そんな時代
作家 海猫沢めろん
ある日、9歳の息子とふたりで散歩していると、彼が突然こう言った。
「おれね、自分で頭いいと思ってるよ」
自己肯定感が高いのは悪いことではないし、彼は確かに勉強も運動もできるタイプなので間違っていない。
だがしかし……勉強も運動もできなかった私としては、こういうとき、どうしても反論したくなってしまい、大人気なくこう言った。
「あのさ、前にソクラテスの話したの覚えてる?」
ソクラテスといえば紀元前ギリシャの哲学者であり、プラトンの師匠。有名な必殺技は「無知の知」である。
この技は、「俺は賢い! なんでも知ってる!」と言う相手に対して「いや、私は自分が無知であることを知っているぶんきみより賢い」と、カウンターを当てる最強技だ。
息子は、「無知の知でしょ」と、しっかり覚えていたので私はすかさずカウンターを放った。
「もしソクラテスがいたら『私はおまえより頭が良くないことを知っているぶん、お前より頭が良い』って言うよ。そしたら君よりソクラテスのほうが賢そうに見えるね」
ところが息子がこのカウンターに対し、さらなるカウンターを返してきた。
「今はそういう時代じゃないんだよ」
「え……そ、そうなの!?」
思わず動揺する私に息子は続ける。
「ソクラテスって昔の外国人でしょ? 今の日本でそんなこと言ったらたんにバカに見えるだけだから」
9歳の息子に現代日本社会の何が理解できているのかわからないが……そこには謎の説得力があった。
確かにそうかも。
そんな気がしてきた。
その証拠に、日々ネットの論争を見ていても、誰も「無知の知」などと言ってないではないか。
うーん……。
そもそも賢いとは、知性とは、なんだろうか? 例えばある分野においては、すでに人間よりも、プログラムの「AI」のほうが賢い。
ではAIには知性があるのだろうか?
これはなかなか難しい問題だ。なぜなら時代や状況によって「知性」に求められるものが違うからだ。
原始時代は、餌を多く確保できる生物が最も知性的だっただろう。しかし近代においては社交的だったり、言葉をうまく使えたり、複雑な計算ができたり、そういったことが知性だと言われ始める。
今はどうだろうか。
人よりお金を多く稼げたり、社会的に高い地位だったり、影響力があったり、そうしたことが知性だと思われているような気がする。
確かにそこでは「無知の知」なんてあまりに無力である。
大統領も総理大臣もネットで発言する時代。彼らが発信するのは、自分がいかに偉大であるかの情報だけだ。
今の時代、弱みを見せればバカにされるだけなのか?
しかし、だからこそ私は気づいた、「無知の知」の本質は、知性ではなく「品性」ではないかと。知性だけを誇る人間に対して、その傲慢を静かに諌(いさ)める賢者的態度。
今や知性よりもこの「品性」のほうが貴重になりつつある。
ああ、そういえば、このあいだ公園で息子の友達が、「スネ夫はいい。スネ夫になりたい」と言っているのを聞いてしまった。スネ夫と言えば、成金で口だけの虎の威を借る狐(きつね)――「ドラえもん」の登場人物の中でも、屈指の品性がない人物である(劇場版は別)。
しかし、その彼曰(いわ)く「ジャイアンに守ってもらえるし、なんでも買ってもらえるからうらやましい」のだそうだ。
さらに近所のママ情報によれば、「そうそう、最近の子供ってそう言うよね」とのこと。
時代は変わったのである。悲しき格差社会のリアル。
バカでも貧乏でもいいから品性のある人間になってほしいものだ……などということを息子に言って「わかる?」と聞いてみたのだが、「……わかりづらい」と言われてしまった。
さらに彼は、「1分くらいにまとめてよ。You Tubeみたいに」と言った。
ふざけんじゃねえ!
私は心からこの時代がはやく終わることを願っている。
しかし、それよりも先に私の人生が終わるのは間違いない。
時代は過酷である。