NIKKEI The STYLE
万葉集から斎藤茂吉まで、恋の文でたどる思い
「相聞」。互いの安否を気づかい、消息を尋ねることだ。恋慕の情を詠む和歌のジャンルともなっている。人と人との距離が開きがちな今だからこそ、恋の歌や文の歴史をさかのぼり、やり取りを通じた人もようをたどってみたい。ちなみに現代の相聞には、こんな類いもある。1970年代に内田裕也さんが妻の樹木希林さんに送った。「この野郎、テメェ。でも、本当に心から愛しています」
恋は「孤悲」 歌に心を昇華させ
「古寺巡礼」などの著作で知られる哲学者の和辻哲郎(1889〜1960)は、古事記や万葉集の編さんされた上代の日本人について、こんなことを言った。「恋愛は彼らにとって生の頂上であった」
そして、こう続けている。
享楽に対して新鮮な感受性を持ったがゆえ、それが失われる悲哀にも鋭い感受性を持った――。
最古の歴史書、古事記の最初の歌謡は「妻ごみに八重垣作る」などと歌う。愛する女性のために幾重もの垣根をこしらえる、との意味。祝い歌であり、大切に思うとのメッセージだろう。
その後、表現の様式が整うようになり、より多くの語彙や、おおらかなリズムに率直な心情を乗せた相聞歌の傑作が生まれる。
ここでは万葉集の中に計84首が収められた希代の女性歌人、大伴(おおともの)坂上(さかのうえの)郎女(いらつめ)の歌をいくつか取り上げたい。
彼女は「令和」の生みの親ともいえる大伴旅人の異母妹にあたり、長じては著名な歌人を輩出した一族の家政を取り仕切ったとされる。大伴氏の邸宅は東大寺の北側、一条通にあった。
まるで、思う相手に直接語りかけるような作風には、日常の中の恋の駆け引きやさや当ての様子も垣間見える。 〈汝(な)をと我(あ)を人ぞ離(さ)くなるいで我が君 人の中言(なかごと)聞きこすなゆめ〉
2人の仲を他人が引き裂こうとする。そんな中傷にゆめゆめ耳を貸さないで――。
希代の女性歌人、大伴坂上郎女の歌。大伴氏の邸宅は、東大寺大仏殿(左下)の北から延びる一条通にあったという(奈良市)
〈青山を横ぎる雲のいちしろく我(あ)れと笑(え)まして人に知らゆな〉
山にたなびく白い雲のように、私にはっきりとほほ笑んで、人には知られないように――。
これらの歌は親族同士で戯れに歌をやり取りした際の作品、との研究もあるようだ。だが、経験を踏まえたディテールにあふれるからこそ、千数百年を経て、感動は新鮮なのだろう。
また、こんな叙情的な歌もある。ちょうど、いま時分の季節に詠まれたにちがいない。
〈夏の野の繁(しげ)みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ〉
ひっそりと咲くユリが人に気付かれないように、あの人に知られない恋心は苦しい――。
片思いの心に悩む人間の感情を自然の風景にたとえた絶唱である。
坂上郎女は、片思いの心に悩む人間の感情を自然の風景に例えた。写真は夕暮れの若草山から望む奈良の街並み。シカは万葉の昔からこの地にいた
やがて、都が移り、時代があらたまって新しい感性が目覚め、恋の歌の趣も様変わりする。
平安時代前期に編まれた「古今和歌集」について、再び和辻の弁を借りよう。
「恋の情を直接に詠嘆せずして、観察し解剖し……恋の周囲のさまざまな情調を重んずる」
つまり「あなたが好き」とは直接言わず、花鳥風月や故事に心情をたとえた。情緒の表現は類型的になり、その中で語感や作歌のテクニックを凝らすようになったわけである。
しかも、即興的に詠まねばならないことも多く、恋の表現にも「お勉強」が求められ、ひと筋縄では行かなくなった。
著名な歌人を選んだ「三十六歌仙」の中から2人を取り上げてみよう。
まず、小大君(こおおぎみ)。10世紀後半の円融天皇の中宮に仕え、当時の貴族や歌人らとも親密だったという。
〈岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くる侘(わ)びしき葛城の神〉
大和の葛城山の鬼神が別の山との間に橋をかけようとしたが、醜貌を恥じて夜しか働かず、ついに未完成に終わった、との故事にちなむ。
小大君は朝になっても愛人が帰ろうとしない様子に「自分も顔を見られては、伝説で橋が架からなかったように、2人の仲もダメになる」と嘆いているわけだ。
「三十六歌仙」の一人、小大君は大和の葛城山の伝説をもとに恋の歌を詠んだ=「佐竹本三十六歌仙絵 小大君」大和文華館所蔵
次いで源信明(さねあきら)。やはり10世紀に生をうけ、地方長官として全国各地へ赴任した。女性歌人の中務(なかつかさ)と親密だったといい、こんな歌を残した。
〈恋しさは同じ心にあらずとも今宵(こよい)の月を君見ざらめや〉
あなたの方は私ほど恋しく思っていないようだが、せめて今夜、同じ月を見てくれまいか――。
対する中務は、こんな歌を返したという。
〈さやかにも見るべき月を我はただ涙にくもるおりぞおほかる〉
くっきりした姿が見える月だが、1人いる私の目には涙にくもることが多いのです――。
三十六歌仙の一人、源信明は女性歌人の中務と親密だったといい、彼女への歌を残した。=「佐竹本三十六歌仙絵 源信明」泉屋博古館所蔵
万葉集を愛した作家の永井路子は著書で万葉仮名の中には「恋」に「孤悲」という2文字をあてている例がある、と指摘している。
ひとりでいることが切なく、愛する人がそばにいることを望む気持ち。それが歌に昇華し、名文を紡ぐ。「孤悲」の伝統は日本の文化の幹となって、恋の文がSNS(交流サイト)に取って代わった現代にも間違いなく生きていよう。
熱情と葛藤 読む者に覚悟迫る
どこか素朴だったり、みやびだったりする古き相聞の世界と違い、近い時代の恋文や日記は読む者に覚悟を迫る。生々しい男女の葛藤を前に、好奇と拒絶が交錯する心境にいざなわれる。
「写真を出して、目に吸ひこむやうにして見てゐます、何という暖(あたたか)い血が流るることですか…食ひつきたい!」。喫茶店の一隅で女性の像を凝視しているわけである。末尾が強烈だ。
明治から昭和、万葉の伝統的な調べで時代や風景を詠んだ歌人、斎藤茂吉(1882〜1953)。おおらかな中にも力強さのある作風で知られる。
その茂吉は50代だった1930年代、20代の弟子、愛媛県出身の永井ふさ子と秘められた関係にあった。その情熱はけた外れで、実に150通もの恋文を書き送っている。
(写真左)永井ふさ子は1934年9月、正岡子規の命日にちなむ歌会で初めて茂吉に出会った。写真は25歳ごろ。(同右)歌人として周囲に仰がれ社会的地位もある斎藤茂吉は、ふさ子との恋愛を周囲に隠し通した。写真は1936年、54歳ごろ=いずれも藤岡武雄氏提供
山形県出身で、神童ぶりを見込まれ、10代半ばで東京都内の医師、斎藤家へ婿養子含みで迎えられた茂吉。長じて、精神科の大病院を院長として切り回すまでになった。
芸術家として、社会人として脂がのりきっていた時期だが、夫婦仲は良くなかった。都会育ちの妻は、スキャンダラスな振る舞いが新聞に騒がれるほど。茂吉は一時、病院長の地位を捨てて離縁まで決意する。結局、思いとどまったが、ふさ子と知り合ったのは、そんな妻と別居中のことだ。
やがて師弟の法(のり)を超えた2人。茂吉からの手紙は「ハガキでいいからください」「電話したのに留守だった」など青年のような純粋さにあふれ、中にはふさ子を絶賛する内容のものもある。「なぜそんなにいいのですか」。三十一文字には収まりきれない熱情がほとばしる。一方のふさ子は、こんな歌を残した。
〈きれぎれに暁がたの夢に見し君が髭(くちひげ)のあはれ白しも〉
ふさ子は師への思いを断ち切ろうと郷里で見合いした医師と婚約する。だが、逆に茂吉への恋情は燃え上がり、もだえ苦しむ中で病に倒れた。結局、生涯を独身で通した。
茂吉の死後、20年ほどたち、山形の記念館を訪れ、ふさ子はこう詠んだ。
〈遺されし背広の前に息をのむその腕に胸に生々し甦(よみがえ)るもの〉
平成に入り、静岡県内で暮らすふさ子は歌集の出版を決意。その編集のため手紙や写真を託されたのが歌人の藤岡武雄さん(94)だ。「年を召されても、みずみずしい感じの方でした」と振り返る。
1993年6月8日、82歳の生涯を閉じたふさ子。生前、歌集を手に取ることはかなわなかった。
人目を忍ぶ恋の炎を燃やした茂吉とふさ子とは対照的に、すさんだ世相のただ中、半ば公然と手を取り合って生の最期へ駆け抜けた2人もいる。太宰治と山崎富栄である。
(写真左)1941年、22歳の山崎富栄。映画の撮影所の専属美容師だった。戦後も東京・三鷹で仕事を続け、自立を模索していた。(同右)戦後、一躍、流行作家となった太宰治は連日、屋台で編集者らと打ち合わせした(1947年4月)=いずれも日本近代文学館提供
戦前、東京都内で美容洋裁学校を経営する家庭に育ち、戦争未亡人となりながら、戦後は美容師として自立を模索した富栄。1947年3月に太宰と出会った。すぐに人柄や作品に引かれ、死までの1年3カ月、秘書兼看護人のような立場で寄り添った。
「思想の確固さ。そして道理的なこと……私は先生を敬愛する」。4月、日記にはこう記す。その翌月には「愛して、しまいました。先生を愛してしまいました」。
富栄は後に家族へも手紙で交際を明かしている。透明な倫理さえ匂わせる言葉でこうつづった。「芸術の生命をわたしに教えて下さったお方に愛されて……何かを残して死にたいのです」
だが、太宰は本妻との間に3人の子がおり、小説「斜陽」のモデルとなった太田静子は太宰の子を宿して臨月を迎え女児を出産している。富栄は、この静子と同席したり、多忙な太宰に代わり、養育費を送金したりもした。
その年の12月、太宰は富栄の前にしばらくあらわれなくなった。耐えきれず太宰の自宅の前まで行き、慌てて引き返したりしている。そんな中、薬を飲み間違え、寝込んでいたとの直筆が編集者経由で届く。「モウ十日マッテクレ。ガマン」。その日の彼女の日記には「いやよ」が7度も書かれた。
「人間失格」が雑誌に載り、さらに文壇の大御所を批判する随筆が物議を醸す。心身とも衰えた太宰と、嫉妬と不信の渦の中、彼の文才をも礼賛してやまない富栄の心理は化学反応を起こすように死へと傾斜していった。
彼女の最後の日記に「奥様すみません」に続け、太宰の心境を代弁し「みんなしていじめ殺すのです。いつも泣いていました」とつづっていた。
太宰の墓は東京・三鷹の禅林寺にあり、命日の6月19日は大勢の読者でにぎわう。富栄の墓は東京・小石川の寺にあるが、戒名と名前のみで、没した年月日も享年も記されてはいない。
残された日記は、類いまれな文才に殉じたピュアな魂の記録と思える。