論座

 

 

魚住昭・望月衣塑子・南彰 記者座談会「信頼回復へのヒント」

 

権力構造に変化、取材手法見直し不可欠 可視化意識を、「だれのため」に立ち返れ

 

魚住昭・望月衣塑子・南彰

 

 メディアへの信頼がかつてない危機に直面している。賭けマージャン問題をきっかけに、権力に対峙すべき記者の姿勢に社会の厳しい目が向けられ、可視化された記者会見になれ合いの批判があがる。官房長官会見で厳しい質問をぶつける、東京新聞の望月衣塑子記者、新聞労連委員長として、組織ジャーナリズムに、古い体質、慣行の改革を突きつけた朝日新聞の南彰記者、共同通信時代は司法記者として、権力の「光と影」を身近で見てきたジャーナリストの魚住昭さんに、メディア不信の要因とともに、信頼回復への道筋を聞いた。(聞き手は、本誌編集長・久保田正)

 

 

出席者(順不同)

魚住 昭 うおずみ・あきら

フリージャーナリスト

 1951年、熊本県生まれ。一橋大学法学部卒業後、共同通信社に入社。司法記者として東京地検特捜部を担当、リクルート事件などの取材にあたる。著書に『特捜検察』(岩波新書)、『特捜検察の闇』(文春文庫)など。

 

望月衣塑子 もちづき・いそこ

東京新聞社会部記者

 1975年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒、2000年、中日新聞東京本社(東京新聞)入社。東京地検特捜部担当、経済部を経て15年8月から現職。武器輸出、軍学共同を主に取材。著書に『新聞記者』(角川新書)、共著に『権力と新聞の大問題』(集英社新書)など。

 

南 彰 みなみ・あきら

朝日新聞政治部記者

 1979年生まれ。2002年、朝日新聞社入社。08年から政治部と大阪社会部で政治取材を担当し、18年9月から新聞労連中央執行委員長。20年9月から現職。著書に『報道事変 なぜこの国では自由に質問できなくなったのか』『政治部不信』(朝日新聞出版)など。

 

 

 

――望月さんと南君がおられるので、官房長官会見の話から。望月さんの追及が、改めて会見の重要性を示した一方、会見が可視化されることによって、メディアの姿勢が問われることにもなりました。

 加計学園の問題をめぐって「総理のご意向」と書かれた文書を、官房長官だった菅(義偉)さんが「怪文書」のようなものだと切り捨て、確認できない、分からないという、答弁が繰り返されました。一方、前川喜平さんを始め、文科省の役人も文書は存在すると証言しているにもかかわらず、不可解な主張を繰り返す政府と記者のやり取りに対するフラストレーションが、記者会見が可視化される中で市民の間にたまっていたと思うんですね。そうしたところに望月さんが23問の質問をぶつけて、政府が再調査に踏み出すきっかけになった。記者会見が政治権力に対して大きなプレッシャーになり、情報開示を実現する力になるということを示せたと思います。

 同時に痛感したのは、取材過程が可視化される中でメディアの立ち居振る舞いや、きちんと質問をぶつけているのかが常にさらされている。その中で、いかに市民の信頼を築くのかが、従来のメディア環境との大きな違いです。かつては非公式な水面下の取材で一足早い独自情報を引き出して読者に提供していれば、それ以上はあまり求められていなかったと思うんです。しかし取材過程が読者に見えるようになったことで、一体メディアは何をしているのかという疑問に応えていくことが信頼につながっていくということを、官房長官会見の一件は象徴しているんじゃないかと感じました。

 

魚住 望月さんの登場で、メディアと政治との関係が可視化されるというのは、すごく大事なことだと思いました。僕が検察担当の記者だった頃は、個別の裏での取材でネタを取り合うのがメインで、会見では当たり障りのないことを聞くという感じでした。記者会見が主戦場という意識がすごく希薄だった。

 特捜部のケースですが、各社そろって副部長の帰りを待っているわけですね。帰ってくるとみんなで囲んで質問する。僕は、検察担当になったばかりで、疑問に思ったことをばんばん聞いていたんですね。そしたら、何回かに1回、副部長がみんなが知らないことを答える。そしたら、NHKの古参記者に呼ばれて、お前、あの場であんな質問するんじゃないと。その時は、何言ってるんだ、と思ったんですが、自分の情報源ができると、やっぱり質問しなくなる。大事なデータは取っておいて、裏で個別的に、特ダネを取るのが古い時代のやり方でした。古いタイプの記者なので、望月さんたちのような新世代の人たちを見ると目がくらむ思いです。そういう路線を進めていってほしい。そうでないと、信頼は勝ち取れません。

 

――官房長官会見のようにみんな見ている場で、厳しい質問をぶつけるというのも、勇気の要ることだったのでは。

望月 森友学園問題に続いて、加計学園問題があって、前川さんが元文科事務次官として異例の会見をやられて、伊藤詩織さんが続いた。彼らの告発を見て、さすがに傍観者として記事を書いているだけでいいのか、再調査をやらせるには、安倍さんが駄目なら、菅さんにと。当事者の告発が背中を押した。さすがにもう直接、この中枢に問いたださなきゃいけないという思いで行ったということなので、さほどの勇気ではないし、いざやってしまえば、当時は何回でも指されたので、納得いかなければ重ねて聞くというのをやったまでなんです。

 

――一方、官房長官会見の可視化によって、地方の自治体でも影響が出ているということですが、本当ですか。

 2017年に望月さんから追及された菅さんが「あなたにお答えする必要ありません」とか、会見としてはとんでもない発言が繰り返された後、福島で高速道路が開通した時に、予算は幾らなんだと広報担当者に記者団が聞いた際、そんなことはお答えする必要がありませんとまるで菅さんのようなことを言われた。取材していた記者から、「政府のスポークスマンが、ああいう答弁をしていることがあしき前例として全国に広がってしまう。日本中枢の会見の在り方を正常化させないと大変なことになるよ」と言われました。官邸で悪い前例がつくられ、影響が各地に広がっている気はします。

 

――望月さんの質問制限問題についての東京新聞の検証紙面に、政府の広報官が「国民を代表しているのは選挙で選ばれた国会議員で、メディアは民間企業」という認識が載っています。会見は、政府が国民に説明する場、メディアは国民に代わって質問しているという立場のはずですが、驚きました。

望月 そう思わせてしまうかのようなやり取りだったのだと思います。この(第2次安倍政権の)7年8カ月で事前の質問取りが当然のように行われ、官僚が答弁を用意するという意味で、政府からしても、俺たちの発表の場なんだという意識になってしまったんだろうなと。だから、菅さんが政府の見解を述べる場だと強く言い切って、国民の知る権利に応える場にはなっていない。

 実際は内閣記者会が主催なので、仕切りも含めて、記者会の権限で会見を動かしていくものだと思うんですけど、今は全然違う。実態は仕切りも官邸側がやっているということを考えると、自分たちの場だと、思い違いをさせてしまっているのがあの会見なのかもしれません。

 望月さんが登場した17年以降、記者クラブも葛藤を抱えています。新型コロナ対策に関する総理会見が行われた今年2月29日に、江川紹子さんが「まだ質問があります」と訴えたにもかかわらず、周りの記者が声を上げず、そのまま終了したことも世間の批判を浴びました。水面下での官邸幹部へのオフレコ取材を抱えながら、記者会見でも追及するというバランスをどう取るか。答えを見いだせずにずるずる来てしまった面はあります。

 それは魚住さんも言われた、かつて記者会見は主戦場じゃなかったという意識を、これだけ可視化されている中でも引きずっているのが影響していると思うんです。今は記者会見が主戦場になった。記者の側からすると、権力側はSNSを含めて、メディアを通さなくても自由に発信できる状況の中で、相手に言いっ放しにさせずにきちんとした情報を引き出す場であり、メディアがそうした使命を果たそうとしていることを市民に示す場になりました。一方で、権力側からすると、メディアの人間は台本通りの会見に行儀よく従い、「コントロールされている存在」で、市民にとって聞くべきことを聞いていないと印象づけることができる場です。そのせめぎ合いの中で、どうやって市民の信頼を勝ち取るか。そのためにはメディアは自分たちの姿をしっかり示すことを前提とした取材態勢、報道の在り方へと変わっていかなければと思います。

 

――賭けマージャンの問題に移りますが、どこに問題があったのか、権力となれ合ってると思われたことか、3密か、賭けマージャンが、悪かったのでしょうか。

魚住 正直言ってけしからんという感情はなかったですね。むしろ、朝日と産経は高検検事長とマージャン友だちになれるほど食い込んでいたんだ、というのが率直な印象でした。記者は情報を取らなきゃいけませんからね。いろんな手段を駆使して情報を取る。懐に飛び込んで情報を取ってくるというのは、いつになっても変わらない役割だと思うんです。

 

 

麻雀問題、書いた記事で評価を(魚住)

 問題は、情報を取った後、記事を書く時に、情報を客観的に伝えられるのか。相手の懐に入っていくのがインの作業だとすると、記事を書くのはアウトの作業。インも必要だけれども、客観的なアウトの作業ができるかどうかが記者の値打ちを決めると思います。だから、問題は、朝日や産経の記者がどんな記事を書いていたのかということだと思うんですね。一概に賭けマージャンやってたから駄目という感じは持ちませんでした。

望月 検察庁法改正法案が審議される前に、黒川(弘務)検事長の定年延長が閣議決定され、多分、産経以外は、批判的にこの閣議決定をとらえていましたし、国会でも相当批判されました。産経記者が書いた記事を見たら、黒川さんは、まさに逃げたゴーン被告の逃亡の捜査の指揮に当たっている、だから、必要不可欠な人材なんだ、そして検察の独善や暴走を防ぐために、政府の意向を反映することを好意的にとらえた短めの解説記事を書いていたんですね。マージャンをしているさなかに出てきた記事がそれだということで、やっぱりこれは黒川さんや官邸の思うつぼの記事なわけですね。世の中の人が見た時に、結局、抱きつき取材して抱き込まれているだけじゃないかと。ジャーナリズムとしてどんな役目を果たしているんですかといわれたら、エクスキューズできないと思うんですね。

 私もゴルフをやったり、飲みも付き合ったりしましたので、抱きつき取材から得られるネタの面白さは分かっていますが、結果として出てくるものが、このような記事だとしたら、世の中には結局、取り込まれているだけとしか見えない。私たちより上の世代で当然視されていたものも、見直さなきゃいけない、そういう時代になっているのかなと思います。

 基本的には、「密着すれども癒着せず」だと思います。権力の実相をしっかり取材し報道するには、時に肉薄は必要になってきますし、私も政治記者を10年、事件記者を5年ぐらいやってきて、そうした取材の必要性は分かります。しかし、官邸の会見で政治部の取材現場が可視化され、賭けマージャンで社会部の現場も可視化された時、市民の不信を招き黒川問題などを追及してきた記者の信頼も含めて揺るがしてしまった。

 結局、見られているという状況下で、どう信頼性を保つのかが、極めて重要になってきています。また、近年の権力構造の変化にもしっかり対応しなくてはいけない。かつては東京地検特捜部が政界捜査を含め、ある意味、最強の野党として機能していた時代はあったけれど、官邸一極集中が進んでいる。そうした環境の中で、森友学園問題の公文書改ざんで佐川宣寿理財局長(当時)を含めて全員不起訴になり、民事の一審では性暴力被害が認定された伊藤詩織さんの事件で、刑事事件では逮捕状の執行が見送られて不起訴になった。こうした捜査の判断は一体何なんだというところに報道が十分応え切れていない。

 権力が分散していた時代は記者がそれぞれの取材先に食い込むことでつかんだ情報を総合すればバランスが取れた。しかし、権力の一極集中がどんどん進み、官邸権力の影響下に司法も組み込まれつつある。今までとは食い込んでいる先の権力自体が変わってきていることを自覚しなくちゃいけないというのが、賭けマージャン問題の教訓です。もう一つは、賭けマージャン問題をひそかに礼賛するような旧来型の取材のやり方だと圧倒的に女性を中心に排除されている記者がいる。そのことがメディアの多様性を損なって、結果的に信頼をおとしめていると感じます。

 

――魚住さんはまさにリクルート事件の時、検察幹部に食い込んで特ダネも書いていた印象があります。一方で、特捜検察の闇も、著書で暴いています。

魚住 僕は決して立派なことをやっているわけじゃなくて、特捜部担当時代は、抱きつき取材に似たようなことをやってたし、それが共同を辞めて、地検との関係もなくなり、おまけに友人の弁護士が逮捕され、現役時代の自分がいかに特捜部は正義だという幻想にとらわれていたかということに気づいたということで、胸を張れる立場ではありません。

 南さんがおっしゃっていましたが、政治と検察とメディアの関係、三角関係がありまして、戦後の政治は時々検察が政界絡みの事件を扱う。それで検察は組織の威信を高める。それにマスコミが協力して、マスコミと検察の連合軍が政界のある部分をやっつけるという、そういうことがずっと行われていました。政治にとって検察は厄介な存在なんです。

 ほかの官庁も昔はそうだったんですが、内閣人事局ができて、幹部人事を思うままにできるようになった。検察庁法の改正で、検察の幹部人事、今度は日本学術会議と、人事に手を突っ込むことで、自民党や政府にとって宿願であった検察並びに官僚機構の人事権を奪い取ってしまうというのが安倍長期政権の宿題だったわけです。今回、賭けマージャン問題とか、いろんなことが絡まってそういう構図が現れてきたんですが、検察庁法改正案だって、菅政権が続くなり、次の政権になっても、自民党としては絶対やり遂げたいと思うんです。人事さえ押さえれば検察庁は言うことを聞きます。政界の野望というか、そういうものを阻止していかなきゃいけないと僕は思っています。

 

――ネット時代で、取材過程の可視化も進みます。そうした時代に、権力との関係はどうあるべきなのでしょうか。

望月 まず柿崎(明二)補佐官です。共同の論説副委員長をやっていて、安倍政権も含めて批判してきた。是々非々でリベラル的にも見えるようなメディアの重鎮が、気づいてみたら首相補佐官。リベラル派も取り込むぞという菅政権の意思を示しています、メディアとも徹底的にやっていくぞと。菅さんはしたたかに手広くやっていると思うんですね。分断より、より幅広い統治型のメディア支配を既に仕掛けてきていると思うんです。その中でどう戦うか。

 

 

表の説明に記者結集不可欠(望月)

 

 そもそもぶら下がりにも、ほとんど応じず、声かけしても、すたすたと行ってしまう、首相会見もできるだけやらない。それなのに、パンケーキのオフレコ懇談だけは参加してくださいみたいなことをやっている。このちぐはぐな状態、おかしくないですか。記者会に闘ってほしいと思います。首相になったからには、今までみたいに裏でメディアのトップとかプロデューサーとかアナウンサーとお食事して、うまくメディアに縄張りを築いておけばいいみたいなことではなく、表で説明責任を求められる立場に立ったんですから、首相としての発言こそ一番のニュースです。きっちりぶら下がりも会見もやらせる方向に、もっと内閣記者会も含めて、政治部の記者の力を結集してほしいと思います。

 みんなに、さすがにこう何度も言われちゃ、ちょっとぶら下がりやろうかと動くと思うんです。そこを諦めずに頑張ってほしい。ただでさえ補佐官をつけて、日本学術会議も意のままにする、検察庁法改正案の再提出もあり得る、より気を引き締めなきゃいけないのが今のメディアだと思うんです。

 

――政治部の記者は試されてますね。

 朝日新聞としては、「パンケーキ懇談」には参加しませんでした。記者会見などオープンな場での説明が優先で、会見の人数制限の解除を求めています。判断はケース・バイ・ケースになりますが、官邸からの「踏み絵」のような提案にどう対応していくかが問われます。まずはメディアが取材における「自律性」を取り戻すことが必要です。

 大切なことは、市民の側に立って、真実をあぶり出そうとしている姿勢をきちんと社会に評価してもらうことです。権力側にとってもそういう記者やメディアが怖いわけだし、そうした記者を無視することはできません。市民の支持が、メディアや記者の力の源泉になってくると思います。

 

――今後、組織として体質・構造をどう変えていく必要があるのでしょうか。

 長年メディアの中で築かれた取材慣行なので、変えることは簡単ではありませんが、今、日本の新聞社の新入社員は男女半々です。多くの優秀な女性が入ってきています。そうした次世代が持続可能に働けて、かつ読者の信頼も勝ち得るような働き方を実現することはとても大切です。

 そのためには、若手のロールモデルになる30代、40代の中堅の女性たちが、きちんとしたキャリア形成ができることを若手に実感してもらうことが重要です。そのメンバーが心折れてしまうと、せっかく入った若手も「やっぱりこの業界は旧態依然の男性中心の環境なのか」と絶望し、負のスパイラルに陥ってしまう。今はそこを転換できるかどうかの大きな岐路に立たされていると思います。

望月 これだけネットで閣僚会見を始め、同時中継の会見が増える中で、国民が、どこの新聞社ではなく、何ていう名前の記者がどんな質問をして、それに対してどう答えているのかというのをチェックする時代になったと思うんです。マーティン・ファクラーさん(ニューヨーク・タイムズ元東京支局長)によると、ニューヨーク・タイムズで読まれる記事というのは、かつては客観報道とか言われたんですけど、いまはより「I(私)」を出せと。あなた自身が取材してどう感じ、どう思ったか、自分自身をもっと出しなさいと言われるようになったということで、記者個人の問題意識はよりクローズアップされる時代になったと思うんです。

 ジェンダーのバランスで言うと、ジェンダーの声というのが反映できるようになるには3割、それを超えないと政策に影響を与えられないと言われているらしくて、そういう意味でも、まだ今の国会とか政治の流れというのは、男性中心につくられていると思います。それをただすジャーナリズムの側のジェンダー格差の是正は必要ですし、若い記者ほどそのことに関心を持っています。

魚住 確かにメディアの情報の圧倒的な部分は官庁とか官邸とに依拠していることは事実なわけですね。そういう中で密着や癒着の問題、賭けマージャンの問題なんかも出てくるんですけれども、そういう構造、メディアが情報源を官庁などに依拠しているという事実は直視すべきだと僕も思うんですね。

 例えばですが、朝日新聞の例ですが、検察関連で一番大きなネタをずっと取っているのは朝日なんですね。リクルート事件の時には、リクルート社からの5千万円の借金問題を報じて、竹下内閣を退陣に追いやったのは朝日です。それから、金丸党副総裁の5億円のヤミ献金をスクープしたのも、カルロス・ゴーンの事件をいち早く報じたのも朝日。その一方で、大阪地検の証拠改ざん事件も朝日だった。これは、それなりの深い取材をしていないと特ダネも、検察組織にとって致命的になるようなネタも取れないという厳然たる事実があるわけですから、それが軽んじられる、必要ないということにはならない。見えるところと見えないところ両方で頑張るしかないと思いますけどね。

 

――最後に、メディアが信頼を取り戻すために必要なことは何でしょうか。書く記事なのか、取材方法、姿勢など。

望月 そんな難しいことじゃなくて、ジャーナリズムは何なのかという原点に常に戻ることなのかなと思うんですよね。

 どういう立場であるにせよ、最後は、自分は何で新聞記者になったのかという原点に戻れば、権力と一体化することではなくて、権力を監視したり、動きをチェックしたりする役目を私たちが一番最先端で担っているんだと。市民のチェックというのも、ネット時代になって増えましたが、表立ってその権力を監視するという役割を背負ってこの仕事をしているんだという原点に立ち返って、取り込まれ得る可能性があるような時も、自分の立ち位置はどこなんだということをあらゆる記者が日々問い直すしかないのかなと思います。

 ネット時代になったけど、18〜20歳の若者への内閣府の意識調査で一番信頼している情報源に新聞を挙げた人が多かった。どうして新聞なのか、大学でお話をさせてもらうと、権力の監視、チェックを期待している人たちが多いということをすごく感じます。権力と一体化するのはジャーナリズムの仕事ではないですし、私たちがどうしてこの仕事をしているのかというジャーナリズムの原点に常に戻り、問い直し続けるしかないと思います。

 メディア不信は、報じている中身と見られ方の両方に原因はあると思います。例えば伊藤詩織さんの件も、何で逮捕状が不執行に終わったのか、不起訴になったのかは、詩織さんのインタビューからは出ているけど、実はそこを取材してきちんと裏づけているメディアはほとんどない。市民が知りたいところに十分応え切れてないというのは、権力との関係性や取材慣行と密接に結びついていると思います。とりわけ権力側が司法も含めて一体化し、強大になりつつあります。もちろんこれからもきちんと肉薄して、事実に迫るということは大切ですが、それだけじゃ対抗し切れないぐらいの権力の強さになってきている。記者会見のあり方や公文書公開など1強化する権力から情報を引き出すための改革を怠ってきた。市民の後押しをもらいながら、しっかり改めていく必要があると思います。

 

 

主張と行動。乖離埋め、信頼回復を(南)

 「見られ方」については、自分たちが、主張していることとやっていることが一致している組織なのかどうかが、信頼を勝ち取る上で大切なことだと思います。一つがジェンダーバランスで、誰もがきちんと尊重される社会ということを掲げながら、自分たちの組織はそうなっていない。アンフェアな組織と見られた瞬間、信頼は失っていく。また、権力監視を掲げながら、記者会見で聞いていない姿も信頼を失う。言っていることとやっていることとの乖離を埋めて、自らが実践している組織であることを示していくことがメディアの信頼につながるんじゃないかと思います。

魚住 新聞の文体に「私」ってないんですよ。せいぜい出てくるのは「記者は」。フリーになって、「私は」という原稿を書くようになった。そしたら、本当に自由で晴れ晴れとした気分になって、記者時代の不自由さを痛感したことがあります。

 「私」という言葉が使えない背景にあるのは、客観報道主義なんですね。記者の主観を徹底的に排除して、客観的なエビデンスに基づいて記事を書くことなんですけれども、それはとりもなおさず、権威ある官庁の情報に依拠して記事を書くという安直な傾向に陥りやすい。官庁情報に依拠して記事を書くという体質が日本の新聞にはしみ込んでいて、その一番悪い例が検察報道ですけれども、そういう「私」の回復、「私」という主語を取り戻すことをやったほうがいいと思うんです。先輩の辺見庸さんが私を取り戻せ、顔を取り戻せ、文体を取り戻せという文章を書かれて、僕はしびれるほど感動した。これからすごく大事なことではないかな。自分たちの足元を書いていく。足元の見えない記事は面白くないんですよね。もう一つは社内民主主義ですね。

 社内民主主義のない新聞社の記事は面白くない。どこの新聞とは言いませんが、社内民主主義のないところの記者は記者じゃないですよ。私の回復と、社内民主主義の逼塞状況の改善、変えていくことがこれからの新聞記者にとっては重大な問題ではないかなと思いました。

 

 

 

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