「面白い」貫き、そびゆる 早稲田大学総長田中愛治さん

 

 

たなか・あいじ 1951東京都生まれ。75年早稲田大政治経済学部卒。85年米オハイオ州立大博士。青山学院大教授などを経て、98年に早大教授。2018年総長。投票行動研究の第一人者で、世界政治学会の会長も務めた。仏教に親しんで育った一面も。名付け親は禅宗の高僧で「愛をもって治める」という意味がある。 早稲田大学総長の田中愛治さんは「面白い」と思ったことに全力で取り組んできた。学生時代は空手に打ち込み、卒業後は米国の大学院で政治学のフロンティアを切り開いた。豊かな国際経験と外柔内剛のタフネスで「世界で輝く」大学づくりに挑む。

提出した研究計画書のページには大きな「?」やたくさんの「×」が付けられていた。1982年、米オハイオ州立大の大学院で日本政治の実証分析に取り組んでいた田中さんは博士論文の内容を巡り、指導を受けていたリチャードソン教授とぶつかった。

 

指導教官と真っ向対立 4年かけて博士論文で立証

論文のテーマは「民主主義の正統性」。日本の政治システムはなぜ国民に支持されているのか。「お上」に従う政治文化、伝統を守る意識のためだというのが教授の説。だが、田中さんは国民の合理的判断の結果だと考えた。平和と繁栄を実現してきた政治経済運営の業績を、国民は評価しているのだと。

「だめだ。偏っている」と教授はカンカン。悩んだが研究テーマは変えなかった。政治不信が強い一方、生活満足度は高いという世論調査の結果などに基づく仮説には自信があった。その後4年かけてデータと理論の両面から実証し、博士論文にまとめた。最終段階の原稿を読んだ教授は「君の考えが分かった。今まで悪かった」と謝ってくれた。

この時は衝突したが、リチャードソン教授は文字通りの恩師だ。米国は世論調査のデータを分析して投票行動などを解き明かす実証的な政治学の先進地。そこでも当時、大型計算機を使って日本政治を分析していたのは教授だけで、田中さんはそれにひかれて教授の下で学んだ。「彼なしに研究者としての自分の成功はなかった」と振り返る。

教授がよく使った言葉が「Think through(考え抜け)」。対立する2説がある時、大切なのはどちらが正しいかではない。それぞれの根拠を理解し、決着には何が必要かを考え抜くことだと学んだ。「日本の教育は答えの正誤にこだわるが、違うと思う」

早大のゼミでは教え子たちに「自分が面白いと思ったことをやれ」と説いてきた。卒論のテーマは自由。ただ必ず自分の仮説を立て、データや資料で検証するよう求める。「面白いと思ってやれば相当な力が出る。それが成長につながる」。自分自身がそうだった。

3人きょうだいの末っ子。活発で、特に走ることが得意だった。私立武蔵中学・高校では陸上部に入り、中高ともに主将を務めた。高校での専門は400メートル。短距離だが、ペース配分を考えるところに醍醐味を感じた。「100メートルは生まれつき速い子にかなわない。400メートルは努力して鍛えれば上がれる」

好きなことに熱中する傾向はこのころから。部全体の日々の練習メニューをつくるのが主将の役目で、開成、麻布などとの8校対抗戦での優勝をめざして計画を練った。なんとか優勝してほっとしたものの、勉強が後回しになってしまい、大学受験は失敗した。

一浪して入学した早大政治経済学部で大きな出合いが2つあった。一つは体育会の空手部。父や兄が空手をしていた影響もあって入部したが、週6日の練習はきつく「我慢強さ、粘り強さを徹底的に鍛えられた」。蹴りを受け、あばら骨にひびが入ったこともある。

もう一つは学問。1年生の政治学の授業で、米国では選挙や世論が計量分析の対象になっていることを知り「これだ」と直感した。授業をしてくれたのが当時新進気鋭の政治学者で、後に政経学部長を務める内田満さん。「国民が政治をどう見るか」という問題意識が、政治家や政党の研究にはあまり関心がなかった田中さんをとらえた。

 

学生生活は空手中心 

粘り強さ徹底的に鍛える 学生生活は空手中心。高成績が求められる難関の内田ゼミには入れなかったが、内田さんとの師弟の交わりは長く続いた。卒業後、修士号を取った上で世論調査会社などに勤めようと考えていた田中さんに米国留学を勧めたのも内田さんで、リチャードソン教授への推薦状も書いてくれた。

オハイオ州立大では勉強と研究に没頭した。博士論文の着手前に合格する必要がある試験は2回落ちると放校で「ものすごいプレッシャーだった」。その5年後、博論の仕上げの最後の1カ月間は睡眠時間が1日平均2時間。空手部でつけた体力が生きた。

入学時に政治学分野のランキングで全米23位だったオハイオ州立大は次第に順位を上げ、帰国後の2002年には世界4位になった。その過程を見られたことが、早大の将来戦略を考えるうえで大きな糧になっている。

例えば、教育にそそぐエネルギーの大きさ。ある年、投票行動研究で一流の教授が「この夏休みは研究をせず教育にささげた」と話した。シラバス(講義概要)に載せている課題文献を入れ替えるため、3カ月ほどの間に300本の論文を読み込んだという。

日本と違い授業は教員個人のものではなく、複数の教員が合議して内容を練り上げる。教授の採用も厳しく、終身ポストを得るのは真に優れた人だけ。「ここまでやらないと世界で勝てないというポイントが分かった」

18年の総長選では「世界で輝くWASEDA」をマニフェストに掲げた。「オハイオ州立大のように自分たちが最も効果的と考える教育、国際的に意義ある研究を進めれば、外部の評価は結果としてついてくる」と信じる。

帰国後は青山学院大など3大学を経て母校に戻った。早大の大学院、助手を経ない総長は戦後初。国際学会の会長経験のある総長も前例がない。グローバル化と多様化という時代の波が、田中さんを総長にしたようにみえる。

コロナ禍は大学にとっても試練だ。オンライン授業への学生の不満はよく分かるが、一方でその利点も見えた。「大学は、より進化した形に変わらないといけない」。対面授業で熟議し、オンライン授業で熟慮を促す――。そんな形を模索する。

ちなみに体育会出身の総長も初めて。「私の教育研究はオハイオ州立大が原点だけど、人生は空手部のおかげかな」と目尻を下げた。

 

【My Charge】時間があれば富士山麓へ 

山小屋でリフレッシュ 早稲田大学のトップは忙しい。週末も学内外の様々な行事への出席や原稿の執筆などが舞い込む。たまに連休がとれると赴くのが、富士山麓にある山小屋だ。緑に囲まれた中でバーベキューをしたり、まきストーブの火をおこしたりして、のんびりと過ごしている。

山小屋でもパソコンに向かってしまうことがままある。それでも自然の中で気分を変える時間は何ものにも代えがたいという。半面、人混みはやや苦手。買い物も、いくつも店を回ることはしないで、パッと決めてしまうたちだ。 都内で過ごす週末には、妻と自宅近くの公園などを散歩することが多い。学生時代に知り合った伴侶は他大学の体育会スキー部の選手だった。田中さんも小学3年からスキーをたしなんでいて相当に得意だが、「妻にはかなわない。英語での議論と空手、政治学以外は全部、私が負けますね」。 学生時代、青春をささげたといっていい空手部の仲間との交流は長く続いている。早大の教授になってからは空手部の部長を10年間務めた。 2年前には久しぶりに学内の道場で空手の稽古をした。その時は学生時代にコーチを務めていた大先輩が相手をしてくれた。

道場の近くにはワセダの人々がこよなく愛する店がある。1965年開店の「三品食堂」。牛めし、とんかつ、カレーの3品が基本メニューで、それらを組み合わせた「カツミックス」などが名物だ。ここに大学4年生のころは週3回ぐらい通い、猛稽古の前の腹ごしらえをした。 お気に入りは「大盛り牛めしに卵」。大手牛丼チェーンなどの味を一通り知った今も「三品食堂が圧倒的にうまい」と感じる。 総長選の当日は、カツカレーを食べて験を担いだ。気さくで目線の低い、田中さんらしいエピソードだ。 数年前には妻の誘いでスローサイクリングも始めた。郊外などをゆっくりと走り、埼玉県の狭山湖まで遠出したこともある。総長になってからは万一けがをしないように控えているという。以前は力を入れていたランニングも最近はご無沙汰。体を動かしたいと大学では時々、8階にある総長室まで階段で上がっている。

 

 

 

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