Deep Insight
解なき時代の科学と政治 限界踏まえ対話を
新型コロナウイルスの感染拡大で科学の存在感が大いに増した。今こそ政治や社会が科学とともに歩まなければ、長丁場のたたかいはおぼつかない。
「昔の政事に祭り事が必要であったと同様に文化国の政治には科学が奥底まで滲(しん)透し密接にない交ぜになっていなければ到底国運の正当な進展は望まれず、国防の安全は保たれないであろうと思われる」(「自由画稿」)
1935年、物理学者で随筆家としても著名な寺田寅彦が「政治と科学」と題した論考にこう記している。コロナ禍で米国やブラジルのように科学を軽んじ忌み嫌う為政者の国で人的被害が広がる現状をみると、85年たっても色あせない洞察力の深さを実感する。
再び流行が始まった日本だが、これまで感染者数は世界に比べて低く抑えられた。にもかかわらず、政府のコロナ対応への評価はあまり芳しくない。その理由の一端も政治が科学をうまく取り入れていないからのようにみえる。
リスクを評価するのが専門家の役目。評価をもとにリスクへの具体策を練るのが政治の仕事だ。だが「3密」回避の策からコロナとの共生を打ち出した「新しい生活様式」まで、国民に訴え存在感を示したのが、新型コロナ対策専門家会議の科学者たちだった。
座長を務めた国立感染症研究所長の脇田隆字氏は6月下旬の解散時に「危機感から前のめりになった」と、専門家会議が前面に出すぎたことへの反省を述べた。が、責任をとりたくない政治に「専門家」という権威がうまく利用されたともいえる。
政治と科学の距離はかくも遠い。情の世界で動くのが政治の世界でもある。政治学者の宇野重規・東京大教授は「政治家は科学的思考を大切だと思っていない。科学に対して結果が役立つのかどうか、敵対的かフレンドリーかで判断する傾向がある」という。
コロナ禍のような非常時での政策決定には、科学的思考がとても重要になる。未知の危機の前では誰も正解をもたない。間違うこともあるだろう。
そのとき、正しい方向への修正を可能にするのは客観的なデータと分析だけ。後から検証する際にも必要になる。論理性や合理性、透明性にもとづく科学は、本来は民主主義と相性がよいはずだ。
科学者側にも問題はある。4月半ば、人と人との接触「8割減」を提案した西浦博・北海道大教授が「対策を何もしなければ国内で40万人強が死亡する」との試算を発表。すぐに菅義偉官房長官が「一専門家の説明で公式見解でない」と火消しに回る一幕があった。
政権が慌てて打ち消すほどのショッキングな数字を、勝手に記者会見を開いて発表してしまう姿は政治の仕組みにあまりにも不慣れでナイーブと映った。政治や行政が聞く耳を持たなかったためかもしれない。だが、試算の根拠をデータや数式モデルで示して粘り強く説得を続け、国民と危機意識を共有するよう促すのが筋である。
専門家会議は使命感からとはいえ、法的根拠のない立場で約4カ月、影響力あるメッセージを発信し続けた。これでは政策責任の所在がみえなくなる。
パンデミックに対しスウェーデンは日常を変えない「集団免疫」戦略をとった。高齢者を中心に当初、大勢の死者を出した政策は、世界から批判を浴びた。だが、自国民からの信頼は変わらず厚い。公衆衛生庁の責任者でコロナ対策を指揮する疫学者が連日のように記者会見し、最新のデータを使って丁寧に説明する。政治と科学がうまく結びつき、適切なリスクコミュニケーションが貫かれる。
ドイツでも物理学者であるメルケル首相自らが政治と科学との「懸け橋」となり、社会に政策をわかりやすく伝えた。
科学とは絶対に正しいものではなく、実は最も確からしい知見の集まりにすぎない。ニュートンは17世紀後半、物理学の基本体系を構築した。が、その後、20世紀に登場したアインシュタインの相対性理論で一部を否定された。この相対性理論ですら未来永劫(えいごう)に正しいとは限らない。
新型コロナで日々、公表されるたくさんの研究論文も、あくまで発表段階で蓋然性が高い仮説にすぎず、薬の効果をめぐって正反対の結果がでることもある。
米の核物理学者、ワインバーグが1970年代に「トランスサイエンス」という考え方を提唱した。科学で問うことはできても、科学だけでは答えを出すことはできない「科学の限界」を指す。
確かに21世紀以降、こうした領域が広がっている。未知の感染症だけでなく、地球温暖化や異常気象、人工知能(AI)、生命工学の脅威などである。正解を追求しても科学者の間で意見がわれる。温暖化懐疑論のような誤った考えの温床にもなる。トランスサイエンス領域に対処するには科学だけに頼ってはだめ。科学者も政治や社会と対話をしながら最適解を探る必要がある。
政治や社会が先の読めない未来社会に立ち向かうには、科学の本質を正しくとらえ、その力をうまく使いこなさなければならない。科学の知識ではなく考え方や限界を知る「科学リテラシー」を積極的に高める時だ。
科学者も「難しいことは説明してもむだ」と高をくくらず、データをよりどころに根気よく説く責任を果たす。社会に貢献するという重責を自覚すべきである。