから」
実はこの話、関西企業の次代のリーダーを育てる「グローバル適塾」でほぼ毎年紹介している。関西フィルハーモニー管弦楽団がお世話になっている地元経済界のお役に立てれば、との思いだ。仕事を引き受けた以上、責任が生じるのは企業でも同じ。失敗を他人やモノのせいにするのは、本当のプロではない。単純なことだが、心がけている。
指揮者 藤岡幸夫(5)
吉松隆さんから贈られた手書きスコア
1994年、ロンドンの音楽祭「プロムス」にBBCフィルハーモニックを指揮してデビューした。その演奏を聴いたレコードレーベル「シャンドス」の社長から声がかかった。なんと、好きな曲でCDを出してくれるのだという。
筆致から、書きたくて仕方のなかった作品だと伝わる
楽団はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」やストラヴィンスキーの「春の祭典」を提案したが、既にあまたの名盤がある。私は迷わず「吉松隆でお願いします」と言った。周囲は吉松さんのことを知らないが「良い作曲家です」と断言し、認めてもらった。
渡辺暁雄先生は「過去の作曲家のおかげで飯を食ってるんだから、今の作曲家に恩返しをするのは義務だよ」と常々言っていた。機会があれば日本人の作品を紹介しようと、留学先にレコードや楽譜を送ってもらっていた。その中にあったのが吉松さんの「朱鷺(とき)によせる哀歌」。寒い部屋で初めて聴いたときにはあまりにも素晴らしく、自然と涙があふれた。
録音したのは「朱鷺」と交響曲第2番「地球にて」、ギター協奏曲「天馬効果」の3曲。このとき英国に来た吉松さんと初めて会った。このCDが評判を呼び、吉松さんの全管弦楽作品を録音することになった。
交響曲第3番はレコーディングが初演となる作品だった。スコアは手書き。筆致からは、吉松さんが書きたくて仕方のなかった作品だということが伝わる。シベリウスとチャイコフスキーに大河ドラマと黒沢映画を足したような、ロックでロマンチックな音楽だ。
第4楽章の演奏は完璧だったが、引き揚げると吉松さんが怒っている。「完璧なアンサンブルなんて必要ないんだ。壊してこい!」。必死に壊しにかかった。カップリングのサイバーバード協奏曲を吹いたサックスの須川展也さんを含め、3人のエネルギーはこのとき尋常ではなかった。
空港に送る車中で吉松さんが「交響曲第3番は君に贈る」と言ってくださった。いまも自分に活を入れるときにはこの手書きスコアを開きCDを聴く。そこには音楽の力があふれている。