熱視線

 

プロテニスプレーヤー 添田豪(上)

 

選手会設立 プロ活躍の場広げたい/サポート体制不足「みんなで」訴える

 

 

2003年のプロ転向後、12年にはトップ50入りしロンドン五輪にも出場した

 

2019年5月末、東京都内のスポーツバーで、添田豪(GODAI)は内山靖崇らとトークショーを行った。自ら会長を務める、全日本男子プロテニス選手会のイベントだ。

話はテニス界の構造から困った声援など多岐にわたり、日本のコートで広く使われている砂入り人工芝についても「打点が低くなる。海外では肩より高い打点で打たされるので、意味がない」と本音で解説。プロが練習で使うことはまずないと言うと、テニス好きのファンたちも驚いていた。

この間、バーのテレビは大坂なおみの全仏2回戦を映していた。その予選で敗れ、帰国してバーにいる添田たち。四大大会の前半戦の期間は他のツアー大会がない。海外遠征が多い日本のトップ選手が、生の海外事情を聞きたいファンと触れ合い理解してもらういい機会、と参加した。

同選手会は18年末「国内でプロの活躍の場を広げ、テニス界全体を発展させたい」と志を同じくする西岡良仁ら仲間約30人と立ち上げた。感情をあまり表に出さない添田だが、この活動になると熱を帯びる。

錦織圭がプロ転向した07年以降、その活躍に刺激を受け、日本男子全体が目に見えて底上げされた。

03年にプロになった添田も10年以降、四大大会に安定して出場するようになり、11年にトップ100入り。12年はトップ50入りし、ロンドン五輪にも出た。錦織世代の杉田祐一、その下の西岡らも続き、複数の日本男子が四大大会に出場するのは今や普通だ。

大坂が日本人初の四大大会王者となり、テニスへの関心はかつてないほど高まっているが、添田の危機感は強い。「(これだけ結果を出しても)僕がプロになったころと、取り巻く環境は変わっていない。成績を上げれば戦うステージは上がるのに、それはほぼ自分次第。サポート体制が追いついていない」

08年にナショナルトレーニングセンターが完成し、トップ選手の拠点はできた。しかし「この選手は何が必要か、といったことを正確に見極める体制がない」と添田はいう。

技術面の指摘だけではない。どこにどんなコーチやトレーナーがいるか、スポンサーにどうアピールすべきかといった情報は選手の活動を支えるのに欠かせない。しかし、大手エージェントがつかない限り、それを調べ、教えてくれる人はいない。「しっかりサポートを受ければ(トップ100位に)入れるのに、という選手もいる」。しかし、十分な支援が得られず、消えていった後輩を何人もみてきた。

四大大会に出る一部のトップ選手に人気を任せきりでは、日本のテニス界はまた暗黒時代に戻りかねない。「(日本テニス)協会への要望にしても、一人の声では動いてくれない。だったらみんなで」。添田たち選手は立ち上がった。

 

 


 

熱視線プロテニスプレーヤー 添田豪(中)

 

丈夫な36歳 今季も四大大会へ/コーチでなくトレーナーを帯同

 

 

祖母は戦前、女学校のテニス部主将を務め、母も高校総体に出場。家族との遊びの中で、添田豪(GODAI)は3歳でラケットを握った。筋がいいと感じた両親は、神奈川県藤沢市の荏原湘南スポーツセンター(SSC)に入れた。

世界トップ10入りした杉山愛らが巣立ったSSCの近くに住んでいたのは「ラッキーですね」と添田。ここを拠点に小中高と日本一になり、2003年にプロ転向。ずっと日本にベースを置きながら、世界トップ100入りした男子選手の草分けだ。

36歳の今季も四大大会に出場した。なぜ世界100位の壁を破り、かついまもプレーできているのか。「20歳くらいで、コーチでなくトレーナー帯同で遠征する決断をしたのが大きい。その若さでトレーナーを帯同したのは僕が初めてだったと思う」。まずはコーチを雇う選手が大半の中、その選択に迷いはなかったという。

子供の頃からマイペースだったようで、小学生の頃から知るGODAI白楽支店支配人の石崎勇太いわく「試合に勝ちたいのか、そうでないのか、分からない。ガツガツしているのを見たことがない」。

小学生の時、試合前のウオーミングアップをするようコーチに言われ、「走りたくない」と芝生に寝そべった姿を石崎は鮮明に覚えている。それでも優勝するような選手だった。「心の中ではいろいろ考えているけれど、出さない方が僕には自然。自己完結型なんで」と笑う。自分の中で自身と向き合い、答えを見つけるタイプと自己分析する。

プロ転向当初はなかなか勝てなかった。敗因は技術や戦術でなく、体力とパワー不足の問題と感じていた。添田には強烈なフォア、サーブ、左利きといった分かりやすい武器がない。半面、フォームはきれいで動きには無駄がない。ただ、そのストローク力も、粘れる体力がなければ意味がない。時間はかかったが、3年ほどトレーナーを帯同させると、体が仕上がってくるのに比例して、ランキングも上がった。

「もちろん優勝は狙うけれど、まずは試合に出続けること。コツコツと成績を残すことがプロとして生き残る上では大事。ケガをしたらゼロになってしまうから」。39歳のフェデラー(スイス)がいまだ第一線にいるのは、ケガの少なさも一因だ。同様に長期離脱がない添田も、ランキングを大きく落とすことがない。

意地もあった。きっかけは高校生の頃、ジュニアのトップ選手を集めた「(松岡)修造チャレンジ」で言われた「このままだったらプロで成功しない」との言葉だった。

「プロを目指す子にすごいことを言うなって思ったけれど、ここで意識は変わったかもしれない」と添田。見返してやる――。プロになって18年たった今も根底を流れる精神だ。

 

 


 

熱視線プロテニスプレーヤー 添田豪(下)

 

 

日本育ちのトップ選手 原石探す/若い選手は「オリジナリティー必要」

 

 

コロナ禍でツアーが中断していた8月、添田豪(GODAI)が会長を務める全日本男子プロテニス選手会は千葉県でプロアマ混合団体戦を開催した。試合に出られなくても、練習相手としてアマを多く呼んだ。

世界ランク56位の西岡良仁が高校生らをポイント練習に誘う。必死にボールを追う高校生に「ジュニアのレベルじゃない」と褒めると、「目指す場所が見えた。意識を高く持ちたい」と弾んだ声が返ってきた。

コートサイドで眺めていた添田は言う。「できるだけ早くプロと接する機会があるといい」。選手会は要望に応じて公開練習やクリニックを行う。ジュニアのトップでなくても「これは」と思わせる選手に出会うことがたびたびある。添田は「(日本テニス)協会はトップ選手やエリートに目が行きがち。そうでなくても四大大会を目指す余地を作りたい」と狙いを語る。

添田が育った荏原湘南スポーツセンター(神奈川県藤沢市)には26面のコートがある。味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)は4面。欧米のような協会主導の育成システム構築は厳しい道のりだ。そんな中でも、選手の意識は変わりつつある。

「僕らがジュニアの頃は『世界のトップ選手は違う世界の生き物』と教えこまれたけれど今はそんな先入観はない。これは大きな差」。錦織圭が"違う世界"に足を踏み入れ、添田ら日本育ちの選手もトップ100入りした。どういう過程を踏めば、プロとしてそれなりの生活ができるとされるトップ100に行けるか、指導者も理解している。

しかし、錦織より若い世代で世界100位を切ったのは海外のアカデミーで鍛錬した選手ばかり。四大大会の予選出場が見える250位手前でもたつく選手が多い。「プロセスは分かっていても、(目標に)たどり着くためには何が足りないかを自分で理解し、(人にはない)オリジナリティーを一つは持たないといけない。なのに、今は選手の考え方が同じに見える」

国内に世界を知る指導者もNTCもなかった添田の世代は「何もなさすぎて、自分で考えるしかなかった」。といって、今の若い選手を「ハングリー精神が足りない」と一喝するのは違うと思う。「世界的にも、勝って家族を養わなければ、というプロ選手はいまほとんどいない。今は楽しんでゲーム感覚でやる方があっている」

そのために、プロに接し、親しんでもらうイベントを選手会は企画する。それは国内のプロ選手の活躍の場を作ることにもなる。自分より少し上の世代が指導の現場に入り始めたが、「僕はもう少しプレーヤーでいますよ」。選手としてやることがまだ残っている。

 

 

 

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