[社説]

 

政と官の適切な距離を保つには

 

 

衆院に小選挙制を導入することなどを柱とした政治改革関連法が成立して四半世紀あまり。政府の意思決定が「政治主導」「官邸主導」になったことで、政治家と官僚の力関係は大きく変化した。政と官の距離を適切に保つにはどうすればよいだろうか。

 

森友学園への国有地の不明朗な売却とその隠蔽は、政と官の関係のひずみを印象づけた

 

森友学園への国有地の不明朗な売却とその隠蔽は、政と官の関係のひずみを印象づけた

「忖度(そんたく)」がユーキャン新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれたのは3年前のことだ。すぐ消える流行語が多いなか、この単語はなおよく耳にする。

 

政治主導は間違いか

出世しか頭にない官僚が、政治家の機嫌をとるため、行政システムをゆがめてまで便宜を図っている――。こうしたイメージが広く定着したからだろう。森友・加計問題などで揺れた安倍政権が続く限り、実際に不正が行われているかどうかにかかわらず、国民の見方は変わるまい。

では、以前のような官僚主導の政治体制に戻せばよいのか。ことはそう単純ではない。日本の政治家は権力闘争にばかり明け暮れ、政策選択は霞が関に丸投げというタイプが多かった。権力を掌握した官僚は次第に省益の拡大に走るようになる。

財政再建のため、省庁の予算を一律にカットするマイナスシーリングに踏み切ったのは1980年代初めのことだ。必要な予算と不要な予算を仕分けする能力が政治家になかったので、省益の現状維持を保証したうえで官僚に協力を求めたわけだ。官僚主導のもとではメリハリのきいた政策選択は無理である。政治主導そのものは否定されるべきではない。

では、行き過ぎた忖度が目に付くようになった原因はどこにあるのだろうか。

最大の要因は、政治の機能不全だ。2000年代に本格化した公務員制度改革は、政権交代可能な二大政党制が前提だった。政策選択の評価は、事後に選挙で問う。事前に官僚が体を張って止める必要はないという考え方だ。

麻生内閣で人事院の有識者会議がまとめた報告書は、公務員教育において「政治に従うことに向けた育成を適切に行うことがとりわけ重要である」と記した。

政治主導の時代において、政治が暴走したとき、それを止めるのは官僚でなく、有権者の役割であることを再確認したい。

官僚が出世を気にするようになった背景には、政治主導以外の要因もある。一例を挙げれば、天下り規制の強化だ。かつての役所は多くの天下り先を持ち、退職した幹部に割り振った。大臣と対立して次官や局長になり損ねた官僚にもそれなりの「第二の人生」があった。言いたいことを言う方を選ぶ人もいたわけだ。

天下り天国の復活はできないので、正論を吐く公務員が極端な左遷をされない歯止めがいる。内閣人事局は人材選考の平等性や透明性を確保する組織として考案されたのに、逆効果になっている。人事院の公平審査制度を利用しやすくするとともに、検察審査会のような組織の新設も一案だろう。

公務員が割に合わない仕事であるとの認識が若い世代に広がったことで、一流大学では近年、霞が関志望の学生が激減している。学歴イコール優秀とは言えないが、役所の事務処理能力の低下を憂える声はかなりある。

 

立場を使い分けるな

先の通常国会で検察庁法改正案が廃案に追い込まれた。ときの政権の判断で特定の検察官の役職定年を最大3年間延長できるとの規定が「忖度をますます助長する」と批判された。

審議の過程で、定年延長を判断する基準を示すと答弁したこともあり、内閣人事局は先日、「人事評価の改善に向けた有識者検討会」を立ち上げた。法案再提出に向けての布石とみられている。恣意的な人事がなされない基準が打ち出されるのか。議論の行方を注視したい。

「官邸官僚」という存在にも触れておきたい。ときの政権に気に入られて首相官邸や内閣官房のようなところで働く官僚のことだ。政策選択を超え、政治家が担うべき政治判断の領域まで踏み込んでいる事例もあるようだ。

政治主導の一翼を担うのであれば、ふつうの公務員としては辞表を出し、政治家と同じ特別職公務員の立場で政権に参画すべきだ。ところが、政権の中枢で働いたあと、再び出身省庁に戻る場合が少なくない。これでは政と官の適切な距離を保つことはできない。選挙の洗礼を経なくてよい官僚が政治判断を仕切るのは、政治主導の理念にも反する。都合よく立場を使い分けないでもらいたい。

 

 

 

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