デジタル行政 怠慢の20年(上)

 

 明暗分けた国民番号

 

 

政府は2000年、ソニーCEOだった出井伸之氏(左)を議長とする会議でIT戦略を打ち出した(右は当時の森喜朗首相)

行政のデジタル化を掲げる菅義偉政権が発足した。だが日本政府は20年前にも「5年で世界最先端のIT(情報技術)国家を目指す」との目標を掲げていた。過去の失敗の教訓と改革成功へのヒントを探る。

北欧のデンマーク。国民にとって「役所」とはほぼデジタル空間上の存在を指す。約580万人の全国民の8割がデジタルIDを持ち、給付金や税金など役所からの通知は全てネット上の「電子私書箱」に届く。

住所変更、入学手続き、年金……。生活に関わるほぼ全ての手続きがオンライン上で完結する。離婚もワンクリックでできるため、3カ月間の冷却期間を設けることが一時的に法律で定められたこともある。デジタル行政が当たり前のように生活の随所に行き渡り、国連の電子政府ランキングでは1位に輝く。

デンマークが取り組みを本格化したのは2001年。デジタル署名制度の開始を皮切りに政策を推し進めた。07年に公共機関に統一のIT基盤の使用を義務化。14年には15歳以上に電子私書箱の使用を原則として義務付けるなど、行政のあり方を変えてきた。

一方の日本。新型コロナウイルス禍で露呈したのは行政手続きをいまだに紙に依存した「アナログ国家」の姿だ。00年に「IT基本戦略」を打ち出したのに、世界の背中はむしろ遠ざかった。

両国の20年間を大きく分けた要因の一つに、国民番号制度がある。デンマークでは1968年に始めた番号制度を使い、その基盤の上にデジタル行政の枠組みを整えた。韓国やエストニアなど先進的な取り組みで知られる国はほぼ全て同様の制度が浸透している。

日本のマイナンバーカードの普及率はわずか2割弱。政府が情報を一元的に管理することへの国民の不信感を拭えないことが、普及を阻む最大の壁だ。デンマークでは「国との情報共有は必ず本人の同意が要る」(同大使館の上郡明子上席商務官)など、利便性と安全性のバランスを取る工夫に余念がない。

デジタル化が政権の最優先課題になったことが一度もなかった日本では改革のスピードも遅い。

民間出身で政府CIO上席補佐官を務める平本健二氏が「この20年間で数少ない成功事例だ」と語るのが約6万字に上る漢字の国際規格化だ。端末や機種に関係なく正しい漢字が表示できるようになった。デジタル行政に欠かせない一歩だが、IT戦略策定から実現まで17年もかかった。

米政府はデジタル投資の進捗や評価を国民がネット上で簡単に把握できる。日本では各省庁別の投資額を調べようとしても17年度までしか更新されていない。

官僚にとって業務のデジタル化は政策立案などに比べて優先度の低い仕事だった。情報漏洩など失敗のリスクがある一方、やらなくても平時は問題にならない。「怠慢の20年」の繰り返しを防ぐには、官僚の背中を押す仕掛けが要る。

菅政権誕生で再びデジタル化のスタートラインに立った日本。コロナで国民の関心が高まったこの機を逃せば、世界の背中は全く見えなくなる。

 

 


 

デジタル行政・怠慢の20年(中)

 

もたれ合うベンダー・自治体 デジタル化へ旧弊破れるか

 

 

紙に頼った行政手続きが多く残る(家計向け10万円給付金の申請書)

新型コロナウイルス禍が浮き彫りにしたのは、国や自治体間の連携が思うようにとれない行政システムのお粗末さだ。

厚生労働省が5月末に導入した感染者把握システム「HER-SYS(ハーシス)」。患者情報をオンラインで迅速に集計。都道府県や国の情報共有を効率化し、迅速な政策判断につなげるとのふれこみだった。

ところが大阪府では独自システムとの二重利用が続く。ハーシスはクラスター(感染者集団)特定に必要な濃厚接触者の行動履歴を詳細に入力できず、「国のシステムに統一しても現場が混乱する」(大阪府の担当者)。データ漏洩を警戒した結果、アクセス権限も厳しく、保健所設置市と情報共有しにくい。

紙による連絡も解消できていない。医療現場から保健所への連絡は今もファクスが主流。病院が患者情報を電子カルテに記録しても保健所への伝達手段が統一されていない。これでは保健所の負担は減らない。

新型コロナ禍では10万円給付などでも国と地方のシステムが連携できないことを露呈した。なぜこんなに「紙だのみ」の分断システムになってしまったのか。

背景の一つには「自治」がある。住民記録などは地方自治体が権限を持つ自治事務にあたる。法令では氏名など必要な項目を規定しているだけ。帳簿の様式など記録の方法は各自治体が独自に決めてきた。

1960年の大阪市を皮切りに自治体にもコンピューターの導入が広がったが、その際も地方自治の原則に基づき、各自治体がそれぞれ考えた方法でデータをパソコンに入力した。こうして全国約1700の自治体に別々の情報システムが形づくられていった。

システム開発を請け負うベンダーにとって、自治体の数だけシステムがある状況は「宝の山」だ。初期開発だけでなく、修理や更新の需要も見込める。自治体にとっても地元のベンダーにシステム開発や保守を任せれば、雇用確保など二次的な効果も期待できた。

だが特定ベンダーへの丸投げ・もたれ合いは、システムの見直しで行政を良くする改革の妨げになる。

例えば自治体が保守費が安いクラウドへの移行を目指しても、既存の基幹コンピューターの中身は担当ベンダーしか分からないという壁に突き当たる。クラウド構築を手掛けるIT事業者が仕様書を書けないだけでなく、既存ベンダー側が「システムを人質にし、クラウドに移行させない動きもある」(IT大手)。

自治体の分断は制度に起因することも多い。例えば児童保護。児童相談所の中には、転居する児童の情報を転居先の相談所に受け渡す際にメールで送ることを禁じたところがある。個人情報保護条例の規定や運用が地域で異なるためだ。2018年に東京都目黒区で起きた児童虐待死事件では、転居先の相談所に情報が十分に伝わっていなかったことが、事件を防げなかった一因とされた。

菅義偉政権の「デジタル庁」は中央省庁の改革だけでなく、全国の自治体にこびりついた旧弊を洗い出し、国民の役に立つ行政へと刷新する力が問われる。

 

 


 

デジタル行政 怠慢の20年(下)

 

手つかずのデジタル人材育成 官民の連携で底上げ

 

 

デジタル行政の実現は人材力がカギになる(平井卓也デジタル改革相)

デジタル行政の成果は、それを統率し、支える人材の有無で決まる。新型コロナウイルス禍で明らかになった日本の現状はあまりに心もとない。

新型コロナの第1波が日本を襲った4月上旬、民間から厚生労働省のクラスター対策班に加わった人がいる。ビッグデータ分析を手掛けるALBERT(アルベルト)の7人のデータサイエンティストたちだ。

通信会社の位置情報データなどを使い、人同士の接触頻度を分析するのが主な任務。臨時の国家公務員として班に合流した。

だが目にしたのは、データを分析する環境も人材もそろっていない驚きの光景だ。北海道大学や東北大学から参加した研究者や学生らは、各自が持ち込んだパソコンやモバイルルーターでインターネットに接続していた。作業体制の整備が最初の仕事だった。

「致命的な問題だった」と参加した中村一翔氏(33)が振り返るのが司令塔の不在。集めたデータをどう分析し、コロナ対応に生かすのか。データサイエンティストや研究者と意思疎通を図り、全体方針を決める存在が政府にいなかった。

ALBERTの松本壮志社長は「政府内にもデータサイエンティストが必要」と指摘する。有事に民間の手を借りるにも、日ごろからデータを活用していないと能力を引き出せない。

日本政府はIT(情報技術)先進国になる目標を2000年に掲げながら必要な人材を育てようとした形跡がない。霞が関の人事制度はゼネラリスト養成に主眼を置く旧来の発想のままだ。年7000億〜8000億円ものIT予算を使いながら果実は乏しく、コロナでは人材育成を怠ったツケを払わされた。

IT予算の6割強は省庁ごとに分かれた現行システムの維持・管理などに消えている。限られた財源を実のある投資に回すには、行政システムの革新を主導する人材の力が必要だ。

菅義偉首相はIT政策に詳しい平井卓也氏をデジタル改革相に任命したが、デジタルトランスフォーメーション(DX)に必要なのはリーダーに限らない。関係者との調整にあたるマネジャー、業務フローを把握して運営に責任を持つプロダクトオーナー、システムを構築するエンジニアら3〜4類型の人材が一般に必要とされる。行政機構にはすべてが足りない。

解決するには育成と外部登用の両面で新しい発想が要る。行政情報システム研究所(東京)の狩野英司主席研究員は「海外に比べ、日本はIT業界と行政の間の人材の行き来が極めて限定的」と話す。外部からの人材に権限を与える人事制度や、ITやデジタルの専門職をつくる公務員制度改革などが検討課題だ。

デジタル人材不足は民間にも通じる。スイスのビジネススクールIMDの世界デジタル競争力ランキングで、日本のデジタル関連のスキルを示す指標は63カ国・地域中62位に沈む。官民がDXを競い、デジタル人材力を底上げする。そんなアップデートの成否が日本の競争力を左右する。

 

 

 

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