石坂洋次郎と「強い女」
西洋史家 本村凌二
「必ず結婚しなさい。良い妻なら幸せになれるし、悪い妻なら哲学者になれる」とはソクラテスの名言。もっとも議論好きだったあまり、イライラした妻クサンチッペに水をぶっかけられたとか。彼女の強烈な印象のせいか、異例の女性と思われがちだが、はたして「強い女」とは例外であるのだろうか。ちなみに「戦後、強くなったのは靴下と女」とはひと頃よく耳にした文句であった。
コロナ禍で自粛ムードがただよっているから、このところ帰宅するのが早い。職業柄、読書は仕事の延長だから、気分転換に映画のDVDをよく見ている。未見の作品もあるが、かつて映画館で見たものも少なくない。人間の記憶など曖昧なもので、数十年も経てば、ほとんど新作同様に楽しめるのだ。
私が10代だった昭和30年代(1955〜65年)、日本映画の全盛期、なかでも日活映画はたいへんな人気だった。まだ小学校高学年だったころから足しげく映画館に通ったものだ。とりわけ『嵐を呼ぶ男』の石原裕次郎に魅(ひ)かれ、青少年期に数十本の作品を映画館で見た。ムードアクション系が多かったが、異彩を放ったのが、石坂洋次郎原作の文芸映画だった。
その頃、石坂洋次郎は「超」のつくほどの人気作家であり、すでに『青い山脈』の例で知られるように、小説が刊行されるとすぐに映画化される状態がつづいた。裕次郎主演の文芸映画だけでも6本もある。
しかしながら、70年代になると、その流行が風前の灯のように消え去る。明朗健全なだけで深みがないと、文芸批評家も映画批評家も断じた。ヴェトナム戦争の混迷、赤軍派のハイジャック亡命、三島由紀夫の割腹自殺などの凄まじい出来事が相次ぎ、石坂文芸作品などは軽佻浮薄にしか思われなかったのだろう。
ところが、ほんとうに脳天気なだけの作家だったのだろうか、と問いかけたくなる。三浦雅士『石坂洋次郎の逆襲』(講談社)によれば、「女は昔から強かった」という確信が石坂にはあったという。「自ら運命を切り開く主体的な女性を描く」ことが、一貫して石坂に筆をとらせたのだ。
石坂は、1900年、青森県弘前市生まれ。母も妻も弘前の出身であり、津軽の女性である。苛酷(かこく)な自然環境のなかでは主体的な女なしでは生活そのものがありえなかった。その現実を石坂は肌身に沁(し)みるほど知っていたという。
石坂文学の原点とも言えるのは、戦前に書かれた『若い人』である。原作の舞台は函館だが、映画の舞台は戦後の長崎である。ミッションスクール高等部の数学教師・間崎慎太郎(裕次郎)には気になる女生徒・江波恵子(吉永小百合)がいた。どこか屈折した直情的な美少女だった。彼女は母ハツ(三浦充子)の恋愛遍歴のなかで生まれた私生児だが、それだけ母への愛憎の変が激しい。恵子はその心の癒(いや)しを屈託のなさそうな間崎に求めていた。
間崎には女性として好感をもつ歴史教師・橋本スミ子(浅丘ルリ子)がいた。素直に愛情を表せない橋本先生は恵子に対して女としてのライバル意識があった。ドラマはさわやかとは言い難い三角関係だが、なにしろ江波恵子の弾けんばかりの自己主張の強さが心を打つ。自ら間崎の子を妊娠したという噂を流すのだから、一筋縄ではない。この作品では江波恵子という個性的な女性の造形が鮮烈な余韻を残す。
『陽のあたる坂道』も石坂原作もの。田代家の末っ子くみ子(芦川いずみ)の家庭教師に来た倉本たか子(北原三枝)はそこで優等生タイプの兄・雄吉(小高雄二)とひねくれ者の弟・信次(裕次郎)とも知り合う。ところが、信次は母みどり(轟夕起子)の実子ではなく実母は芸者だった。物語は錯綜(さくそう)してくるが、ここに登場する女性たちは、どこか優柔不断な男たちに比べて、自分の足で歩く生き生きとした姿で描かれている。
三浦は「女の強さのみならず、その世界の豊かさ広さを描くに、石坂洋次郎ほどの力を発揮したものはいない」と指摘する。川端康成や谷崎潤一郎は、むしろ主体的に生きてゆけない女を描いて魅了したのだ。
石坂は、フェミニズムもジェンダー論も声高に叫ばれない時代に作品を書いた。まるで古来に通じる母系制社会を讃(たた)えるかのように、主体的に振る舞おうとする女たちの姿が描かれ、映画化された。だが、まともな批評家から批判されたというより無視されてきた感がある。その深層には父系を重んじる社会制度を剥ぎ取る力がひそんでいたからかもしれない。今こそ、石坂洋次郎文芸は小説とともに映画も注目されていいのではないだろうか。理屈ではなく、生き方そのものとして、心揺さぶるものがある。
もとむら・りょうじ 東京大学名誉教授。1947年熊本県生まれ。著書に「薄闇のローマ世界」「競馬の世界史」「裕次郎」など。