教訓得られぬコロナ禍の悲劇
By Janan Ganesh
新型コロナウイルスに関する研究は進んでいるが、わかっていないことはなお多い(ペルーの首都リマの病院の集中治療室で新型コロナ患者のケアにあたる医療従事者)=ロイター
人類が過去100年ほどで経験した世界的危機のほとんどは、少なくとも我々に教訓を与えてくれた。第1次大戦は帝国主義を失墜させ、植民地での民族自決運動を加速させた。第2次大戦は国連など民族主義に歯止めをかけるための法的な枠組み作りを後押しする結果をもたらした。
その後の流血を伴わない災厄にも学びはあった。1970年代のスタグフレーション(景気悪化時の物価高)はケインズ主義的な経済政策の限界を露呈させた。2008年の金融危機はケインズ的政策の再評価につながった。危機的状況に陥るたび、人類は何かを学んできた。
ところが新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)という現在の危機は、こうした学びを得られない点でこれまでと明らかに異なる。特定の政治体制や経済モデルが他より常に優れているといった、わかりやすい答えがないのだ。個々の指導者のレベルであれば、ドイツのメルケル首相ら比較的成功した人と、ジョンソン英首相らあまり成功していない人に分けることができるだろう。
とはいえ、制度としてはパンデミックの一年をその優位性で制したものもなければ、決定的に敗北したものもない。我々のように日々の出来事が意味するところを探り出すことを仕事とする人々にとって、パンデミックから大きな教訓を得る試みから手を引く時が来ているようだ。
ドイツが感染拡大の抑え込みに比較的成功していた頃は、欧州の社会民主主義の有効性が示されたとみられていた。だが、公的社会支出がドイツより手厚いイタリアの人口あたりの死亡者数は、米ジョンズホプキンス大学がデータを集計している国々の中で最も多い。フランスはさらに大規模な資金を福祉に投じているが、その累積感染者数は世界最多クラスで、同国を上回るのは人口がはるかに多い数カ国のみだ。
統治形態で優劣つけがたく
人口当たりの死亡者数や累積感染者数、第3の指標である致死率をみても「大きな政府」の国の方が「小さな政府」の国より感染対策で成果をあげているとは言えず、その逆とも言えない。
国家による統制と自由市場のバランスの適正な在り方は、ほとんどの民主国家における選挙の争点になってきた。パンデミックはこの問題にスポットライトを当てたものの(望ましい政府の大きさを決める)適正なバランスの問題への答えは依然としてわからないままだ。
市民の自由を国家がどの程度認めるのが適正かという問題についても同じことが言える。国家主導の徹底的なアプローチで感染拡大を抑え込んだ中国の成功は、権威主義国家に懐疑的な人々にも体制の一定の有効性を印象づけた。ただ、ニュージーランドなど比較的うまく対応している民主国家も多数ある。
第4の指標である累積死亡者数を含め、パンデミックのどの指標をとっても多元的な民主国家と権威主義的な国家のどちらか一方が他方より優れていると断定できる根拠はない。両方の制度を採り入れている複合型国家のコロナ対策をみると、成功しているといえないハンガリーなどに加え、優等生のシンガポールなど様々だ。
誰もが当然成り立つべきだと考える相関関係も、今回は成立していない。裕福な国の方が中所得国よりコロナへの対応力が高いかもわかっていない。英国はインドネシアより感染者数が多い。スペインの感染者数もコロンビアを上回る。米国の感染者数は群を抜いて世界最多だ。米国内のデータを分析しても、感染率や致死率の分布状況に明確な論理性はみられない。
この混沌としたデータの中でパターンと呼べるものがあるとすれば、東アジアと東南アジアでのにわかには信じがたい成功だろう。だが、この地域には共産主義国家の中国と複数政党による民主国家の韓国のほか、さらに様々な政治体制が存在する。世界はこの地域の成功からどのような体系的教訓を得られるというのだろうか。
耐えがたい教訓なしの災厄
はっきりとした答えを求めようとするのは恥ずかしいことではない。この極めて人間らしい弱さは専門用語で「物語の誤謬(ごびゅう)」と呼ばれる。これは、散発的に起こった事象に全体像や秩序を見いだそうとする人間の欲求を意味する。人間は起きた事象をただ記録するだけでなく、どう起こって何を意味するのかを理解し、説明したいのだ。
この欲求を否定した場合、人は人生が無作為性によって左右されていることを受け入れざるを得なくなるが、往々にしてそれは耐え難い。このため、スポーツで絶好調のチームはこれまで誰も考えつかなかった驚くべき戦術を導入して連勝していると人々に思われてしまう。エネルギー関連の株価が上昇しているのは石油価格の高騰のためであり、よもや偶然ではあり得ないと言われてしまうのだ。
因果関係を見いだしたいという欲求は、生死に関わる危機的状況ではことさら強くなる。大勢の人々の苦しみに直面しても、そこから社会を良く変えていく教訓を得られると思えれば救われるためだ。未来を変えるためにどうすればよいか示されない悲劇は耐え難いのだ。
データ分析において試される自制
だが、データが一定の形へ収束していかない限り、何をどう変えるべきかという道筋もわからないのが実情だ。それどころか、ウイルスの脅威に対して政策的に対応するうえで守るべき確固たるルールすら示されることはない。
特定の社会組織モデルが他より優れているかなど判定するすべもない。中国は地政学上の覇権をかけたプロパガンダ戦で、自国の制度こそがコロナ危機で成果をあげたと主張するだろう。西側の自由主義陣営も同様の主張をするだろうが、どちらも確かな証拠はなく、説得力に欠けたままになる。
「良い政府は悪い政府より良い」といった当たり前のこと以外、新型コロナウイルスに苦悩した一年から世界が得た学びは驚くほど少ない。我々が現在試されているのは、ある一連の事実に対してそれとは因果関係のない架空の物語を無理やり押しつけないよう自制できるかどうかだ。人間にとって曖昧さと混乱ばかりの毎日を生きるのはかなり大変なことだが、架空の物語から導き出した誤った変革に向かって突き進むのは、それよりもはるかにまずいことだ。