自由のパラドックス 「パクスなき世界」を考える

 

 

「Pax(パクス)」――。古代ローマの人々は平和と秩序の女神をこう呼びました。20世紀は「パクス・アメリカーナ(米国による平和)」の時代だったといえます。米国が旧ソ連との冷戦に勝利し、民主主義と自由主義経済による繁栄が続くとの見方が世界に広がりました。

それから30年余り。大衆迎合主義(ポピュリズム)や強権主義が世界で勢いづき、民主主義の後退を指摘する声は珍しくなくなりました。冷戦下に自由を希求した国々が強権体制に傾くパラドックス(逆説)が広がり、新型コロナウイルスの世界的流行が格差や対立、不信や矛盾をあぶり出しています。

連載「パクスなき世界」の第2部では、自由と民主主義の未来をみなさんとともに考える機会にしたいと思います。

 

 

民主主義、少数派に 豊かさ描けず危機増幅

 

沈下する中間層 不安のマグマ、世界揺らす

 

異次元債務に市場沈黙 カネ余りが促す大衆迎合

 

国民守る国家の姿 コロナに揺れる「安心網」

 

技術は「鋭すぎる利器」か 情報氾濫、深まる分断

 

民主主義、再生の道は 岩間陽子氏と室橋祐貴氏が対論

 

 


 

パクスなき世界 自由のパラドックス(1)

 

民主主義、少数派に 豊かさ描けず危機増幅

 

 

民主主義が衰えている。約30年前、旧ソ連との冷戦に勝利した米国は自国第一に傾き、自由と民主主義の旗手の座を退いた。かつて自由を希求した国が強権体制に転じる矛盾も広がる。古代ローマで「パクス」と呼ばれた平和と秩序の女神は消えた。人類が多くの犠牲を払って得た価値は色あせるのか。あなたにとって民主主義は守るに値しませんか――。

「一部の加盟国で司法の独立に深刻な懸念が生じている」。欧州連合(EU)欧州委員会は9月末にまとめた「法の支配」に関する初の報告書で、ハンガリーにとりわけ厳しい視線を向けた。

同国のビクトル・オルバン首相は「民主主義は自由主義でなければならないという教義は崩れた」と公言する。2010年の政権発足以来、憲法など重要法の改正を重ね、政権寄りの裁判官を増やして権力をけん制する司法の役割を封じた。

力の源は議会の3分の2を握る政権与党の議席にある。冷戦時の共産主義から民主主義に転換し04年にEUに加盟したが、今もハンガリーの賃金水準はEU平均の3分の1。人口は30年間で7%減った。「民主化すれば豊かになれる」という夢はかなっていない。

民主主義を揺らすのは低成長と富の集中だ。1980年代に3%を超えた世界経済の平均成長率は2010〜20年に2%台前半に沈み、トップ1%の所得シェアは80年代の16%から21%に高まった。難民、EU本部、自由主義。オルバン氏は次々と「敵」を攻撃し、行き場のない不満をためこむ人々の支持を集めた。

より自由になった市民が無力を味わう自由民主主義のパラドックス(矛盾)――。ブルガリア出身の政治学者イワン・クラステフ氏は中欧の難局を著書でこう表現した。冷戦時に民主化を求めたポーランドも強硬右派政権が2月、裁判官が政府の改革に異を唱えるのを禁じる法律を作った。

危機は世界を覆う。スウェーデンの調査機関V-Demによると、19年に民主主義国・地域は世界に87。非民主主義は92で、民主主義が18年ぶりに非民主主義の勢力を下回った。18年にハンガリーやアルバニア、19年にフィリピンなどが非民主主義に逆戻りした。20年に民主国家に暮らす人は世界の46%と、旧ソ連が崩壊した1991年以来の水準に沈む。非民主国家が世界の多数派だ。

 

選挙で選ばれた政権が民主主義を壊す悪夢は約90年前も見た。当時最も進んだ民主憲法を擁したドイツは第1次大戦の賠償や世界恐慌で疲弊し、ヒトラー率いるナチスの全体主義を選んだ。民主主義と自由主義経済の繁栄。20世紀の共通の価値軸「パクス」を守るべき大国も土台がぐらつく。

11月3日、建国以来59回目の大統領選挙に臨む米国。大票田テキサス州で与党・共和党のアボット知事は10月上旬、唐突に不在者投票の受付場所を自治体ごとに1つに集約するよう命じた。野党・民主党は高齢者らが投票しにくくなると反発し、法廷闘争が続く。

新型コロナウイルスを理由とした選挙規則の変更を巡る訴訟は全米で350件を超える。トランプ大統領は民主党候補のバイデン前副大統領に敗れた場合の平和的な政権移行すら確約しない。

民主主義の動揺を強権国家は見逃さない。中国の習近平(シー・ジンピン)指導部は新疆ウイグル自治区などで少数民族の同化政策を強力に進める。香港政府は3月に5人以上の集会を禁じ、コロナを理由に抗議活動を禁止した。9月に予定していた立法会(議会)選挙も1年延期した。

ベラルーシのルカシェンコ大統領は9月、予告なしに6期目の就任式を強行した。夏の大統領選での不正への抗議デモが続くが、欧米の関心の低さを見透かす。ロシアは15億ドル(約1600億円)の支援融資を申し入れ、影響力拡大を狙う。

社会学者ラルフ・ダーレンドルフは23年前、「21世紀が権威(強権)主義の世紀にならないと言い切れない」と記した。希望はないのか。

政権の意向に縛られない新たなメディアの創設を決意したハンガリーのベロニカ・ムンクさん(撮影=Janos Bodey)

再びハンガリー。ベロニカ・ムンクさんは10月、仲間とニュースサイト「テレックス」を開設した。同国最大手ネットメディアの副編集長を7月に辞めた。政権に近い実業家が経営に介入し、編集長を解任したからだ。「独立は自らの足で立つことでしか得られない」。新サイトは主に寄付金と購読料で運営する。

法の支配や言論の自由を常に磨く。誰にも縛られない発想を育む礎は誰かが守ってくれるわけではない。米フーバー研究所シニア・フェローのラリー・ダイアモンド氏は「民主主義を改革する新たな時代を」と訴える。未来を守るカギは私たち一人ひとりの手にある。

 

 

キーワード「米中新冷戦」

 貿易、金融、技術、軍事――。米国と中国はあらゆる分野で覇権を競い、対立している。中国が一党独裁の強権体制に一段と傾くにつれ、米国とソ連の冷戦になぞらえて「新冷戦」と呼ぶことが増えた。では世界がこのまま民主主義と自由という価値観を巡って二分されるのかといえば、冷戦時と異なる点も多い。

トランプ米政権が中国共産党を「全体主義」(ポンペオ国務長官)と非難し、米中対立は価値観闘争の色彩も帯びる。ただ米国の資本主義とソ連の共産主義のイデオロギー対立が世界を分断した冷戦と違い、世界1、2位の経済大国である米中の相互依存は深い。

 戦後世界を東西に分断した冷戦時代、米ソ間の経済交流はほぼなかった。2019年の米国の貿易額のうち中国向けは13%を占める。中国は共産党の一党支配でありながら経済は実質的に資本主義だ。01年に世界貿易機関(WTO)に加盟し、グローバル化の恩恵を受けて経済発展した。米中の経済関係や国際供給網は深く複雑に結びつく。

 米中対立を「冷戦」と呼ぶことに疑問の声もある。それでも超大国・米国に迫り、米主導の国際秩序に挑む中国という構図が「新冷戦」のイメージとなっている。12年に発足した習近平(シー・ジンピン)指導部は広域経済圏構想「一帯一路」や「中国製造2025」といった長期戦略を打ち出し、米国の中国への警戒感を一気に高めた。

 中国による高度な市民監視システムの輸出も「世界に自由で民主的な社会が根付くことを望んできた米国外交の基本と衝突した」(佐橋亮東大准教授)。米国は通信網など機微に触れる分野から中国企業の締め出しに動く。

 多くの専門家は、中国には米国に代わって世界の覇権国になる意図も能力も今のところないとみる。米国からみれば自国の利益を中国に日々削り取られているのが現状だ。相互不信が高まり、偶発的な軍事衝突が起きる恐れもくすぶる。

 中国は一党支配体制を守るために欧米中心の自由や民主主義という価値観とは一線を画し、香港などで統制を強めている。一方の米国は大統領選を控えて国内各地で暴力衝突が起き、国際社会を主導する力は衰えた。

 冷戦研究の第一人者である米エール大のオッド・アルネ・ウェスタッド教授は覇権を争う2国が長く併存した例に古代ギリシャのアテネとスパルタ、16世紀のイングランドとスペインなどを挙げ、米ソ冷戦以外は最終的に全面戦争に至ったという。米中の争覇は21世紀の世界だけでなく、自由と民主主義の未来にも大きな影響をおよぼす。

 

 


 

パクスなき世界 自由のパラドックス(2)

 

沈下する中間層 不安のマグマ、世界揺らす

 

 

今の自由は豊かさにつながっていますか――。

「1万年前の農耕社会の開始以来、初めて世界人口の過半数が貧しさから脱した」と米ブルッキングス研究所が宣言した2018年。民主主義を育んだ先進国では中流がすでに地盤沈下していた。1970年代に6割を占めた米国の中間層は5割程度に細った。

コロナ禍はその沈下を早める。国際労働機関(ILO)によると、1〜9月の世界の労働所得は前年同期比10%減、金額換算で3兆5千億ドル(約360兆円)減った。

 

タイの首都バンコクでは7月から反体制デモが続く=ロイター

新興国の優等生タイ。4〜6月期の実質国内総生産(GDP)は前年同期比12.2%減とアジア通貨危機の1998年以来の落ち込みだった。首都バンコクでは7月から反体制デモが続く。「経済はひどい。政府に国を統治する能力はない」。デモに参加した男性会社員のパニタンさんは富裕層に富が偏る構図が強まっていると懸念する。

「自由な市場経済では必然的に富の集中が起こる」。数学者ブルース・ボゴシアン氏は19年の科学誌で、究極的には富が1人に集中することを数理モデルで立証できると指摘した。大量生産のために雇用を増大させた製造業中心の20世紀までの経済は自由な競争が労働者に富をもたらした。

経済のデジタル化がその循環を断った。同じく自由に基づくのに、データやアイデアを独占する巨大IT(情報技術)企業は多くの雇用を必要とせず、市場を支配する勝者総取りを実現した。

 

大多数がそこそこに満足する分厚い中流階級の存在は各国の自由と繁栄の礎だった。政治的には幅広い穏健な中道層と重なり、世論が極端に振れるのを防いできた。経済の構造変化はそんな社会の安定装置を崩した。

民主化で豊かになるとの期待はかすむ。ドイツのベルリンの壁崩壊から30年たった19年。米ピュー・リサーチ・センターの調査で旧東独の74%の人が「旧西独の生活水準に届かない」と答えた。

政治家も戸惑う。支持を広げるため有権者の多い中道の取り込みを競ってきた。今では分散化する有権者の関心をうまくすくえなくなった。

政治学者のフランシス・フクヤマ氏は14年の著書で民主主義の未来は「中産階級の衰退という問題を解決できるかにかかっている」と主張したが、現実は逆に進んだ。

米スタンフォード大の研究者らは17年、1940年に生まれた米国人の9割が親より豊かになったが、80年代生まれではそれが5割にとどまると指摘した。16年の米大統領選では低所得層ほど投票率が低く、世帯年収が15万ドル以上と1万ドル未満で40ポイントほどの差がある。

低所得層など政治的に沈黙してきた有権者はマグマのように不満をためる。大統領選を控える米国で人種や差別をめぐる衝突が続くように、いったん不満に火が付けば政治も社会も一気に不安定になりかねない。

米司法省は10月、反トラスト法(独占禁止法)違反の疑いで米グーグルを提訴した。選挙前の思惑が絡むとしても、新たな経済への一つの問題提起であるのは確かだ。

中間層を再生することも、製造業中心の経済に戻ることも、いまや現実味は乏しい。「新しい酒は新しい革袋に」。経済の激変に流されず変化そのものを御せば、あすの安定を創る好機となる。

 

 

キーワード「エレファントカーブ」

 世界の所得階層の分布を示す有名なグラフに、象が鼻を持ち上げる姿によく似た「エレファントカーブ」と呼ばれる曲線がある。横軸に世界の富裕層から貧困層までを並べ、一定期間に各階層がどれだけ所得を伸ばしたかを示したものだ。

考案したのは経済学者のブランコ・ミラノヴィッチ氏らで、1988年からの20年間を対象にデータを分析した。

 グラフの右から、富裕層を示す鼻先は高々と伸び、主に先進国の中間層を指す辺りで急降下してくぼむ。新興国の中間層を含む領域になるとグラフは大きくせり上がった背中を描き、最貧層を表す尻尾は垂れる。

 グラフから分かるのは収入の伸びで新興国が先進国の中間層を上回ったことだ。先進国では中・下位層を中心に、経済の停滞が長期化している実態も浮き彫りにした。

 新興国の繁栄は先進国からの製造拠点の移転といった経済のグローバル化がもたらした。これまでの製造業中心の経済から、デジタル化の進展で産業構造が変われば、グラフの形も崩れていく。

 巨大IT(情報技術)企業に、データやアイデアとともに富も偏在していく動きは止まらない。今年に入って世界を襲った新型コロナウイルスはその流れを加速する。

 多くの階層が収入を減らした。世界銀行は10月、極度の貧困層が20年ぶりに増えるとの報告書をまとめた。他方、超富裕層の資産はさほど傷んでいないとみられる。

 「曲線の形は象から『頭をもたげたコブラ』へと変わる」。北海道大の吉田徹教授はコロナ後の新興国の成長鈍化で、中間層を表すせり上がった象の背中はなくなると指摘する。デジタル化による富の偏在と相まって、世界で二極化が進む。

 中間層は各国で、政治的には民主主義の担い手として社会を安定させる役割を果たしてきた。その層が地盤沈下し、不満が高まれば、社会の不安定さも増しかねない。

 

 


 

パクスなき世界 自由のパラドックス(3)

 

異次元債務に市場沈黙 カネ余りが促す大衆迎合

 

 

何を物差しに、政府の政策が適切かどうかを判断しますか――。

「小切手1枚では足りない」。米ニューヨークで9月、失業した若者らが所得保障を政府に求めた。米国は新型コロナウイルス対策で1人に最大1200ドル(約13万円)を配った。仮に同額を12カ月配ると、過去最大だった2020会計年度の財政赤字(330兆円)と同規模の財源が要る。

米国で生活費の保障を求めて声を上げる若者ら(9月、ニューヨーク)

危機に救いを求める声が政府の借金を異次元の領域に押し上げる。国際通貨基金(IMF)によると米政府債務の国内総生産(GDP)比は20年に過去最高の131%。世界全体では99%とGDP規模に並ぶ。前例のない非常事態なのに、市場は沈黙したままだ。

第2次世界大戦後、手厚い福祉に傾いた米英など先進国の多くは財政悪化と物価高騰に苦しみ、1980年代から政府の関与を減らす「小さな政府」を志向した。福祉国家の代表格であるスウェーデンも90年代に財政悪化から長期金利が2桁の水準に上昇し、増税と歳出削減を迫られた。

民主主義が野放図にばらまけば市場が歯止めをかける――。自由という価値を頂き、互いに補いつつ繁栄した2つの歯車がかみ合わない。イタリア国債の格付けは投資適格で最低水準のトリプルBなのに長期金利は10月に一時0.7%を下回った。8月に日本の投資家はイタリア国債を過去最大の約5千億円買い越した。原因はカネ余りだ。

2008年の世界金融危機を経て中央銀行の超低金利政策が定着し、10年代の米短期金利は0.6%と1980年代の1割未満の水準にある。経済のデジタル化で設備投資が鈍り、80年代に通算7兆ドルの資金不足だった日米企業は2010年代、同規模の余剰に転じた。米ピュー・リサーチ・センターによると米国民の「大きな政府」への支持率は19年に47%と30年ぶりの高水準にある。世界は反転した。

「金利と経済成長の常識は一変した」。慶大の桜川昌哉教授は語る。過去70年間、米国の金利は成長率を平均1%上回った。10年代に入ると逆に1%下回るようになった。低成長でも金利がさらに低ければ「政府は債務返済を上回る税収を期待できる」(桜川氏)。借金の痛みも消えた。

 

中国など強権国家の台頭にコロナ禍。自由を脅かす危機が広がる。経済学者フリードリヒ・ハイエクは中央集権的な体制は自由市場に比べて資源を効率的に配分できないと論じた。だが中国に追われる米国のトランプ大統領は自ら貿易戦争を仕掛けて自由主義経済の土台を壊す。よりよい社会をめざす道はないか。

「パンとサーカス」は民衆の歓心を買おうと権力者が食料と娯楽を振る舞い、没落したローマ帝国の象徴だ。21世紀に広がるポピュリズム(大衆迎合主義)は、社会の不満や不安をあおり、権力の膨張にひた走る為政者が民主主義をむしばむ。

本来、金利上昇やインフレといった信号で権力の暴走に歯止めをかけるはずの市場はカネ余りにまひした。ブレーキ役を果たせない市場と民主主義の衰えは無関係ではなく、互いにつながり、世界に矛盾を広げる悪循環を生み出している。

「非常時だから」と思考を止めず、市場の健全な機能を取り戻す歩みを続ける。その先に民主主義の再生もあるはずだ。

 

 

キーワード「長期停滞論」

 自由を渇望した国で民主主義が不安定になるのはなぜか。政治学者のヤシャ・モンク氏は「人々が親より豊かになっていると感じられないから」という。ではなぜ豊かになれなくなったのか。

 元米財務長官のローレンス・サマーズ氏の答えは「長期停滞論」。08年の金融危機以降、経済の回復が遅れた理由として13年に唱え始めた。国際通貨基金(IMF)によると先進国の経済成長率は21世紀の20年間が平均1.5%。20世紀の最後の20年間が3%だったので、ちょうど半分だ。

 サマーズ氏は停滞の理由を「貯蓄過剰」に求めた。20世紀までの経済は企業が工場や設備に投資をつぎ込み、人々の貯蓄が使われた。21世紀に入ると投資が細り、貯蓄が余り始めたというのだ。

 IMFによると世界の貯蓄額は04年に初めて投資額を上回った。金融危機後は当たり前となり、20年も貯蓄額は投資額を1000億ドル(約10兆円)ほど上回る。東大の青木浩介教授は「家計がためたお金を企業が使う従来モデルは機能しなくなった」と話す。投資が足りないので経済は冷え込み、お金の借り手がいないので金利も下がる。

 誰のお金がたまっているのかも問題だ。米プリンストン大のアティフ・ミアン教授らによると、米国では収入が最上位1%の富裕層が年間約60兆円ずつ貯蓄を増やしている。スウェーデンの経済規模に相当する。

 政府が税を通じ、豊かな層から貧しい層へお金を流す再分配も目詰まりを起こした。米経済学者のエマニュエル・サエズ氏らが運営する団体によると所得上位400人にかかる税率は18年に23%と、過去100年間で初めて下位50%層の税率を下回ったという。

 11月3日に迫る米大統領選では民主党のバイデン候補が富裕層への課税強化を訴えている。実現すれば低税率の国に富が逃げる懸念もある。富が偏る副作用は経済にも民主主義にもおよぶ。

 

 


 

パクスなき世界 自由のパラドックス(4)

 

国民守る国家の姿 コロナに揺れる「安心網」

 

 

自由な国家は国民を守れると信じますか――。

「中国型の社会統制と監視のモデルには大きな需要がある」。カーネギー財団モスクワセンターのアレクサンドル・ガブエフ上席研究員はこう指摘する。

いま、中国国内を移動するには、スマートフォンが手放せない。行動履歴で新型コロナウイルスに感染していないという証明をスマホのアプリで示さない限り、公共交通機関や商業施設、飲食店などを利用することはできない。

街中に張り巡らす監視カメラや個人データの収集、人口1千万人を超える武漢市の封鎖。中国は国民の自由を顧みず、コロナウイルスの封じ込めに突き進んだ。こうした中国の技術や手法に魅力を感じる強権国家は多く、ロシアや中央アジアなどで監視技術の導入が進む。

「我々は感染第2波のまっただ中にいる」。フランスのマクロン大統領は危機感をあらわにする。中国がコロナ封じ込めに成功する一方で、欧州や米国では新規の感染者数が急増している。

ニッセイ基礎研究所の高山武士氏が50カ国・地域を対象にコロナの人的被害と経済損失を分析し、総合評価を算出したところ、欧州諸国が軒並み下位に沈んだ。世論に配慮し、行動規制の緩和を急いだことが感染再拡大の背景にある。

米国では自由主義的な価値観を重視し、規制に慎重な共和党系が優勢な州で感染者が多い。「国民が同じ方向を向かないと封じ込め政策の効果は薄い」(高山氏)

国家の意志で国民に同じ方向を向かせることができる強権国家と異なり、民主主義国家は違う方向を向く自由も尊重せざるを得ない。民主主義の劣勢にもみえるが、民意を反映しない強権体制は危うさも抱える。

民意より経済成長と国力の向上を優先してきた結果、国民生活の安定に必要な社会保障制度などの「安心網」にはひずみも目立つ。

2018年に中国で大ヒットした映画「我不是薬神」(邦題「薬の神じゃない!」)。中国の医療や社会保障制度の不備をリアルに描いた作品として注目された。中国では診療を受けるために早朝から長蛇の列を作ることは日常的な光景だ。医療への不満から医師への暴力事件が後を絶たず、社会問題化している。

病気や貧困から国民を守る社会保障制度は、19世紀後半に「鉄血宰相」と称されたドイツのビスマルクが礎を築いた。当初は労働者の過激化を防ぐ目的で導入した制度だが、参政権を求める運動が拡大し、民主化が進むとともに発展してきた。

長い目でみた安心をどこまで国民に提供できるか。その差は鮮明だ。

世界銀行によると、中国の国内総生産(GDP)に占める医療支出の割合は5%。米国(17%)や日本(11%)、世界平均(10%)と比べて低い水準にある。高齢化も進む中、年金制度などの整備も遅れている。

急速に進化するデジタル技術を総動員して国民の監視体制を構築し、国家権力の維持に努める強権国家。だが、社会に渦巻く不満を抑え込むほど、将来のリスクも膨らんでいく。

コロナに揺さぶられる「安心網」をどう立て直すか。その行方がコロナ後の国家の興亡を左右する。

 

 

キーワード「社会保障」

 病気や労働災害などの際の「安心網」となる社会保障制度を国家が初めて整備したのは「鉄血宰相」として知られるドイツのビスマルクだ。1880年代に疾病・労災・年金保険を相次ぎ制定する。

 社会保障の登場は資本主義の発展と連動する。18世紀の英国で起きた産業革命によって都市への移動が起き、人は新たな自由を得た一方で病気などで働けなくなった時のリスクを背負い込んだ。

 旧ドイツ帝国のビスマルクは中央集権体制を目指すなか、国と個人が直接結びつく手段としての社会保障を構想した。帝国と相対する社会主義運動の拡大防止と兵士の健康状態管理という国家体制の維持に主眼を置いた改革だった。

 第2次大戦のさなか、英国の経済学者ベバレッジは貧困者を減らすために社会保障網を全国民に行き渡らせるべきだとの報告を英政府に提出する。ベバレッジ報告と呼ばれ、国が「ゆりかごから墓場まで」面倒を見る福祉国家の基礎となった。

先進国では社会保障が拡充された一方、給付が次第に国家の重荷となっていく。1975年には経済協力開発機構(OECD)の平均で社会支出が国内総生産(GDP)比14.4%と15年間で6ポイント上がった。

 福祉国家を世界に広めた英国では、給付に過度に依存した人が増えて競争力の低下が問題となった。「英国病」と呼ばれた危機だ。79年に登場したサッチャー首相は小さな政府を掲げ、社会保障を見直していった。同時期に米国でもレーガン大統領が誕生し、政府の関与を減らして市場原理を重視する新自由主義が潮流となる。

 新自由主義は格差拡大をもたらしたとして、2008年の世界金融危機後に揺り戻しが起きた。ただ、社会保障の支え手である若者が減り、支えられる高齢者が増える現象は各国で共通する。持続可能な社会保障づくりが急務だ。

 

 


 

パクスなき世界 自由のパラドックス(5)

 

技術は「鋭すぎる利器」か 情報氾濫、深まる分断

 

 

テクノロジー(技術)は民主主義を守ると思いますか――。

ブラジルが11月の統一地方選を控え、表現の自由の抑制に動いた。高等選挙裁判所のバホゾ長官が9月末、米フェイスブックなどSNS(交流サイト)運営会社と「フェイクニュース」を防ぐ協定を結んだ。デマの発信元を調べ利用者のアカウントを止めるためだ。

背景にはフェイクニュースによる民意の分断がある。「新型コロナウイルスによる医療崩壊は起きていない」。6月、ボルソナロ大統領を支持する国会議員らが患者のいない開業前の病院内の動画をSNSで広め、経済活動の再開を訴え批判を受けた。COPPEADビジネススクールのアリアネ・ローデル教授は「フェイクニュース製造・拡散への罰則は真実の情報に基づく民主主義を守るためのものだ」と語る。

1990年代、民主主義を巡る高揚感と楽観論があった。冷戦終結で旧共産圏に民主化の波が押し寄せ、インターネットで世界中の個人がつながり始めた。誰もが自由に意見を交わし、民主主義は深化するはずだった。

今や世界人口の半分がSNSを使う。米シスコシステムズによると2020年の世界のデータ量は月間254エクサ(エクサは100京)バイトと90年の2億倍以上にのぼる。デジタル技術は誤った情報も増幅させる。世界中のコロナ関連のツイートを収集するイタリアの研究機関は3割が信頼性を欠く内容だと分析する。

米国では16年の大統領選でロシアの介入疑惑などがあり、民主主義を守るためSNSの検閲の動きが強まった。だが、偽情報の規制は表現の自由の後退と裏表の関係にある。SNS運営会社が民主党の大統領候補バイデン氏の次男らの不正疑惑を報じた米紙記事の閲覧を制限すると、共和党議員が批判した。「自由と規制の線引きが混沌としている」(上智大の前嶋和弘教授)状況だ。

東京工業大の笹原和俊准教授が、大統領選を争うトランプ氏とバイデン氏を支持するそれぞれ数万人のツイッター利用者のリツイートの流れを調べたところ、考えの近い人同士がリツイートし、支持が異なる人とのやりとりは少なかった。

SNSは考えの近い人だけの閉じた世界で広がりやすく、その傾向が強いとされるのは保守派だ。米ピュー・リサーチ・センターが大統領選前のフェイスブックの投稿や反応を分析すると、16年より共和党議員への反響が増えた。民主党議員は「フェイスブックは右翼のエコーチェンバー(反響室)」と非難する。

ファシズムが台頭し左右対立が激化していた約90年前の欧州。スペインの哲学者オルテガは「異なる他者への寛容」を訴えたが、溝は埋まらず世界が戦禍に見舞われた。

多様な情報に接した人々が熟慮や熟議を経て民主主義は守られる。15世紀のドイツのグーテンベルクによる活版印刷の発明は特権階級の情報の独占を崩し、新しい技術が市民革命につながった。

現代でも模索は続く。ネットで誰でも自由に政策を議論できる台湾の「v台湾」。市民らが話し合いで選んだ議題に参加者が意見を投稿し、他の参加者が同意、不同意などを示す熟議の場だ。

人工知能(AI)などを使い意見の近い集団ごとに分類。考えの違いなどを視覚的に示し、全員が納得できる案を導き出す。米ウーバーテクノロジーズの参入時のタクシー業界との共存策などの合意形成に役立った。

技術は民主主義を危うくすることも磨くこともできる。利器の使い方が問われている。

 

 

キーワード「デジタル・レーニン主義」

 民主主義の前提となるのが個人の表現や移動の自由だ。スマートフォンや監視カメラなどのデジタル技術は表現の幅を広げたり、治安を守ったりできる利便性がある半面、個人の情報を効率的に集めやすい。使い方次第で国家が監視を強めるリスクと隣り合わせだ。

 「デジタル・レーニン主義」。ドイツの政治学者セバスチャン・ハイルマン氏はデジタル技術による監視社会やそれを支える思想をこう表現した。ロシア革命の指導者レーニンが建国した旧ソ連の全体主義の再来に警鐘を鳴らしたものだ。

 実際にデジタル・レーニン主義が広がる可能性はあるのだろうか。各国の姿勢を測る物差しになるのが、新型コロナウイルスの感染予防対策として多くの国が導入したスマホを使う「接触追跡」の技術の運用法だ。

 米MITテクノロジーレビューがデータの用途制限など個人情報への配慮度合いを5項目で評価したところ、中国やカタールなど少なくとも6カ国のアプリは一つも基準を満たしていなかった。欧州は配慮する国が多い。日本は個人情報を取得しない仕組みにした。

 中国は位置情報などから個人の移動に関するデータを感染対策に役立てる。感染リスクが高いと判断された人の行動は制限される。中国は以前から街中にカメラを張り巡らせるなど国家の監視を強めていた。リスク分析会社ベリスク・メープルクロフトは「アジアが監視のホットスポットに浮上している」と指摘する。

 コロナ禍で中国方式の監視は成果を上げたとされる。だが民主主義のチェック機能がなく、個人の自由が脅かされたり社会が極端な方向に振れたりする脅威はある。中央大の宮下紘准教授は「国家は技術的にいくらでも人の移動などを監視できる。歯止めをかけられるかは、各国の民主主義の水準にかかっている」と説く。

 

 

 


 

 

 

 

民主主義、再生の道は 岩間陽子氏と室橋祐貴氏が対論

 

 

世界で綻びや衰えが目立つ民主主義。人類が培ってきた知恵を未来に向けてどう再生するか。政策研究大学院大学の岩間陽子教授と日本若者協議会の室橋祐貴代表理事に意見をぶつけてもらった。

 

岩間氏「製造業の時代に適した制度」

 

室橋氏「判断軸養う議論の場を」

 

――20世紀の終わりに東西冷戦が終わり、民主主義が勝利したはずでした。最近は衰退が目立ちます。

岩間 冷戦の終結後も統一ドイツは失業者が大量発生する時代が続いた。欧米はイスラム圏などからの移民の流入も増え、ポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭する要因となった。民主主義が大丈夫だとの感覚を持ったことはない。

民主主義は製造業の時代に最も適していた。工場で働く労働者が大勢いて、皆が1人1票という声を等しく与えられている。労働者が働くことで国力が増すと同時に、一人ひとりが医療や福祉を享受し、個人としても尊重される。そのような製造業に支えられた民主主義が19世紀から20世紀に広がったのだと思う。

その流れが大きな転換点を迎えている。欧米で製造業の労働者が大量に失業し、富を生み出すのはIT(情報技術)など一握りの産業になった。社会構造が激変していることが今の政治の不安定の根底にある。

室橋 民主主義を基本的にはポジティブ(肯定的)に捉えている。10年、50年という長い時間軸でみれば民主主義は修正をもたらしやすい。米国で2016年の選挙でトランプ大統領が誕生した背景にはオバマ前政権で中国の台頭を許したことへのリバランスが働いたともいえる。11月の大統領選後も一定のリバランスは機能するだろう。

民主主義の不安定化は経済状況の不安定化とほぼイコールだ。中間層が厚くなければ民主主義は安定しない。民主主義を安定させるには再分配を通じて中間層を厚くする必要がある。日本は格差が相対的に小さいかもしれないが中間層が全体的に没落している。(物価変動の影響を除いた)実質賃金の伸びは過去20年、先進国の中で例外的に低下した。政治に参加するには人々に一定の余裕がなければいけない。政治参加する人がどんどん少なくなる危機感を持っている。

 

――インターネット世界が広がり、言論の場も不安定になっています。

室橋 ネットの普及でデマが広がりやすくなったとは思わない。高齢世代の意見が分極化しているのに比べると、若者はバランスをとってネットに接している。ツイッターやユーチューブを見比べ、それぞれの情報ソースごとの偏向を直感的に理解している。

岩間 ツイッターなどでは自分が聞きたくない意見も大量に押し寄せてくる。面白いが「何でもあり」は怖い。目の前に水の入ったコップが1つあるとき、我々の世代の議論は「コップに入った水が多いか少ないか」まで。ネットでは「コップはない」「コップは3つある」という誤った情報まで流通する。

室橋 若者の側に価値判断の軸がないことも問題だ。軸がないので「何でもあり」を追認しがち。判断軸を養うため、様々な情報を照らし合わせ議論する環境が教育現場に必要だ。

 

――新型コロナウイルス危機に民主主義は対処できていますか。

岩間 コロナはアジアよりも欧米の社会を激しく揺さぶっている。経済への打撃は政治におよぶ。今回の危機は欧州の没落を早める気がしている。世界保健機関(WHO)はじめ国際機関も十分に機能しているとはいえない。各国がお金と情報を出し合い解決にあたるのが望ましいが、21世紀の混沌の中でそのような中央集権モデルがうまくいくとも言い切れない。

室橋 危機時には国民の納得感を得ることが非常に重要だ。ドイツのメルケル首相が積極的に記者会見し、ニュージーランドのアーダーン首相はSNS(交流サイト)で国民にメッセージを送った。説明責任を果たそうとする態度は支持や納得感を高めた。

岩間 危機への対処についていえば、短期と中長期で成功に対する見方は異なる。日本は欧米より感染者が少なく、短期的にうまく対応しているかもしれない。だが長い目で見れば大量の失業が生じている米国の方が古い産業を壊し、新しい産業への転換を進められるかもしれない。

 

――正しい答えを導く方法はありますか。

室橋 日本では政治に正解を求める「正解主義」が強すぎる。コロナは前代未聞の事態なのに、あたかも政治が正解を出してくれるように国民が期待してしまう。意思決定の理由を説明する態度の方が重要ではないか。

岩間 1つの問いに対して1つの答えがあるという感覚が日本の教育現場には根強く残る。違う答えもあるという発想がないと民主主義は機能しない。

 

――中間層の衰退など社会構造の変化に民主主義は適応できますか。

岩間 フランス革命のように、社会や経済の前提が変わるときに政治体制も大変動する。戦争や革命はコストが高くつくので、民主主義には改良能力が求められる。時代の要請に応えて変わらなければ廃れてしまうだろう。世界人口の過半数を占める発展途上国には民主主義でない国も多く、民主主義が善という欧米流の前提は通用しない。中間層の形成を経ずに一足飛びに社会が発展することもありうる。民主主義にとって難しい時代だ。

室橋 変化の激しい時代に絶対の正解はない。1つの正解を求める政策の決め方も変えるべきだ。計画と実行、検証と改善を重ねる「PDCA」の考え方が大切だ。PDCAを回すにはデータが欠かせない。教育などの分野では政策効果を測るデータ取得を積極的に進める必要がある。

企業にもっと社会的な責任を果たしてほしい。日本の最低賃金は世界的にみれば低い。経済的な余裕が失われれば少子化はますます進む。企業は市場の縮小で自らの首を絞めることになる。市場を大きくするためにももっと労働者の取り分を増やしてもらいたい。

 

――民主主義を守るために何が必要でしょう。

室橋 選挙以外にも政治に参加するツールを増やすべきだ。これだけ世界が変化しているのに、日本なら原則4年に1回の選挙だけでは追いつけない。価値観や経済の変化に対応できる政治参加の仕組みを整えなければ、政治と市民との意識の乖離(かいり)は広がる一方だろう。新しい形での政治参画を進め、経済の低迷が国民の不満を高める悪循環を断ちたい。

岩間 欧米の価値軸に共感しない人も増えるなか、法と秩序を守るために何ができるか。米国の力で押すやり方、中国のお金にモノをいわせるやり方の双方とも限界がある。日本のように少しずつ様々な場所で支援を広げるやり方が求められる。たとえばインドの地方に女性が安心して入れるトイレを作る。インドの将来を変え、国際関係さえ変えるかもしれない。

 

――日本の民主主義は何が求められますか。

岩間 中間層が細り、特に若者の余裕が失われている。教育にお金をかけなければならない。意思と能力のある若者の教育コストを国が負担することは将来のために最も必要だ。

室橋 菅政権をみると女性閣僚が圧倒的に少ない。政界は当選回数でポストが決まる年功序列が残っている。企業も年功序列を見直している時代なのだから、変わってほしい。

岩間 (議員の候補者や議席の一定数を女性に割り当てる)「クオータ制」を導入するしかない。現状のままでは何も変わらない。日本は過去30年、女性や外国人、低所得者などの声を抑え込み、社会の柔軟性が損なわれ、改革や改良を遂げる力も失われたと思う。社会の中で声が反映されにくい人の参加や自己実現、教育の機会を増やしていかなければならない。

室橋 日本では子どもの権利が重視されていない。コロナで子どもの死亡率は低いとされているのに真っ先に臨時休校になった。十分な根拠も示さず、上から決まった。小さいころから民主主義に触れる場がないまま、いきなり大人の世界だけを民主主義だといっても無理だ。学校現場から変えていく必要がある。

 

 

 

もどる