ネット時代のお墓

 佐々木閑

 

 

私の父は癌(がん)で亡くなったが、幸いなことに最期はずっと家で過ごすことができた。居間のベッドで横になった父のそばにはいつも母がいて、普通にくらしていた。私たち子どもや孫たちもしょっちゅう傍に来てあれこれ世間話などして、明るい病床であった。死期を悟った人が臨終を迎える場としては、最上の環境だったと思う。

 

私の母はバレーボールが大好きで、世界大会で日本が出る時などは、我を忘れてテレビにしがみつく。みんなでくつろいでいたら、日本が逆転負けしそうな試合を見ている母が、「ああ、しっかりして。もうだめ。あかん。もうだめだわ。おしまい」と大声で叫んでいる横で、父親が、はーはー息をしながら天井を見上げていた。これは果たして、憂うべき場面なのか笑うべき場面なのか対処に困ったが、それくらい普通の状況に身を置きながら逝くことができた父がうらやましい。

その父は生前、お世話になった人たちにビデオレターを残した。「何々さん、生前いろいろお世話になりました。ありがとうございました」と丁寧にカメラの前で頭を下げる、そんなビデオが5、6時間分である。それを見て、「ああ、これは父のお墓だ。父親は今、自分のお墓を造っているのだ」と分かった。

人は死ねば、思いを他者に伝えることができなくなる。死後の世界があるかどうかはともかく、死を境にして、生者の世界との情報ラインは断ち切られ、生者たちからは「故人」として忘れ去られていく。そんな死後の寂しさを思うと、なんとか、今生きているこの世界との繋がりを保っておきたいと願うのは当然の情。

昔なら、そのための唯一の方法は、一番長持ちする素材である石に、名前や生年月日や生前の業績などを刻んで残すことだった。そして本人の形見としてそこに遺骨を入れる。つまり墓である。お墓は、「私はここにいます。この墓を通して、死んだ私と生きているあなたたちがつながっているのです」という、大事なメッセージの場であった。だから今でも多くの人は、「死んだら墓をどうしよう」とか「私の骨はどこそこの墓に入れてくれ」などと墓の心配をする。墓は、亡くなった人と、生者の世界とが交わる、唯一の情報伝達基地だったのである。

そう思うと、父親のビデオレターは、新たな情報化時代の墓である。顔や声やしぐさも含めて、父という存在が「実在物」として後に残る。それを見れば、100年後でも、父親の思いが見る人に伝わる。私の父は、ビデオという、石よりも耐久性のある墓に今もいるのである。

そして次は当然、私たちの世代。いうまでもなくネットが墓だ。そこには一人ひとりの膨大な情報が蓄積され、検索一回でそれが集められてその人の在りし日の実像が浮かび上がる。これは便利だが、恐ろしいこともある。お墓やビデオレターのように、本人が残したい情報だけを選別して残すことができない。本人の思いに関係なく、良い情報も悪い情報もすべてが残る。思いやりのフィルターがない、残酷な墓である。だから、後世の人から軽蔑されるような墓を残さないためには、日々軽蔑されないような暮らしをするしかない。日々の暮らしがそのままお墓になっていく重苦しい時代。ビデオレターの中の笑顔の父を見て、ますますその最期がうらやましく思われる。

(仏教学者)

 

 

 

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