カバーストーリー

 

よく響く声、今も耳に ショーン・コネリーさんを悼む

 

 

寄稿 渡辺祥子(映画評論家)

 

シリーズ第1作『007 ドクター・ノオ』で主役のジェームズ・ボンドを演じるショーン・コネリーさん (C)Capital Pictures/amanaimages

「007」シリーズの初代ジェームズ・ボンド役で知られる英俳優ショーン・コネリーさんが90歳で亡くなった。コネリーさん出演の映画を見続け、本人にインタビューした経験もある映画評論家、渡辺祥子さんに業績を振り返ってもらった。

「007」シリーズ最新作で第25作目の「ノー・タイム・トゥ・ダイ」がコロナ禍で公開延期になり、世界のファンを失望させている今、主役の初代ジェームズ・ボンド役ショーン・コネリーの訃報に接することになったのはあまりに悲しい。

私がコネリーにインタビューする夢がかなったのは、環境破壊を題材にした「ザ・スタンド」(1992年)でメキシコの熱帯雨林で撮影していたときだった。植物学者役のコネリーは半袖シャツに短パンでボンドのイメージとは大違いだったが、映画で見るより大きく見えた。何をしゃべったか覚えていないが、別れ際に悪戯っぽい笑顔で「一緒に写真を撮る?」と言われた時の声だけは今も耳に残る。最大の魅力はよく響く声だった。

そんなコネリーは30年8月25日、英国スコットランドの労働者階級に生まれた。長い下積みを経た後、テレンス・ヤング監督の「虎の行動」(57年)に出演したのをきっかけに同監督の「007 ドクター・ノオ」(62年)の主役に決まる。原作は英国の作家イアン・フレミング。秘密情報部(MI6)所属で殺しの許可証を持つスパイ、ボンドを演じた。

以来「007 ロシアより愛をこめて」(63年)、「007 ゴールドフィンガー」(64年)など同じ製作会社の6作に加え、異なる製作会社の「ネバーセイ・ネバーアゲイン」(83年)に出演し、女好きでタフガイのボンド像を印象づけた。シリーズは大ヒット。60年代半ばから70年代にかけて、世界の映画界にスパイ・サスペンス映画のブームをもたらした。

東西冷戦の世界で、車や凝った小道具、おしゃれなスーツに身を固めて戦う男が似合ったコネリーだが、イメージの定着を嫌い様々なジャンルの映画に挑んだ。スリラーの名匠アルフレッド・ヒッチコック監督の作品で最近メトロポリタン・オペラで舞台化された「マーニー」(64年)で盗癖のある美女マーニーを愛し抜く会社社長の役は、誠実な人間味がなければ演じられなかった。

ボンドのイメージを完全に払拭する「丘」(65年)などの後、「オリエント急行殺人事件」(74年)のあたりからは豊かな円熟味が加わった。「風とライオン」(75年)では豪快な砂漠のヒーロー役で圧倒的存在感を示し新境地を開拓した。

ボンド役が交代しながら007シリーズが続くことで、初代を演じたコネリーに消えることのないスターの輝きを与えた。そこに自身が持つ器の大きな人間臭さが加わって他に類をみない大物スターになった。その個性が生きた「アンタッチャブル」(87年)でアカデミー賞助演男優賞を受賞。以降はコネリーが出演することで映画が一回り大きくなった。

「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」(89年)で息子役のハリソン・フォードはコネリーに「たった10歳くらいしか違わないのに君の父親か」とぼやかれたそうだが、老年期に入ってからは昔はさぞ女性にモテたに違いないと思わせるイロっぽさを残しながら父親の包容力と男の滋味があった。我が道を行く老父がよく似合い「ジュニア(坊や)」と呼びかける度に息子にイヤな顔をされるのを平然と受け流す姿もカッコ良かった。

2000年、英王室からナイトの称号を与えられた。英国経済を潤した007シリーズの立役者なのだから、もう少し早く授与されてもよさそうなものだが、コネリーがスコットランド独立運動の熱烈な志士だったため遅れたという話がある。授与式の日、コネリーはスコットランドの正装であるキルト姿で臨んだ。

 

 

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