(異論のススメ スペシャル)

 

死生観への郷愁 

 

佐伯啓思

 

 誰もが自分が死ぬことはわかっている。しかし、自死を別にすれば、いつどのように死ぬのかはわからない。そこに何ともいえぬいやな感じがでてくる。たとえ死そのものについての覚悟を決めたとしても、それが、どのようにやってくるのかわからないからだ。だから、人は、日常のなかでは、できるだけ死を頭から遠ざけるのも当然であろう。

 ところが、こちらは決して歓迎もしていないのに、死が向こうから近づいてくる時がある。大病にかかったり巨大災害に遭遇したりすることもあるが、今回の新型コロナウイルスの大流行もそうだ。

 統計数字的にいえば、それほど恐れるほどのものではない。国や地域によって違いがあるが、こと日本に関する限り、たとえば東京の感染者数は、無症状者も考慮して多く見積もって約6千人としよう。一方、人口は約1400万人。感染確率は0・05%にもならない。死者数は300人強であるから、致死率はたいへんに低い。日本全体でみても、感染確率は高く見積もっても0・02%以下である。一方、インフルエンザによる直接、間接の死者数は年間約1万人とも推定され、2018〜19年の感染者数は何と約1200万人を超えている。

 これだけ見れば、インフルエンザの方がはるかに怖い感染症である。普通の生活をしておれば、コロナなどめったに感染することもないという確率である。確かに過剰に危機をあおるのは不適切であろう。しかしこれはあくまで統計数字の話に過ぎない。

 今回のコロナの怖さは、その病状がわかりにくい点にあった。朝には元気だった人が夜には急に重篤になる。肺炎のみならず、全身の臓器に症状が表れる。血管の中で血栓を作る。しかもそれを引き起こすのが「サイトカインストーム」と呼ばれる過剰免疫だそうだ。まさに「未知との遭遇」なのである。しかも、「濃厚接触」には身に覚えがない、という人でも感染している。

 こうなると、誰もが感染の危機にさらされており、感染すれば命にかかわることもある。いくら確率0・02%といっても、一人一人の実存の感覚からすれば、「かかる」か「かからない」か、「生きる」か「死ぬ」かのどちらかなのである。しかも、コロナはどこに潜んでいるかわからない。見えない敵によっていつ死に直面するかわからない、という不安にわれわれは襲われたのだ。

 本当のことをいえば、われわれは常に、「生」か「死」かという実存的状況にさらされている。明日には巨大地震が襲うかもしれない。交通事故にあうかもしれない。いつ心臓発作にみまわれるかもしれない。「ダモクレスの剣」のように、いつ頭上から剣が落ちてきて命を落とすかもしれないのだ。しかし、誰もそんなことは意識していないし、いちいち気にしていれば生活も成り立たない。

 かといって、次の瞬間に命果てればそれもよし、という覚悟を決めているわけでもない。何となく意識から遠ざけているだけなのである。そうした日常に、今回のコロナは死の剣を突き付けた。少し感染者数が増加すれば、萎縮したかのように自粛に入り、解除されれば一気に外へ飛び出す。自粛のなか、命がけでパチンコ屋に出向いた面々にも、確たる死生観があったとも思えない。

 いかなる対策をどのように打とうと、感染症は必ず人に襲いかかる。その時、人はどうしても不条理な死に直面せざるをえない。生と死について思いを巡らさざるをえない。われわれは、この不条理な死を納得できなくとも、それを受け止めるほかない。その時、われわれは何らかの死生観を求めているのではなかろうか。

 

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 ところで、今年の京都の祇園祭のハイライトである山鉾(やまほこ)巡行が中止となった。たいへんに皮肉なことである。なぜなら、もともと祇園祭は863年に神泉苑で行われた御霊会(ごりょうえ)に起源をもち、それは、都で流行した疫病対策だったからである。疫病は思いを残して死んだ人の怨霊が引き起こすものと考えられており、この年の疫病も牛頭天王(ごずてんのう)(スサノオノミコト)の祟(たた)りだとされたのである。しかも、次の年には富士山が噴火し、869年には貞観大地震が起きる。災害続きであった。ここに祇園祭が誕生する。それはもともと悪霊の鎮魂の祭りだったのである。

 昔の日本人にとっては、疫病にせよ災害にせよ悪霊の祟りであった。その時、人は神を祀(まつ)り、鎮魂の祭りを執り行い、大仏や薬師如来を造り、また弥陀(みだ)の本願にあずかるべく一心に念仏を唱えた。それでも災害や疫病が無慈悲に人の命を奪う時、人は、この不条理を「世の定め」として受け入れるほかなかった。人知は限られており人力も限界がある。人は自然や天の前に頭(こうべ)を垂れ、神や仏にすがるほかなかった。そしてこの世の不条理な定めを、昔の人は「無常」といった。「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人とすみかと、またかくのごとし」(鴨長明「方丈記」)というわけである。

 日本にはユダヤ・キリスト教ほど強い教義をもった宗教はない。だが、神と結びついた死後のたましいの観念や、浄土教のような極楽信仰や、あるいは仏教の生死一如といったような死生観は、まだ古人のこころをそれなりに捉えていたのであろう。それらは、とうてい受け入れがたい不条理な死をも受け止め、死という必然の方から逆に生を映しだそうとした。いずれ、生死ともに「無常」という仏教的観念が日本人の精神の底を流れていたことは疑いえまい。常に死と隣り合わせの生をおくった武士にとって、「諸行無常」が生死の覚悟の種になったことも事実であろう。死を常に想起することによって、生に対して緊張感に満ちた輝きを与えようとしたのである。西洋では、ペストに襲われた中世人は、常に「メメント・モリ(死を想〈おも〉え)」を戒めにしたという。

 もちろん、今日のわれわれは、感染症が悪霊の祟りだなどとは思わない。スサノオノミコトの仕業だなどと新聞に書けばボツにされるだけだ。薬師如来にお参りにいきたくともお寺の門も閉ざされている。地上の現象の説明を非理性的な超自然界に求めることは今日ではタブーといってもよい。

 

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 そのかわりに、今日、われわれの生と死に対して責任をもつのは国家なのである。「まつりごと」が「祭事」から「政事」に代わったのだ。17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズが、その国家論において、国家とは何よりもまず人々の生命の安全を確保するものだ、と定義して以来、近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった。われわれは自らの生と死を、自らの意志で国家に委ねたことになる。こうしてホッブズは世俗世界から宗教を追放した。超自然的な存在によるこころの安寧やたましいの安らぎなどというものは無用の長物となった。

 かくて、コロナのような感染症のパンデミックにおいては、国家が前面に登場することになる。われわれ自身でさえも、おのれの生死に対する責任の主体ではなくなるのだ。国民の全体が、たとえ0・02%の確率であれ、生命の危険にさらされている場合には、その生死に責任をもつのは政府なのである。それが「国民」との契約であった。ドイツの法学者カール・シュミットのいう例外状態、つまり国民の生命が危険にさらされる事態にあっては、私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力な権力を、一時的に、政府が持ちうるのである。これが、ホッブズから始まる近代国家の論理である。

 そして、いささか興味深いことに、今回、世論もメディアも、政府に対して、はやく「緊急事態宣言」を出すよう要求していたのである。ついでにいえば、普段あれほど「人権」や「私権」を唱える野党さえも、国家権力の発動を訴えていたのである。強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった。

 

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 これを指して、日本の世論もメディアも野党も、なかなかしっかりと近代国家の論理を理解している、などというべきであろうか。私にはそうは思えない。今回の緊急事態宣言は、もちろん一時的なものであり、しかも私権の法的制限を含まない「自粛要請」であった。しかし、真に深刻な緊急事態(自然災害、感染症、戦争など)の可能性はないわけではない。その時に、憲法との整合性を一体どうつけるのか、憲法を超える主権の発動を必要とするような緊急事態(例外状況)を憲法にどのように書き込むのか、といったそれこそ緊急を要するテーマに、野党もまたほとんどのメディアもいっさい触れようとはしないからである。

 そうだとすれば、政府はもっと強力な権力を発揮してくれ、という世論の要求も、近代国家の論理によるというよりも、ほとんど生命の危険にさらされた経験のない戦後の平和的風潮の中で生じた一種のパニック精神のなすところだったと見当をつけたくなる。いざという時には国が何とかしてくれる、というわけである。国家はわれわれの命を守る義務があり、われわれは国家に命を守ってもらう権利がある、といっているように私は思える。ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。もしこれが国家と国民の間の契約だとすれば、国民は国家に対して何をなすべきなのかが同時に問われるべきであろう。

 今日、死生観などということは誰もいわない。だが、私には、どこか、古人のあの、人間の死という必然への諦念(ていねん)を含んだ「無常感」がなつかしく感じられる。少なくとも、古人は、その前で人間が頭を垂れなければならない、人間を超えた何ものかに対する怖(おそ)れも畏(おそ)れももっていた。そこに死生観がでてきたのである。われわれも、こころのどこかに、多少は古人の死生観を受け継ぐ場所をもっておいてもよいのではなかろうか。

 

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 さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「死と生」など。思想誌「ひらく」の監修も務める。

 

 

 

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