時論・創論・複眼
「死の権利」はあるか
橋本操氏/岩尾総一郎氏/会田薫子氏
京都のALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の嘱託殺人事件で、死亡した女性は診断から8年間、「死にたい」と訴えていた。治療の終了を望んだがかなわず、SNSで知り合った医師らに命を委ねた。嘱託殺人は許されぬ行為だが、患者に「死の権利」はあるのか。患者や専門家に聞いた。
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■「生」は一人のものでない 日本ALS協会相談役 橋本操氏
はしもと・みさお 約18万筆の署名を集め、家族の負担減のためヘルパーも人工呼吸器から痰を吸引できる道を開く。国内外で患者の権利を訴える。67歳
女性はALS発症から8年で、身体的にも精神的にもつらい時期だったと思う。私は絶対、彼女が生きてきたことを否定したくない。
私が発症したのは1985年、32歳で娘は5歳だった。人工呼吸器を着けたのは発症7年後で娘はまだ小学生。配偶者は人工呼吸器の判断を私に任せており、主治医と二人で判断した。苦しさを改善したかったし、親の任務として呼吸器を着けた。
当時はALS患者が在宅で人工呼吸器を着けて24時間態勢のサポートを受けるのは困難だった。夜中でも1時間に1回程度は必要な痰(たん)の吸引は医療従事者以外に認められておらず、家族の負担が大きかった。でも私は結婚や子どもの有無に無関係で生きるために人工呼吸器を着けていたと思う。
鼻から栄養を入れるチューブをつけると、体重が10キログラムほど増え、とにかく体が痛かった。例えば関節。自分の骨が自分を刺す感じだった。
今回の女性は一人暮らしで、主治医には自発呼吸ができない状態になれば装着しないことを伝えていたという。ALS患者の7割程度が人工呼吸器を着けずに死を選んでしまう状況はいまだ変わっていない。
原因はALSという病に対する偏見と差別だ。世の中でつらいのはALSだけではないのに、いつもALSはつらい病気として扱われる。今回の女性はいつ、なぜ死にたくなったのか。私としてはもっと記録を残してほしかった。
今回の事件は自発呼吸ができなくなる前に、主治医でない医師らに殺害を依頼し、薬を投与されて死亡したという。死を目前にした安楽死でさえない。「安楽殺」だ。
医師らは女性宅を訪れて10分程度で薬を投与し立ち去っている。「死にたい」という人も直前には気持ちが揺れる。みなさんは自分の意思で行動する。ALS患者は自分が目や口のごくわずかな動きで指示して行動する。(指示を読み取る人がいない状態では)やめてほしくても指示できない。直前で家族に会いたいと思っても言えない。
私の友人は小学5年から自殺未遂を繰り返し、3度目となる中学3年のときに自殺を遂げた。「死にたい」と思う人はいる。でも今回は違う。女性は胃ろうをつくったのだから生きる気持ちはあった。死への思いを次第に強めていったと思う。
女性は神経難病の日本人がスイスで医師による自殺ほう助で安楽死したテレビ番組を見て、同国での安楽死も望んでいた。「死にたい」という思いの背中を押した取り上げ方に問題があったと思う。
女性はSNSで「死にたい」と繰り返し発信していたが、ALS患者はSNSで死にたいと言ってはいけない。「死にたい」と言うと「殺したい」という人が出てくる。
私は昨年、長い間同居していた犬を亡くした。全介助でもできるだけ長く生きてほしいと思っていた。死ぬ権利はない。勝手に生まれたわけではないから。家族や友人など支えてくれる周りの人たちもいる。私たちは社会の中の一人として生きている。
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■自分らしく生きる、追求を 日本尊厳死協会理事長 岩尾総一郎氏
いわお・そういちろう 慶応大学医学部卒業。旧厚生省入省、医政局長で退官し世界保健機関(WHO)神戸センター所長など歴任。2012年から現職。73歳
日本尊厳死協会では「尊厳死」を「リビングウイル(生前の意思表示)に基づいて延命治療を差し控え、十分な緩和ケアを施されて自然に迎える死」と定義している。これに対し「安楽死」は「積極的に生を絶つ行為の結果の死」で異なる。はっきりと区別して議論してほしい。
日本では安楽死は一般的に認められておらず、自殺を手助けする行為(自殺ほう助)は犯罪となる。今回の事件を報道で知る限り、主治医でない医師がした行為は社会的規範を逸脱しており、医師の倫理規定違反は明白で、到底容認できない。
日本では1991年に医師が末期がんの入院患者に薬物を投与して死亡させ、殺人事件として医師による安楽死の正当性が初めて問われた。
95年の横浜地裁判決(有罪確定)では、医師による積極的安楽死が認められる4要件を示した。
4要件は (1)耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる (2)死を避けられず、死期が迫っている (3)肉体的苦痛を除去・緩和する方法を尽くし、代替手段がない (4)生命の短縮を承諾する本人の意思が明示されている――だ。
判決では患者の肉体的苦痛にしか言及していない。当時は肉体的苦痛以外の痛みについて議論が成熟していなかったからだ。
「死にたい」という言葉の裏には満たされていない痛みがある。家族への負担を強いることや社会参加の機会が奪われることなどによる「社会的苦痛」、生きる意味や価値を見失う「スピリチュアル・ペイン」もある。今回の事件でも女性には同じような苦痛があったのだろう。
生きる意味を求めて模索する患者の苦痛を共有するケアマネジメントが望まれるが、いまだ日本社会は患者や生活弱者への支援体制が不十分だ。その結果、親や配偶者などによる不幸な事件を多く招いている。
日本尊厳死協会では、憲法で保障している個人の尊重や、生命、自由および幸福を追求する権利の中に「死の権利」もあると考える。リビングウイルは終末期医療に関する自己決定だ。
自殺を認めるということではない。死へと向かっている人が「最後は安らかに死なせてください」と求める権利であり、最後まで自分らしく生き抜く権利だ。生きている人の命を奪うものではない。
終末期について医師の余命宣告ほど当てにならないものはない。人がいつ死ぬかは分からない。また死の直前で考えが揺れる人は少なくない。死の権利を簡単に認めていいというわけではない。曖昧な議論で死の権利を認めると思わぬ影響が出ることもある。
日本尊厳死協会は約30カ国からなる「死の権利・世界連合」に参画している。海外の「死の権利」は医師が介助する安楽死を認めることで、世界中で悩んでいる。安楽死を認めた国は具体的な事例から議論を積み重ねている。
日本でも超党派で法制化の動きがあったが、厚生労働省のガイドラインにとどまっている。死をタブー視せず議論し、納得できる終末期医療に変わることを期待している。
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■医療は本人の幸せのため 東京大学大学院特任教授 会田薫子氏
あいた・かおるこ ハーバード大メディカルスクールフェローや東京大大学院(保健学)修了後、同大学院死生学・応用倫理センター上廣講座特任教授。59歳
報道の範囲では嘱託殺人罪で起訴された医師2人には医療倫理と臨床倫理の観点で問題がある。医療倫理は「医師が職務遂行の際に持つべき姿勢」で、臨床倫理は「医師を含め多職種が患者にとっての最善を実現すべく意思決定を支援すること」に関わる。
2人は主治医ではなく、女性と初対面で診断もしていないとみられる。医師免許を保持する資格はないだろう。
一方、日本経済新聞の取材によると、女性が書いたとみられるSNSには身体的、精神的な苦しみから「(発症から)一貫して言い続けてきた『早く終わりにしたい』という思い」がつづられていた。
死亡約3カ月前には胃ろうからの栄養補給を拒否する意思を主治医に伝えたと記した。その後に「胃ろうからの飲食拒否は自殺ほう助に当たるからできないという。ならば一切の支援を断って窒息死すると言ったらそれもダメ。一体、私の人生の権利は何がある?」と書き残している。
女性が治療終了を求めた根拠とした2012年の日本老年医学会ガイドラインは私も作成に関わった。「本人の人生にとって益をなし、害をなさない」という視点で、治療方針は本人や家族らと医療・ケアチームが話し合う徹底した合意主義で決定するという内容だ。高齢患者を想定しているが、合意すれば胃ろうなどの導入見送りや開始した人工栄養を終了できるとした。
世界医師会が15年に確認した「患者の権利に関する宣言」では、治療法の選択に関する本人の意思の尊重を基本的な権利として認めている。日本では患者の権利は法制化されていないが、患者が人工栄養は不要と確信し継続的に伝えたら、医師は話し合って判断する必要がある。
緩和ケアでは「生きることは素晴らしい」と肯定しつつ「亡くなるのは自然なこと」ととらえる。医療は何のために行うのか。患者の幸せに貢献するためだ。逆行することが明白になったら、その医療行為の終了も選択肢となる。本人のために終了した結果、死亡するのはそもそもの身体状態の悪化によるものだ。続けるべき治療の中止や安楽死とは別だ。
01年に世界で初めて安楽死を合法化したオランダのように「死の権利」を確立すると、医師が「死なせる義務」を負うことも理解すべきだ。
家族など患者と「人生の物語」をつくる人のケアも必要だ。人生の集大成支援がエンドオブライフ(人生の最終段階)のケアでは重要となる。
今回の事件は分からない点も多い。スピリチュアル・ケア(実存的な苦痛に対するケア)を含めた緩和ケアが十分ならば治療終了を希望しなかったのではないか。治療終了の希望を家族などと話し合ったのか。入院して病院の臨床倫理委員会で是非を議論する選択肢を検討したのか。今後の解明に期待したい。
医療技術の進歩は光と影をもたらした。患者が家族らと話し合って意思決定し、適宜見直すアドバンス・ケア・プランニング(ACP)が推奨されているように、私たちはエンドオブライフのあり方に真剣に向き合う必要がある。
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<アンカー>死は生の延長線上にある
患者の「死にたい」は「生きたい」という思いと表裏一体である。患者の気持ちに寄り添い、理由を一つ一つ解きほぐしていくしかない。
現在の医療でも治療法がなく、死に直面する患者はいる。高齢者では人生の最終段階での延命治療の是非を巡る議論が進み、患者らの意思を尊重して治療の差し控えは広がった。一方、いったん始めた延命治療を終了することは刑事訴追などを恐れ広がらず、苦しむ患者と家族はいる。
死は生の延長線上にある。「生きる権利」の保障が前提となる。同時に、患者とその人生に関わった人の思いを踏まえ、医療・ケアチームとともに本人の幸せを選択する道を広げるべきだ。今回の事件の特異な面ではなく、死に向き合う患者の視点から現在の課題を見直す必要がある。