不連続の未来へ 「パクスなき世界」を考える

 

 

「Pax(パクス)」――。古代ローマの人々は平和と秩序の女神をこう呼びました。「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」から「パクス・アメリカーナ(米国による平和)」まで、繁栄の歴史を象徴する存在です。

そして2020年。新型コロナウイルスの危機が私たちに突きつけた現実は、パクスのいない世界でした。格差や対立、不信や矛盾があぶり出され、世界の変化が加速しています。

9月6日に日経電子版で先行公開する新連載「パクスなき世界」には、みなさんとともにあすの世界を考えていきたいという私たちのメッセージをこめました。あすはきのうの延長線にはありません。あなたはどんな未来をつくりたいですか――。

 

 

【「パクスなき世界」連載・対論公開予定】

(1)成長の女神 どこへ

(2)競うのは主義でなく賢さ

(3)再生迫られる民主主義

(4)ふるいにかけられる官民

(5)自分の価値を自問する

(6)人口集中から知の集積へ

 

《対論》危機の先 成長か分配か 新浪剛史氏vs柳川範之氏

 

 

 


 

 

パクスなき世界

 

 

成長の女神 どこへ コロナで消えた「平和と秩序」

 

 

世界は変わった。新型コロナウイルスの危機は格差の拡大や民主主義の動揺といった世界の矛盾をあぶり出した。経済の停滞や人口減、大国の対立。将来のことと高をくくっていた課題も前倒しで現実となってきた。古代ローマの平和と秩序の女神「パクス」が消え、20世紀型の価値観の再構築を問われている。あなたはどんな未来をつくりますか――。

 

「人々は同じ嵐に遭いながら同じ船に乗っていない」。米ニューヨーク市の市議イネツ・バロン氏は訴える。同市は新型コロナで約2万4千人もの死者を出した。

市内で最も所得水準の低いブロンクス区の死亡率を10万人あたりに当てはめると275。最も高所得のマンハッタン区の1.8倍だ。3月の都市封鎖後も低所得者が多い地区の住民は「収入を得るため外出し、ウイルスを家に持ち帰った」(同氏)。命の格差が開く。

危機は、成長の限界に直面する世界の現実を私たちに突きつけた。

古代ローマ、19世紀の英国、そして20世紀の米国。世界の繁栄をけん引する存在が経済や政治に秩序をもたらし、人々の思想の枠組みまで左右してきた。ローマの女神にちなみ、それぞれの時代の平和と安定を「パクス」と呼ぶ。だが今、成長を紡ぐ女神がいない。

 

パイが増えず、富の再分配が働かない。米国の潜在成長率は金融危機が起きた2008年に戦後初めて1%台に沈み、一定の教育を受けた25〜37歳の家計所得は18年に6万2千ドルと89年の水準を4千ドル下回った。「子は親より豊かになる」神話は崩れ、中間層が縮む。「米国は富裕層と低所得層からなる途上国型経済となった」(経済史家ピーター・テミン氏)

国際通貨基金(IMF)によると、先進国全体の実質成長率は1980年代、90年代の年平均3%から2010〜20年は同1%に沈む。低温経済が世界に広がり、格差への不満をテコに独裁や大衆迎合主義が民主主義をむしばむ。中国やロシアなど強権国家の台頭を許す隙が生じ「パクスなき世界」を混乱が覆う。

経済成長の柱の一つは人口増だった。18世紀以降の産業革命は生産性を高め、19世紀初めにやっと10億人に届いた世界人口はその後125年で20億人に達した。第2次大戦後の60年代に世界の人口増加率は2%を超え、日本などが高成長した。

すでに伸びは鈍り、今後の人口増の多くもアフリカが占める。世界人口は2100年の109億人を頂点に頭打ちとなる。コロナ禍はそんな転換期の人類を襲った。

 

経済のデジタル化も「長期停滞」の一因となる。今秋の上場へ準備する中国の金融会社、アント・グループ。企業価値は2000億ドル(約21兆円)と期待され、トヨタ自動車の時価総額に並ぶ。10億人超が使う決済アプリ「支付宝(アリペイ)」が価値の源泉だ。

組織を支えるのは技術者を中心に約1万7千人。トヨタの連結従業員数約36万人を大きく下回る。豊かさを生む主役がモノからデータに移り、成長企業も大量の雇用を必要としない。一部の人材に富が集中し、低成長と格差拡大が連鎖する。

ウイルスは人の交わりを阻み、経済のデジタル化はさらに加速する。身動きできない人々の生活と命を守るため、政府の役割が重みを増した。

世界でコロナ対策の財政支出は10兆ドルを超え、国内総生産(GDP)比の規模は金融危機を上回った。経済協力開発機構(OECD)加盟国の政府債務のGDP比は109%から130%台に上昇する。「小さな政府」や「民の活力」といった成長を高めるための従来の前提はいったん脇に追いやられた。

 

民間の自由な発想なしに技術革新は生まれず、成長を育む女神の背中はいっそう遠のく。膨らんだ債務を平時の水準に軟着陸させることはいずれ各国共通の課題となる。そのとき問われるのは技術や制度を磨き直して少しでも生産性を高め、再配分が機能する成長の土台を築くことだ。

労働時間の半分以上を好きな場所で働ける法律を1月に施行したフィンランド。個々の能力を引き出す社会づくりは、オンラインでの遠隔勤務などコロナ危機への対応を柔軟に進めるうえでも備えとなった。労働生産性は約30年間で3倍に高まり、伸び率は主要7カ国(G7)を上回る。

マイケル・スペンス氏、ロバート・ソロー氏らノーベル経済学賞受賞者を含む約20人の世界の知性は08年、2年間の経済成長の議論を「公平性と機会の平等は持続的な成長戦略に必須」と結んだ。成長の礎は崩れていないか。危機をしのぐだけでなく、弱点を克服する奇貨とする。その先に未来を照らす女神がいる。

 

 

 


 

 

危機の先、成長か分配か 新浪氏と柳川氏が対論

 

 

 

危機の先の未来をどう描くか。経済の再生へ成長と分配のどちらに重きを置くか。サントリーホールディングスの新浪剛史社長と東大大学院経済学研究科の柳川範之教授に意見をぶつけてもらった。

 

新浪氏「今こそ生産性向上を」

にいなみ・たけし 1959年生まれ。81年慶大経卒、三菱商事入社。米ハーバード大学院で経営学修士(MBA)。ローソン社長を経て2014年から現職。経済界の論客の一人。

柳川氏「幸福感も経済の価値」

やながわ・のりゆき 1963年生まれ。大学入学検定試験を経て慶大経済学部の通信教育課程に。東大大学院で経済学博士、2011年に東大教授。学び直しへ「40歳定年制」提唱

 

――経済の再生へ成長と分配のどちらに重きをおきますか。

 新浪 各国は財政支出を増やして家計や事業、雇用を支えている。ウィズコロナの時代は「大失業」や「大デフレ」が起きる可能性がある。飲食業や航空業が以前の状態に100%戻るとは言いがたい。政府は新たな雇用を生み出し、労働移動を促す必要がある。 ニーズはある。医療や介護、教育はこれまで公的部門が中心に担ってきたため生産性が低い。ここに民間の力を入れて生産性を上げるべきだ。デジタル化の余地も大きい。民の力で産業化し、雇用を生み出すべきだ。

柳川 民間の中でもスタートアップの力を生かしたい。デジタル化によって、大企業のように巨大な設備を持たない若者でも低コストでアイデアを実現できるようになった。大きな発展を生み出す大事なポイントだ。 分配政策の発想も転換してはどうか。これまで現状の生活や事業を守るためにお金を使ってきた。今後は生活や働く場の変化を後押しすることも必要だ。お金を配って終わりではなく、新しいスキルを身につける若者が増える配り方が望ましい。成長につながる分配に知恵を使うべきだ。

 ――コロナ以前から長引く低成長など経済の構造が変化しています。

柳川 これまでは国内総生産(GDP)が伸び、お金が回ることを成長と捉えてきた。新型コロナを経験し、家族や地球環境、ワーク・ライフ・バランスなど多様な価値観の軸ができた。満足感や幸福感の拡大も含めて成長とみる社会がいい。デジタル化で多様な価値の指標化も可能になった。

 新浪 会社も変わらないといけない。会社が何のためにあるかを見つめ直す時代だ。会社の使命や価値観を社会が認めてくれなければ、良い社員がいなくなる。私たちの会社なら、プラスチックのリサイクルに対して何もしなければ、地球環境に関心の強い優秀な若者が来てくれなくなる。

柳川 地球環境やワーク・ライフ・バランスの重視を収益が上がらない言い訳に使ってはいけない。経済がしぼめば多様な価値観の実現も難しくなる。日本も『こういう方向に進めば人々が幸せになり、経済もうまく回る』というアジェンダを示すことが求められる。

 

 

柳川氏「学ぶ機会、政策の柱に」

新浪氏「既得権の打破欠かせず」

 

――新たな時代の政策の優先課題は何ですか。

新浪 教育の立て直しだ。特に日本の強みだった義務教育や高校教育に目を向けたい。子どもの面倒をみる余裕のない親が増え、このままでは貧困が世代を超えて連鎖してしまう。オンライン教育など新しいツールを使い、現場に合わせた教育に変えていくべきだ。分配政策の中で教育の占める位置は大きい。

柳川 親の世代の所得がないために十分な教育が受けられない問題は残念ながら現実にあり、機会の均等を確保するよう努めなければならない。それだけでなく、人生100年時代では社会人の学びや能力開発にお金を使うことも必要だ。 働きながら職業訓練を受け、独立や転職する動きがもっとあっていい。外に出て行くかもしれない人材の教育に企業が積極投資するのはなかなか難しい。だからこそ国が支援をして、スキルを高める機会を提供していくことが重要になる。

――社会保障の再構築も長年の課題です。

新浪 本来、解決しておくべきだった課題が新型コロナで一気に表面化した。たとえば医療はデジタル化をもっと進めなくてはいけない。日本ではデータはあるのに紙の形のままだから、人工知能(AI)による解析もできない。宝の持ち腐れだ。受益者のプラスになる形で個人情報を集め、データを活用すれば病気の予防にも役立つ。 社会保障の再構築は既得権益を壊すことが条件になる。オンライン診療ですら様々な抵抗を受けた。若者の中にはNPOなどを通じ「自分たちが公的部門に代わって社会保障をやる」との機運もある。こうした動きを経済界も応援したい。

柳川 日本は大きな危機にあうと変われる国民性を持っていると思う。第2次世界大戦後もそうだったし、明治維新もそうだ。世界が驚くスピードで大きな変革をした。ただし、本当に危機的な状況に陥らないと変化に踏み切れない面もある。変化しなければいけないという同調圧力が生じるまでは変われない。 ならば大きな危機を起こしましょうというのも残念な話だ。危機が起きる前に変わることが必要で、『変わることが素晴らしいよね』という方向に持っていくことが重要になる。

 

 

新浪氏「二等国への分岐点迫る」

柳川氏「手本なき多様性の時代」

 

――どうしたら日本は変われますか。

柳川 明治維新や戦後と異なるのはお手本がないこと。明治維新は欧州、戦後は米国という目標へ突き進めばよかった。お手本がない世界で必要なのはトライすることだ。スタートアップは100の挑戦をして1つか2つしか生き残らないかもしれないが、挑戦すればどこかに宝がある。いろいろな方向に弾を撃ち、穴を掘るしかない。

新浪 日本が変わるためのハードルはものすごく高い。お金の使い方にしても無駄なものがたくさんある。本当にいいものにお金を使い、悪いものはやめましょう、という選別を証拠にもとづいてしないといけない。 国のガバナンスのあり方も変える必要がある。参院は任期が6年もあるのだから、既得権益に対してあるべき姿を示せる本当の意味での良識の府になってほしい。日本はティッピングポイント(分岐点)、つまり二等国、三等国になるかならないかの瀬戸際にある。

柳川 日本人の多くは新型コロナで世界経済は大きく停滞すると考えているかもしれないが、そうではないと考える人も世界中で増えている。デジタル化や価値観の変化は新たなチャンスとなり、成長の芽が出る。中長期に世界が大きなチャンスに直面する可能性があり、日本もその流れを取り込む必要がある。

――新しい時代認識を象徴するキーワードを挙げてください。

新浪 新しい「人本主義」だ。人生100年時代なのだから早い段階から自分の人生を考え、リカレント教育を受けたり、新たな方向へ努力したりする態度のことだ。50歳を一つの定年と考えれば次の人生を30歳、40歳のときから考え、勉強する意欲が出てくる。

柳川 多様性が圧倒的に重要だ。多様な価値観の人と会うことが新しいアイデアを生む。日本は同質的な人とばかり話をしすぎる社会だ。同じような経験をたどってきた同じような年齢の人たちとだけ会話し、広がりがない。国籍も性別も価値観も異なる人と会うことでしか得られない知識や情報がある。

 

 

 

考える力が未来を拓く 編集局長 井口哲也

 

リーマン・ショックに新型コロナウイルス大流行――。100年に1度という危機が今世紀に入って2回も起きました。民主主義と自由主義経済の勝利といわれたベルリンの壁崩壊から30年余り。ナショナリズムや独裁主義が世界で再び増殖し、経済の体温計ともいわれる金利は前例のない低水準に沈んでいます。

20世紀からの延長線上にはない不連続の時代。特に人類の不意を襲ったコロナ危機は世界に長く深い傷を残しそうです。

国際通貨基金(IMF)は6月下旬時点で、2020年の世界の経済成長率がマイナス4.9%と、1930年代の大恐慌の時代以来の落ち込みになると予測。経済活動が停滞し、21年も含む2年間で1300兆円の経済損失に見舞われると指摘しました。世界の国内総生産(GDP)の15%近くが吹き飛ぶ計算です。

幸い、各国が雇用維持や企業救済などを目的に巨額の財政出動を実施したことで経済の底割れはなんとか回避され、金融市場も今は落ち着きを取り戻しています。しかし、実際は問題を先送りしたにすぎません。

大規模な財政支出の結果、各国の政府債務は急膨張しています。20カ国・地域(G20)のうち日米欧などの先進国の公的債務は今年、GDP比で141%まで膨らみ、1945年の第2次世界大戦時(116%)を大きく上回る規模となります。世界はそのツケを長い年月をかけて支払っていかねばならず、その重荷は私たちにのしかかってきます。

経済の低迷が続けば、リーマン危機後に世界的な問題となった富の偏在は一段と深刻になるでしょう。そうした不満に乗じるナショナリズムやポピュリズム、独裁主義のさらなる拡張を招くかもしれません。

「われわれが恐れなければならない唯一のものは恐怖そのものである」。大恐慌のただ中の1933年に米国大統領に就いたフランクリン・ルーズベルトはその就任演説で国民にこう語りかけました。

同じ年、大西洋を挟んだドイツではアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、権力の座につきました。第1次大戦敗北の後遺症と大恐慌のダブルパンチに絶望を深めていた国民の恐怖心に巧みにつけ込み、反ユダヤ主義という不満のはけ口を示すことでドイツを掌握。世界を大混乱に巻き込みました。自著の「わが闘争」に記した「大きな嘘ほど信じられやすい」というヒトラーの言葉は、反移民や自国第一主義を掲げて世界各地で台頭する現代のポピュリスト政治家に不気味に共通しています。

悲惨な歴史を再び繰り返さないために私たちは何をすべきでしょうか。明るい展望を描ける社会をどう築けばいいのでしょうか。恐怖に立ちすくむだけでは激流にのまれかねません。問題の原因はどこにあるのか、どうすれば克服できるのか。それを考え抜き、活路を見つけていくことが恐怖から逃れる唯一の道ではないでしょうか。「考える力」が未来を拓(ひら)く。みなさんとともに考えたいと思います。

 

 

 


 

 

経済覇権、150年ぶり交代 競うのは主義でなく賢さ

 

 

人類共通の課題を一つの国だけですべて解決できると思いますか――。

「中国のワクチンができたら優先配分してほしい」。フィリピンのドゥテルテ大統領は7月に「米中のいずれとも対峙するつもりはない」と表明し、中国による南シナ海での軍事施設を容認する姿勢を示した。中国外務省報道官はすぐに「賛同する。ワクチンも優先的に考慮する」と応じた。

フィリピンが米中を露骨にてんびんにかけるほど、新型コロナウイルスによる危機は秩序転換の流れを速めている。国際通貨基金(IMF)によると、国内総生産(GDP)を物価水準でならした購買力平価ベースで、中国を中心とするアジア新興国の経済力は2020年に米国を中心とする先進国を追い抜く。150年ぶりの逆転で、コロナ前の予測より1年早まる。

米中両大国は危機に連携するどころか、対立を深めた。米国のコロナによる死者は18万人を超えた。その隙を突き、中国は香港の言論を封じ、南シナ海で実効支配を強めた。米英は次世代通信規格「5G」から中国の通信機器最大手、華為技術(ファーウェイ)の排除を決めた。ドイツ銀行の試算によると、米中を中心にデジタル分断の代償は供給網の見直しなど今後5年で約370兆円に上る。

アダム・スミスは「市場の広さが分業を制限する」と市場が大きいほど分業で生産性が上昇し、成長する経済を描いた。繁栄の礎であるグローバル化は今、危機にある。第2次世界大戦後の10%から21世紀に60%台まで上昇した世界のGDPに対する貿易額の比率は、2020年に37%と冷戦終結時の水準に下がる。

では大国の対立が世界を再び二分するのか。現在の世界はそれほど単純ではない。デジタル空間と供給網で複雑に結ばれ、各国の相互依存は深い。政治体制にかかわらず、データや技術を使いこなす「ミドルパワー」も存在感を高めた。

「経済をコロナ前より強くする」。ニュージーランドのアーダーン首相は訴える。早々に都市封鎖を断行し、企業の給与支払いを肩代わりする対策などで失業率をコロナ前と同じ4%台に抑えた。企業の要望などを集約するデジタル政府の仕組みを政策に生かす。

フィンランドは医療機関の電子データを統合した知見から、簡易診断情報に基づき感染拡大の兆候を示す地図を随時公表している。世界銀行の指標をみると、感染対策の成功例とされる韓国や台湾は08〜18年に「政府の効率性」や「法の支配」が大きく改善した。

日米中欧など50カ国超の官民有識者は7月から議論を重ね、新型コロナの陰性データをアプリで相互認証する道を探る。主導するのは世界経済フォーラム。事務局の須賀千鶴氏は「陰性なら移動できる『パスポート』」と話す。国家対立を乗り越え、移動の自由を自ら守ろうとする動きだ。

「人類は歴史上、初めて同じ問題に立ち向かう」。ノーベル文学賞を受賞したトルコ人作家、オルハン・パムク氏はこう話す。私たちは世界中の成功や失敗を即座に比較できる現代を生きる。イデオロギーでは命を救えない。大国の時代は終わり、統治の賢さを地球規模で競うときにある。

 

 

 


 

 

自由を守るための不自由 再生迫られる民主主義

 

 

自由か、安全か。あなたは自ら選択する重みに耐えられますか――。

ノルウェー西部でホテルに勤めるペア・トルスハイムさんは5月、スマートフォンに1カ月前にダウンロードしたばかりのアプリを削除した。「私のプライバシーが守られているのか疑わしかったからです」

エルナ・ソルベルグ首相が「私たちの自由を広げる大いなる一歩」と外出制限の緩和とともにダウンロードを促した。個人の居場所を全地球測位システム(GPS)と近距離無線通信ブルートゥースでつかみ、新型コロナウイルスの感染者が近くにいなかったか追跡する。日本を含め多くの国が採用する手法だ。

データ保護当局が「個人情報の収集とその保存手段を精査する」と表明し、アプリを嫌がる人が増えた。プライバシーを守る仕組みを理解する余裕がないまま移動の自由を実現する「条件」を突きつけられ、市民は不安と反発を抱いた。

民主主義の歴史は民衆が手を携えて国家権力からの自由を求めた闘争史でもある。コロナ禍によって都市封鎖や外出制限が日常となり、個人の自由か、公共の秩序かという選択を日々迫られるようになった。

「自由主義の父」であるジョン・ロックが17世紀に「自分のやりたいように振る舞い、好きなように生きるのは自由ではない」と説いたように自由と責任は表裏一体だ。21世紀に入り、デジタル技術が自由を広げる一方、無責任もはびこり、かえって表現の自由が縛られる矛盾が深まった。

「コロナ禍で信頼できる情報を見極めるには科学者、記者、市民らと協力する必要がある」。米グーグルは4月、総額650万ドル(約7億円)の資金支援を表明した。対象は情報の信ぴょう性を確かめる「ファクトチェック」を手掛ける有志団体。米フェイスブックも競うように資金を出す。

米デューク大によると、ファクトチェックのサイト数は世界で290と1年前から5割増えた。トランプ米大統領の差別や暴力をあおる発信にも警告表示が付き、いらだつトランプ氏はSNS(交流サイト)規制を強化する大統領令に署名した。言論の自由を守るためにSNSが自ら自由を縛る矛盾が深まった。

2016年の米大統領選挙にはロシアのハッカー集団が介入した。ハンガリーやポーランドでは政権がメディア支配を強めるなど強権体制を着々と固め、冷戦時代に自由を求めた国々で自由が色あせている。

自由と民主主義を守るのは簡単ではない。世界が大恐慌に苦しんだ1930年代、意思決定に手間取る民主主義は危機の時代にそぐわないとみられ、ファシズムや共産主義の台頭を許した。ナチズムに傾倒していくドイツを考察した社会心理学者エーリッヒ・フロムは41年、自由でいる責任に耐えかね、逃げだしたくなる人々の心理を「自由からの逃走」で読み解いた。

「パンデミック(世界的流行)は目覚まし時計だ」。マサチューセッツ工科大学(MIT)のダロン・アセモグル教授(政治経済学)は危機に直面した人類が共通の課題を再認識することを期待する。自由と民主主義という価値をどう守るか。目の前にある問いだ。

 

 

 


 

 

その利益、社会に役立つか ふるいにかけられる官民

 

 

あなたの会社の存在意義は何ですか――。

「従業員に有給休暇を」「健康と安全を最優先せよ」。新型コロナウイルス禍を機に、19世紀の労働運動をほうふつとさせる声が強まっている。声の主は機関投資家だ。この声明には世界最大級のヘッジファンド、マン・グループなど330を超える投資家が署名。運用資産は計9.5兆ドル(約1010兆円)と世界全体の約1割に達する。

ドイツでは賃金の肩代わりなど政府支援を受けながら配当しようとした企業を政治家や一部の投資家が批判した。アディダスは無配、BMWなどは減配を決めた。

株主利益の最大化に向け効率を高める――。1970〜80年代から世界を覆ったのが「ワシントン・コンセンサス」に代表される市場原理主義的な動きだ。製造業は利益を追求することで、結果として設備投資や雇用も増え社会は潤った。

 

だが経済の主役は雇用吸収力が限られるIT(情報技術)企業に移った。利益の多くが配当で還元され、富は偏在した。「世界不平等データベース」によると、米国の国民所得で上位1%の富裕層が占める割合は80年の11%から、足元は20%超と40年代前半に戻った。

コロナ禍での貧困層の罹患(りかん)率や失業率の高さを通じ、ひずみは鮮明になった。日本投資顧問業協会の大場昭義会長は投資家の変化の背景を「社会課題と経済を両立しないと、ともに持続できないことが明確になったため」と話す。

ESG(環境・社会・企業統治)の国際団体「世界持続的投資連合」によると、ESG投資の規模は2018年で約31兆ドルと2年で3割増えた。世界最大の機関投資家、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の宮園雅敬理事長は「企業や投資家が社会にとって必要か、存在意義が改めて問われている」と説く。

8月末、米株式市場のダウ工業株30種平均の構成銘柄から石油メジャーのエクソンモービルが外れた。20世紀の大量消費型経済の象徴に代わり選ばれたのがセールスフォース・ドットコムだ。

クラウド事業が好調な同社は別の顔を持つ。マーク・ベニオフ最高経営責任者(CEO)は「成功と善行の両立」を提唱。自社株式や社員の就業時間などの1%を非営利団体の支援に充て、約20年間の寄付額は4億ドルに迫る。コロナ禍では5千万個以上の個人用防護具を世界の病院に配った。

胎動はあった。米経営者団体「ビジネス・ラウンドテーブル」は19年8月、株主第一主義を転換し、従業員、顧客、地域にも配慮する「ステークホルダー(利害関係者)資本主義」を宣言した。

経営学者ピーター・ドラッカーは93年の著書で「ポスト資本主義社会を規定し、組織する原則は、『責任』である」と説いた。コロナ禍対応で各国も歳出を膨らませ大きな政府へ動く。中身が社会に資するか厳しく問われるのは国家も同じだ。

資本主義は危機に直面すると新たなうねりが強まる。約90年前、世界恐慌を契機に国家が積極介入する修正資本主義が現れた。今のステークホルダー重視の潮流は国家だけに頼らず社会全体で持続可能な富の再配分の仕組みを模索する。新しいモデルを確立できるか。資本主義の強さが試される。

 

 

 


 

 

組織頼みから個の時代へ 自分の価値を自問する

 

 

この危機の時代に、あなたは何を頼みにして生きていきますか――。世界で7億人が利用するビジネスSNS(交流サイト)の米リンクトインが提供するオンライン講座。新型コロナウイルスの第1波が各国を襲った3〜5月に、世界中の視聴時間が直前3カ月と比べて2.4倍に急増した。

新型コロナの感染拡大で企業は傾き、仕事中心の価値観も揺らぐ。外出制限下でスキル磨きを始める人は増えた。

米KBVリサーチは世界のデジタル教育市場に関し、2020年の86億ドルから年率約30%で成長し、26年に480億ドル規模になると予測する。

米マイクロソフトのナデラ最高経営責任者(CEO)は「変化のなかで、人々は新しいスキルを習得し機会を広げることに飢えている」と語る。

日本では在宅勤務が本格化したのを機に副業に挑戦する人が増えた。緊急事態宣言が出た4月、テレワーク派遣のイマクリエ(東京・港)にはそれまでの3倍を超える副業などの応募があった。志望動機は収入減を補うためや自分が成長するためなど様々だ。

一方で多くの働き手が苦境に追いやられた。国際労働機関(ILO)によると、4〜6月の世界の労働時間は昨年10〜12月と比べ14%減った。フルタイム労働者4億人分に相当する。

 

100年前、大流行したスペイン風邪で亡くなったマックス・ウェーバーは著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、勤勉に働くのを是とする倫理的な環境が西欧資本主義の原動力になったと説いた。

現代、同じ時間帯に満員電車で通勤し、オフィスに集まり、会議を重ね、遅くまで残業する。そんな「当たり前」が突然「不要不急」とみなされ、労働時間は勤勉さの指標ではなくなった。

多くの人が自分の価値を自問し始めている。シンガポールの航空会社で副操縦士を務めていた日本人男性(36)もその一人。3月下旬に全便が運休となり、4月に退職を勧告された。帰国後、生活のためにウーバーイーツの配達員を始めた。

ウイルスを前に操縦士免許や9年の操縦士歴も無力だった。業界復帰に向けて「人間性を磨き、付加価値の高いパイロットをめざす」と話す。

製造業中心の発展で生まれた分厚い中間層。享受してきた豊かさはデジタル化の進展に伴い、急激に細った。コロナ禍で増幅した不満やいらだちが反移民などの排外主義に向く。世界の混乱は価値観の断絶を映す。

企業に所属するだけで豊かさの恩恵を被ることができる時代は終わった。断絶をあおるのでなく、変化が不可逆的だと理解し、時代に合った価値観へのシフトを促すのは政治の役割だ。

突然のウイルスは特定の組織や価値観との結びつきに依存する社会のもろさを露呈させた。一方で自身の強度を高め、身近な人たちとの新たなつながりを求めるなど個のポートフォリオの組み替えも始まる。

ペストの流行が個性を花咲かせたルネサンスにつながったように、不透明な時代を主体的に生きる強靱(きょうじん)さをどう身につけるか。自分が生き抜くよりどころを増やすためにも、新たな挑戦を始めるしかない。

 

 

 


 

 

新たな「都市像」描けるか 人口集中から知の集積へ

 

 

あなたは大都市で生活したいですか――。

「経済発展は都市から始まる」。米国出身の女性ノンフィクション作家、ジェイン・ジェイコブズは都市を起点とする成長が国家全体に波及すると説いた。18世紀に始まった産業革命で都市にはヒトやモノ、カネが効率的に集まり、繁栄をけん引してきた。いま、この都市への集中による発展モデルが揺らいでいる。

 

国連によると、1970年時点で145だった世界の人口100万人以上の都市は、2018年には548に増えた。1千万人以上のメガシティーも30を超える。

新型コロナウイルスは人口1千万人以上の中国の武漢市で発生したとされ、ニューヨークやパリ、東京などを直撃した。人々が密集することを前提とした大都市のリスクが露呈した形だ。

歴史的にも、都市の発達と感染症の関係は深い。14世紀に流行したペスト(黒死病)は欧州人口の3分の1を死に追いやった。約100年前にはスペイン風邪が4000万ともいわれる人々の命を奪った。

これほどの犠牲を払っても経済効率を優先し、人々は都市での生活を選んできた。今や世界人口78億人のうち40億人以上が都市に住む。長谷川真理子・総合研究大学院大学長はこうした現状を「人類史上の異常な状態」と表現する。

郊外に住む人々が都市の高層建築物の中で働く現在の都市モデルは、米国で20世紀に発展した。立ち並ぶ高層ビル群は経済成長の象徴とされ、世界の主要都市がこぞって取り入れてきた。新型コロナはこのモデルに疑問を投げかけた。建築家の隈研吾氏は「高層都市は時代遅れになった」と指摘する。

企業の動きにも、こうした見方がにじむ。東京都心の大型オフィスの空室率は足元で1%以下だが、不動産サービス大手シービーアールイー(CBRE、東京・千代田)の坂口英治社長は「1、2年で5%に上がる可能性も否定できない」と話す。社員が一堂に会するオフィスが必要か、企業は考え始めた。

6月下旬に再選を果たしたパリ市長のアンヌ・イダルゴ氏は「エコロジーで住みやすい都市に変革する」と宣言した。市内の6万台分の路上駐車場を削減し、代わりに自転車道や緑地の整備を進めるという。ニュージーランド政府も、市街地での歩道の拡張や自転車道の整備を打ち出した。

人口分散のアイデアは古くからある。ルネサンスの巨匠、レオナルド・ダビンチも欧州のペスト禍を経験し、人口の密集を防ぐ都市像を描いた。感染症が流行するたび、都市のあり方を見直す機運は高まった。

これまでとの決定的な違いはテクノロジーの存在だ。デジタル技術の発達で、どこにいても情報を自由にやりとりできる。狩猟、農耕、工業、情報という4つの社会に続き、仮想空間と現実空間が融合した「第5の社会」を迎えつつある。

「実際に対面しているみたいですね」。竹中工務店の研究員の梅津佳奈子さんは8月下旬、顔よりも大きなパネルに向き合って思わずこう漏らした。パネルは仮想現実(VR)のスタートアップ、H2L(東京・港)が開発した。2次元の透過ホログラムで姿を映し出し、「その場にいるような存在感を実現できる」(岩崎健一郎社長)。

事務的なやり取りにとどまらず、雑談も自由に交わせるのが特徴だ。銀行など10社以上が導入を決め、年内により現実に近い3次元のサービスを投入する考えだ。竹中工務店は建設会社としてコロナ後の働き方を模索するうえで、一つの可能性としてH2Lの技術の検証に取り組む。

従来のやり方にとらわれず、生産性を維持しようという試みが様々な国や企業で続いている。規模と効率を追求した都市の存在意義が問われている。新しい時代は、働く町も、国すらも選ばない世代が増えてくる。繁栄する力は人口の多さではなく、知をひき付ける求心力が左右する。知の集積が都市そして国家の競争力を決定づける。

 

 

 


 

 

ドイツに学ぶ「多極集中」の都市づくり 広井良典氏

 

ひろい・よしのり 旧厚生省を経て研究者に。2016年から現職。日立製作所との共同研究「日立京大ラボ」にも携わる。59歳

新型コロナウイルスによる危機をきっかけに世界は不連続の時代に入りました。あすはきのうの延長線上になく、古代ローマでパクスと呼ばれた平和と秩序の女神のいない世界が広がります。「パクスなき世界」のあすを考えるための視座をどこに置くべきでしょうか。公共政策が専門の広井良典・京大教授に都市が抱える課題などについて聞きました。

 

――新型コロナウイルスの感染拡大で、現代の都市のどんな課題が見えましたか。

「新型コロナはニューヨークやロンドン、パリ、東京などの超巨大都市でまず広がった。大都市は日本でいう『3密』の状態にあり、ウイルスが感染を広げるには格好の場所だ。今回のパンデミック(世界的流行)が巨大都市の集中性と深く結びついていることは明らかだろう」

「ドイツが欧州の中で相対的に感染被害が小さい理由の1つに分散型の国土、社会構造があるとみている。ベルリンやハンブルクなど人口数百万人規模の都市もあるが、全体としては中小規模の都市が分散的、多極的に存在している。比較的格差が小さいことや医療システムが機能していることなど他にも様々な要因が関係しているだろうが、都市のあり方を議論するうえで示唆するところがあるのではないか」

 

――グローバル化による人の移動も感染を広げる原因になりました。

「グローバル化をストップすべきだとは思わない。ただ、例えば国内のある地域の観光業が中国へのインバウンド依存をあまりに高めすぎると、今回のような事態の際に打撃も非常に大きくなってしまう。過度のグローバル化にはリスクもあるという視点に立ち、ローカル経済の価値も見直していくことが重要だ」

「ここでもドイツが参考になる。ドイツは地域内の経済循環が非常に活発で、地方の小さな都市も潤い、中心部はにぎやかだ。ローカルに根ざしているが、実は世界シェアナンバーワンといった中小企業なども多い。今回の新型コロナはローカルもうまく組み込んだグローバル化の姿を考えていくきっかけにもなったのではないか」

 

――日本は東京一極集中の弊害も指摘されます。今後の都市はどんな姿であるべきでしょうか。

「私が描くのは『多極集中』的な国土の構造だ。極となる場所が国土に広く分布し、中心部がにぎわい、経済循環が活発に行われる姿を志向すべきだ。決して夢物語ではない。1970〜80年代は日本も地方都市がにぎわい、商店街も盛んだった。80年代後半から、当時の通商産業省や建設省が道路と自動車を中心とする『郊外ショッピングモール型』の政策を進めた。米国型の都市・地域像をモデルにしたものだが、見事に地方都市は空洞化してしまった」

「政策を改めれば状況は十分、変わりうる。すでに札幌、仙台、広島、福岡などの人口が増え『少極集中』というべき現象が起きているが、もうすこし小さな規模の都市も人が増え始める兆しがある。若者のローカル志向も含め時代は変わりつつあり、今は分岐点だと思う」

 

 

 

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