時論・創論・複眼
ポスト安倍の政策課題とは(複眼)
鈴木一人氏/近藤絢子氏/砂原庸介氏
最長政権を率いた安倍晋三首相が突然、退陣を表明した。新型コロナウイルスの収束は見通せず、経済や社会が深刻な痛手を負うなかで「ポスト安倍」の新政権は難しいかじ取りを迫られる。各分野の専門家に優先的に取り組むべき政策課題と対策を聞いた。
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■対中、戦略的関係カギ 北海道大学教授 鈴木一人氏
すずき・かずと 2000年英サセックス大博士課程修了。筑波大准教授などを経て11年から現職。専門は国際政治。13〜15年に国連安保理の専門家パネル委員も務めた。
安倍政権の外交で一番評価すべきなのは安定性だ。歴代首相の多くは任期が短く、存在感や発言力が乏しかった。長期政権であることがこれほど外交に影響するものだということを如実に示した。
米国でトランプ政権が誕生すると、すぐに人間関係を築き、日米関係をしっかり安定させた。米国が環太平洋経済連携協定(TPP)を離脱した際には、多くの国が悲観的になるなか、安倍氏が主導して11カ国の枠組みで発効に持ち込んだ。トランプ時代の世界で、ルールに基づく国際秩序を維持する旗頭になった。
安倍氏は前任のオバマ氏よりトランプ氏とうまく付き合った世界でも珍しい首脳だ。日米同盟が日本外交の基軸であることは、誰が首相になっても変わらない。次期首相は仮にバイデン政権が誕生した場合でも、安倍氏のように柔軟性をもって対応すべきだ。
安倍外交でマイナスの印象が強いのはロシアとの関係だ。政権の一大目標として掲げた北方領土問題の解決と平和条約の締結は、あれだけ首脳会談を重ねてもうまくいかなかった。意思決定をめぐって経産省と外務省の間のパワーバランスが経産省寄りに傾いていた。経済協力を通じた平和条約締結という戦略がそもそも正しかったのか。抜本的に見直す必要がある。
一番難しいのは対中、対韓外交ではないか。日韓関係の悪化は文在寅(ムン・ジェイン)政権の問題でもあるのだが、元徴用工問題と日本による半導体材料の輸出管理強化で、双方とも落としどころが見えない状態だ。次期首相がある種の寝業みたいなものを使って、韓国が納得する解決策を出せるかが問われるところだ。
日中関係は相対的にはかなりよい状態だ。米中が悪くなると日中はよくなるという典型的なパターンができている。この日中間の「資源」をうまく使いながら、中国の海洋進出を抑止するような戦略的関係を構築できるかがポイントになってくる。
米国にとって米中関係は日米関係よりはるかに重要なテーマであり、日米の利害は必ずしも一致しているわけではない。日中関係はその文脈で処理すべきで、米国がどう言おうが日本にとって中国との関係はこうするという立場で考えるべきだ。これまでは米国の顔色を伺いながら、中国とやりとりしてきたが、そろそろ限界にきている。
安保政策では限定的ながら敵基地攻撃能力をもつことが適切かどうかという点が総裁選でも論点になるだろう。戦後、日本は攻撃的能力はもたないということが政策の軸にあった。その大転換を(地上イージスの配備断念に伴う)「ついで」のような形で議論するのは、望ましいことではないと思う。
経済安保の問題やサイバー攻撃への備えなどは、国民的な理解を深めていくことが求められる。民生用の技術と安全保障の境界がどんどん曖昧になっている。「これを売ったら日本の安全保障にかかわる問題になるかもしれない」と国民の認識を高めていかないといけない。
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■再分配、効率性が重要 東京大学教授 近藤絢子氏
こんどう・あやこ 2001年東大卒、09年に米コロンビア大博士。専門は労働経済学。横浜国立大准教授を経て20年4月から現職。学卒時の景気が将来の生活に与える影響なども研究。
働く人の取り分をあらわす「労働分配率」が低下するなど経済の構造変化が世界中で起きている。日本も低所得者をはじめ弱者への富の再分配を強化する必要があるが、制度設計は効率性も考慮すべきだ。多様な働き方の推進により10〜20年前に比べて正規労働者と非正規との間の壁が低くなるなど改善もみられる。ただ社会保障や保育では非効率な制度が残っている。
たとえばサラリーマン世帯の主婦などが夫の扶養家族となるため年収を抑えようとする「第3号被保険者制度」は撤廃すべきだ。女性が年収を増やそうとする意欲を損なうだけでなく、パートタイム労働が低賃金にとどまる温床ともなっている。撤廃に抵抗もあるだろうが、特に女性の賃金を長期的に引き上げるための決断が政治に求められる。
保育所の待機児童の問題も安倍政権下で一定の改善はみられた。ただ認可保育所の入所に夫婦共にすでにフルタイムの仕事を持つ層が有利である点は改善すべきだ。保育所には多額の公費が投入されているにもかかわらず、高所得者が多い共働き世帯が有利なのはおかしい。高所得世帯からの保育料を引き上げたり、失業世帯の入所を優遇したりするなどの工夫が必要だ。子供の預け先を確保してから職探しができれば、子育て世帯の所得向上にもつながる。
新型コロナ対策では現在、企業への休業補償などを手厚くすることで失業増を抑えている。しかし感染の流行が長く続けば、仕事のない業界から人手の足りない業界へと労働者の移動を進める必要が出てくる。その際には休業補償ではなく、失業給付を手厚くする制度に切り替えた方が移動が円滑に進む。短期的に失業率は上がるだろうが、必要な判断だと思う。
日本の財政状況は厳しく、新型コロナ対策でも優先順位はある程度決めなければならない。過去の実証研究に照らせば感染拡大を短く終わらせた方が経済へのダメージは小さく済む可能性が高い。このため資源が乏しい医療機関などへの支援は最優先すべきだ。国民への一律10万円の給付はスピードを確保するためにやむを得なかった。しかし再び給付をする状況が訪れたなら、所得が減っていない層から事後的に給付分を徴収する仕組みも必要となる。
安倍政権は経団連などを通じて企業に賃上げを要請したが、効果は大企業に限られ、中小企業にまでは波及していない。そもそも企業と労働者が経営環境に応じて決めるべき賃金水準に政府が介入するのは、突き詰めると計画経済になってしまう。政府の介入は最低賃金の引き上げなどにとどめるべきだろう。
中長期的には人工知能(AI)の普及で事務職など中程度の仕事の多くが失われるという問題も直視すべきだ。スキルを持つ高所得者とサービス業などの低所得者との二極化は、市場に任せても解決しない。再分配を強化すべきだが、単純に高所得者の課税を強化すれば経済活動のインセンティブを損なってしまう。公平かつ効率的な再分配に知恵を絞らねばならない。
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■過度の官邸主導是正を 神戸大学教授 砂原庸介氏
すなはら・ようすけ 2001年東大教養卒、同大博士(学術)。大阪市立大准教授、大阪大准教授などを経て17年から現職。専門は政治学、行政学、地方自治。
安倍政権は人口減少対策の一環として地方創生を進めた。多くの地域で人口を増やすモデルが打ち出されたが、人口指標に引っ張られ過ぎるのはよくない。新型コロナウイルス下では、適切で健全な密度の地域をつくることが重要になる。人が抜けてもダメージを受けにくく、持続可能性のある地域だ。
持続可能性を高めるには、自治体がその資産を活用して稼ぐ意識が必要だ。例えば水道事業でも一定の利益を確保する。それを原資に人や資産に再投資を続け、資産価値を継続的に上げていくことが重要だ。
コロナ対策では自治体間の連携の重要性が浮き彫りになったが、連携には障害が2つある。一つは合併した自治体の一体感が強固かどうか。自治という基盤がないと、外との連携に踏み出せない。
もう一つはきっかけだ。連携すれば得も損もあるが、内向きなだけの首長ではそうした関係を築くのが難しい。それをつなぐ役割を政党が担うこともある。大阪では大阪維新の会が連携の媒介になっている面もある。
国と地方の関係も再整理が必要だろう。コロナ対策で東京都が自分で特措法を解釈し、国に相談せずに決めようとしたら国が驚いた。
分権が進んで大都市の自治体は法令解釈権の行使を当然と考えるようになっている。コロナのように国が調整する必要があると考えるなら、「再集権」も含めて、国と地方の権限関係を整理すべきだ。
安倍政権は官邸が決めやすいよう意思決定過程をカスタマイズした。政権として実行すべき課題があり、それを決定しやすい形に変えるのは当然で理解できる。ただあまりにカスタマイズしているのでこれを次の政権がそのまま使うのは無理だ。
本来は官邸が政策の外縁を整え、省庁に委任すべきだ。省庁をまたぐ課題であっても、省庁の組織を変えて仕事をさせるのが省庁制の基本だ。
だが安倍政権は重要課題をみな内閣府、内閣官房に上げ、情報を省庁でなく官邸のトップばかりが蓄積する政権だ。余人をもって代えがたくなり1人欠けると動かなくなる。それを避けるためにも省庁組織に委任するのが妥当だ。
ただ各省庁に委任できない背景に霞が関の専門分化が進んでいないこともある。コロナ対応でも逐次特例的な異動で人を持ってきている。人を効率的に回すことはできるが、専門能力は蓄積できない。
多くの国は省庁の局長や課長が人事権と財源を持ち、人材を集めて組織の専門性を高めている。内閣人事局を通じて官僚が官邸を向くようになったこと自体は悪くないが、組織的な専門能力が不十分だと、ただ政治の正統性に従うだけになりかねない。
安倍政権は人事権や財源を官邸が握り、官邸の都合に合わせて動員できるようカスタマイズした。この仕組みを動かしてきたのが官邸官僚の属人的な人間関係で、代わりは利かない。新政権は混乱が避けられないだろう。
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<アンカー>対コロナ、優先順位つけて
体調不良が直接的な退陣理由とはいえ、息切れが目立っていた安倍政権は新型コロナという伏兵にとどめを刺された格好だ。新政権は発足の瞬間から、まずはその戦いを引き継ぐことになる。
対コロナの戦線は感染の封じ込めから景気、雇用、デジタル化まで気の遠くなるような広がりをみせる。それを一手に引き受けつつ、少子高齢化や財政再建などゆだねられた課題に挑み、米中対立のはざまでの外交や安保情勢にも目配りしなければならない。
これだけ基盤が盤石だった政権ですら難渋した壁をどう乗り越えればいいのか。容易な解などもちろんない。優先順位をつけて政治資源を投入し、小さくても成果を積み上げることから始めるしかないだろう。行き詰まった課題のなかには、リセットでしか解決できないものもある。