(耕論)

 

「新しい生活様式」の圧 新型コロナ

 

 重田園江さん、大塚英志さん、東龍さん

 

 

「人との間隔は2メートル」「横並びに座って」――街中でも、テレビでも、政府の示す「新しい生活様式」を呼びかけている。感染抑止のためといわれても、残る違和感はなんなのか。

 

 ■価値観の変化伴ってこそ 重田園江さん(明治大学教授)

 「新しい生活様式」について公的機関や自治体が一斉に情報を発信していますが、個々のルールがなぜ必要なのかは明確にされていません。だから多くの人には伝わっていないでしょう。そんな中で、受けいれるべきか、反発するかという問題の立て方はあまり意味がないように思います。

 ただ注意すべきなのは、「新しい生活様式」の強制力が一律ではなく、すごくムラがあることです。中国のような国だと、全員にすべてが強制されますが、日本の場合は、すごく神経質に守る人もいれば、全然気にしない人もいるでしょう。

 民主的な社会では、グラデーションが出てくるのは当然です。ただ、学校や介護の現場のような規律の場では、すごい強制力が働いて、誰でも厳格に守らされてしまう。結果的に、子どもや高齢者のような弱い立場の人にしわよせが来るわけです。また、医療関係者や「専門家」と一般の人との関係は、「教える側」と「教えられる側」になりがちなので、強制力が働きやすくなります。

 新型コロナウイルスの場合は、まだエビデンス(科学的根拠)が少ないから、専門家も「新しい生活様式」を手探りでつくった部分があるでしょう。それを批判するのは簡単だけど、データがそろうまで待っていたら、いつになったら作り終わるかわからない。専門家を責めるのは少し酷なように思います。

 ただ「新しい生活様式」をやってみて、「ここはうまくいかない」「これは必要ない」となった時に、誤りを認めて修正しなければいけない。専門家会議に提言を出させ、公的機関が発信する仕組みでは、修正プロセスの正当性や責任の所在があいまいになる。それが大きな問題です。

 本来、「新しい生活様式」には、新しいものの考え方や価値観が伴っていなくてはいけないはずです。単にマスクを着ける、着けないじゃなくて、高度成長期以来の思考様式を変えなくてはいけない。リモートワークが広がれば、都心のオフィスビルは必要なくなる。そうした社会の変化を許容するのかが、まったく示されていません。

 大学でアンケートをとると、オンラインの方がいいという学生が結構います。通学時間もかからないし、精神的な面などから登校できなかった学生も参加できる。一時しのぎではなく、コロナ下で見えた「いいところ」を生かしていくのが、本当の「新しい生活様式」だと思います。

 政府は「ワクチンができればすべて元に戻る」と思っているんじゃないですか。価値観や思考様式を変えようとしないで「新しい生活様式」を掲げても、すぐ消えていくような気がします。(聞き手 シニアエディター・尾沢智史)

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 おもだそのえ 1968年生まれ。専門は政治思想史・現代思想。著書に「統治の抗争史」「社会契約論」など。

 

 

 ■日常に入り込んだ公権力 大塚英志さん(まんが原作者)

 今から80年前にも、新聞や雑誌には「日常」や「生活」があふれていました。家庭菜園の野菜を使う季節ごとの「漬けもの暦」や、古くなった着物の再利用でふすまを飾るなど今では「ていねいな暮らし」とでも呼ばれそうな記事が競って掲載されています。

 記事の一つひとつに軍国色は感じにくい。しかし、目的は「日常」レベルで「戦時体制をつくる」こと。そのために昭和15(1940)年に発足した大政翼賛会が説いたのが「新生活体制」でした。

 「新生活」の実践の担い手の中心は女性で、男性たちが突き進むナショナリズムとは異なり非政治的に見えます。節約や工夫そのものは政治的に批判しにくい。しかしそれは生活という基盤から、社会統制に人々を誘導してしまう政治的役割を果たしました。

 僕にはコロナ下の光景は、その「新生活体制」の繰り返しに見えました。ホームセンターの家庭菜園コーナーが人気になり、東京都が断捨離の動画を配信する。政治やメディアは、日常のつくり替えによる行動変容を説く。その姿に違和感を抱きました。自ら生活領域の統制に参加し、従うことに慣れてしまった社会の向かう先が気になります。

 実は翼賛体制に向かう前振りにあったのが、「自粛」でした。パーマネントや女性が接客するカフェがやり玉にあがり、映画館の行列は白い目で見られました。自粛警察のような動きさえありました。

 「自粛」から「新生活」へ。手順まで同じです。

 正直に言って僕は、コロナ禍で蔓延(まんえん)した「自粛」や「新しい生活様式」や、そこにへばりつく「正しさ」がとても気持ち悪い。そう公言しています。けれど「気持ち悪い」と言いづらいような社会の空気がもっと「気持ち悪い」。

 今、日本の新型コロナによる死亡率が、欧米とくらべて低いことまで「日本人の行動様式」や「日本文化」に帰結させる言説があります。「生活」や「日常」は「日本スゴイ」的な精神論・文化論に姿を変えつつある。東アジア圏にはもっと死亡率が低い国もあるのに、です。

 いつかこの騒ぎが忘れ去られ、この時代を振り返った時、そろって「自粛」と「新しい生活様式」に邁進(まいしん)した愚かさが見えてくるはずです。しかし、「あなたはその時どう行動したのか」と問われたら、「反対できる空気じゃなかった」と弁明するのでしょうか。それでは、戦争にあらがわなかった僕の親世代の、戦後の言い訳と同じです。

 生活という個人の領域に、不用意に公権力が介入してくることを「おかしい」と思うのは、民主主義の基本です。「おかしい」と正しく言葉にするためにも、戦時下の「生活」や「日常」の歴史を学ぶ必要があると思います。(聞き手・田中聡子)

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 おおつかえいじ 1958年生まれ。まんが史を軸に戦時下文化研究も行う。著書に「大政翼賛会のメディアミックス」など。

 

 

 ■食事はもっと特別な営み 東龍さん(グルメジャーナリスト)

 私は台湾に生まれ、日本で育ちました。中華といえば、大皿料理です。取り箸を使わず、めいめいが箸でつつき合う。そうして食べてこそ一体感が生まれ、親しくなれます。

 ところが、「新しい生活様式」は「大皿は避けて、料理は個々に」と指示しています。手洗いやせきエチケットのことかと思っていたら、こんなことまで。驚きました。

 高級ホテルの多彩な料理を手頃な価格で楽しめるブッフェは、日本や中国などアジアの人たちが大好きです。感染防止のためにと、トングは頻繁に取り換え、料理はスタッフが小皿に取り分けたり、ワゴンに載せてテーブルまで運んだりと、各店が工夫を凝らしていますが、人件費は余計にかかっています。

 日本では、あいさつ代わりに天気が話題になりますが、中華圏や韓国など東アジアでは、「食事しましたか」と声をかけます。まだならば、食事に誘い、大皿をつつき合う。そうした習慣も変わらざるを得ないかもしれません。

 和食は、2013年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。今年は、パリの日本人シェフのお店がミシュラン最高位の三つ星を得るなど、日本の食への関心がますます高まっていました。そこにコロナ禍が、直撃したのです。

 新しい生活様式では、持ち帰りや出前を勧め、食事は「屋外空間で気持ちよく」としています。でも、競争が過熱するテイクアウトは、値段を高く設定できず、従来の売り上げの2、3割ほどをまかなえればいい方です。オープンキッチンにするなど内装にお金をかけた高級店が、「持ち帰りでやってくれ」と言われても途方に暮れてしまう。「こんな生活様式ではやっていけない」。飲食店関係者からは悲痛な訴えが、続々と届いています。

 食に関する生活様式の極めつきは、「対面ではなく横並びで座ろう」と「料理に集中、おしゃべりは控えめに」という項目です。自宅で気をつけるのならまだしも、外での食事にここまで指図するのは、やり過ぎだと思います。

 人は、胃袋を満たすためだけに食事をするのではありません。特別な日に特別な場所で、特別な人と食べる。まさにハレの行事です。これでは、まるで動物のように扱われているみたいです。

 今回のコロナ禍では、飲食店などが営業自粛に応じた場合、行政が一定の条件下、わずかであってもお金を出すという仕組みができました。しかし、長引けば国や自治体の資金はもちません。

 そこで、「生活様式」という新たな言葉を使って、「あいまいな強制力」に頼ろうという訳なのでしょうか。SNSなどで「あの店は生活様式に従っていない」と告発する動きが出てくるのではないかと心配です。(聞き手・桜井泉)

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 とうりゅう 1976年台湾生まれ。日本ブッフェ協会代表理事。ブッフェを約3千回食べ歩き、著書に「夢みるブッフェ」。

 

 

 

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