データの世紀 危機が問う選択(上)

 

個人か社会か 使い方次第の「背番号」

 

 

新型コロナウイルスがデータエコノミーに新たな選択を迫る。個人データを駆使するテクノロジーは副作用も伴うが、うまく使いこなせば感染拡大の防止や経済再生の原動力にもなる。個人と社会の利益に、どう折り合いを付けるか。世界は試されている。

5月中旬、東京・渋谷に住む児島愛子さん(仮名、25)はいらだっていた。各地で始まった10万円の現金給付をネットで申し込もうとしたが、手続きがなかなか進まない。「マイナンバーカードあるのに何で……」

申請を考えたのは在宅用のオフィス機器を買いそろえるためだった。勤めるIT(情報技術)企業も経営がどうなるか分からない。マイナンバーカードを持っていれば、迅速な給付を受けられるとの触れ込みだった。

ところがパソコンでの申請にはカード読み取り機が必要という。用語も複雑、暗証番号を忘れて入力が止まる。数日手間取っていたところに、区がSNS(交流サイト)で知らせてきた。「ネットは郵送申請より給付が遅くなるかもしれません」。目を疑った。

もともと証券口座を開くためにカードを取得した児島さん。「でもそれ以外使ってない。役所の人も、暗証番号は覚えなくていいと言っていたのに」。使いたいときに受け取れない給付金制度に、ため息が出る。

2016年に始まったマイナンバー制度は「国民総背番号制」などとして不評を買ってきた。カードの普及はこれまで16%にとどまる。政府が使い勝手の改善や十分なPRを怠ったため、カードを取得した人の利用も進まなかった。

日本では不人気だった背番号制を欧米は今回の危機で最大限に活用した。米国は4月に現金給付を決め、約2週間で社会保障番号にひも付く各国民の銀行口座に最大13万円を届けた。カナダやスイスは納税者番号をもとに、数時間から数日のうちに緊急融資を出す。

全国民がIDを使いこなすデンマークも先を行く。失業補償の申請漏れがあれば、行政側が国民に直接連絡して確実に受け取れるよう促す。

「国民IDを行政の質向上に生かす欧米に比べ、日本は国民が十分にメリットを感じられていない」。法政大の小黒一正教授は指摘する。「背番号」も使い方次第で風向きは変わる。

ウイルスとの戦いはスピード勝負だ。必要なときに使えなければ、せっかくのデータ技術も画餅に終わりかねない。

英リンクレーターズ法律事務所によると、5月14日までに世界の40カ国・地域が接触追跡アプリを導入した。さらに日本も含めて23カ国が開発中だ。感染拡大の回避というメリットの一方で、行動履歴などの個人情報は守られるのかという不安も根強い。「データをどこに保存するかといった国民の懸念に各国政府は応え、利用を促していくべきだ」。調査を担ったソニア・シセ氏は話す。

米国のグーグルとアップルも共同で同様のアプリ向け技術開発を進めるが、いずれも全人口の6割以上が使わないと効果が出ないとされる。プライバシーか社会か。それぞれが折り合える答えを求めて、手探りも広がる。

4月、オーストラリア。シドニーの会社役員、タイラー・ベックさん(55)は政府が開発した追跡アプリをスマホにダウンロードした。「監視のようで気持ち悪いが、今は非常時。妥協も必要」と自分に言い聞かせる。

名前や電話番号を登録すると、他のスマホとの接近データが政府のサーバーに保管される。感染者の近くにいたことが分かれば、本人に通知される仕組みだ。スマホにしかデータを残さない仕様に比べ、個人情報の政府利用への懸念はどこまでも残る。だからこそ政府は丁寧な説明に徹した。

導入前からモリソン首相自ら「皆さんがこのアプリを使えば、社会規制を緩和できます」と国民に呼びかけた。同時にプライバシー法を改正。集めた追跡データには保健当局のアクセスしか認めず、目的外利用は刑事罰の対象とした。厳格な移動制限などと相まって国民の理解は進み、アプリも現在まで500万人以上が使う好循環が続く。

「私か公益かの二択ではなく、両立できる均衡を追う。それが強権国家との違いだ」。慶応大の山本龍彦教授は世界のコロナ対策を見渡し、民主主義国家が目指すべき方向を示す。個人の権利にも配慮しつつ社会全体を守り抜く。テクノロジーで最大公約数をたぐり寄せる作業が欠かせない。

 

 

 


 

データの世紀 危機が問う選択(中)

 

活用か悪用か 民間の善意、引き出す知恵

 

 

エストニアの「COVIDヘルプ」は、コロナ禍で不自由な高齢者と、買い物代行などのボランティアを結びつける

日本全国に緊急事態宣言が出た直後の4月末、ツイッターで「転売屋がマスクを週9億枚も買った」という書き込みが飛び交った。

「本当なのか」。疑問に思った会社員の大船怜さん(仮名)は大手メディアなどの情報を検証。「『9億枚』は1月最終週の全販売数で転売屋の購入数ではない」と結論付けた。自らのツイッターアカウントで「デマの可能性が高い」と発信した。

大船さんはネットで注目を集めた情報の真偽を確かめるファクトチェックを自主的に行う。新型コロナウイルスの広がりで、4月は検証を含む投稿が普段の6倍の約180件になった。

急速に普及したSNS(交流サイト)はデマや誹謗(ひぼう)中傷など情報汚染の温床になる一方で、自浄作用も生まれている。米ミネソタ大などの3月の調査では、米国のネット利用者1072人の約2割が「SNSで誤情報に接した後、訂正を促した経験がある」と答えた。

善意の指摘がかえって偽情報の拡散を招くこともあり、ファクトチェックは難しい。だが同大のエミリー・ブラガ准教授は「『誤りだ』と否定するだけでなく、根拠とともに丁寧に事実を示していけば誰もが情報汚染の防波堤になれる」と話す。

善意の知恵は、新型コロナに対抗する力にもなる。

「いつもの薬を買って来てほしい」。エストニアの首都タリン郊外で、60代の女性が困っていた。薬局は数十キロ先で、往復途中の感染も怖い。オンラインでボランティアを探すサービスの「COVIDヘルプ」を使うと、10分で買い物を代行してくれる人がみつかった。約2700人のボランティアが登録し、高齢者らの不自由な生活を支える。

スタートアップ企業が運営する同サービスは「ハッカソン」というビジネスアイデアを競うイベントから生まれた。エストニア政府が緊急事態宣言の翌日の3月13日に開き、優秀案に経済支援を約束。80ものアイデアから選ばれたCOVIDヘルプは、3日後に始動した。

民間の有用なデータや知恵を発掘するハッカソンは欧州や中東など、70回近く開催。市民が健康データを登録して保健当局と共有するポルトガルのスマホアプリなどが次々に実現した。

一方で日本は足踏みする。政府は3月末、IT大手や通信会社に「感染拡大防止に役立つデータ提供」を要請した。100社以上に呼びかけたが、5月半ばまでにデータ提供の協定を結んだのはヤフーやLINEなど3社のみ。あるIT大手は「政府は『何か使えるデータを』と言うばかり。具体的な方針がなく協力しようがない」と漏らす。

データを分析するには、目的に応じた項目の分類や匿名化などの加工が必要だ。むやみに生データを渡せば、個人情報保護法にも触れかねない。内閣官房の幹部は「『お願い』だけでは限界があった」と認める。

情報汚染など負の影響はたやすく広がるが、危機を乗り切る「善意のデータ力」を引き出すには工夫と準備が欠かせない。新型コロナの脅威に無関係でいられる人はいない。衆知を結集できるか。「官」や「民」の枠を超えられれば、誰もが主役になれる。

 

 

 


 

データの世紀 危機が問う選択(下)

 

自由か統制か 国家の圧力、ネット凍らす

 

 

配車サービスも手掛けるロシア最大のIT企業、ヤンデックスの経営方針には、同国政府が影響を強める=ロイター

モスクワの会社員、マリーナさん(53)は5月中旬、出勤前にスマホで外出許可証のQRコードを受け取らなければならなかった。市内では4月中旬以降、車や公共交通機関での外出が許可制になった。「QRが突然無効になることもある。いつか罰金を取られそうで怖い」と不満げだ。

新型コロナウイルスの感染者数が35万人を超えたロシア。対策に追われる政府は市民への監視を強めた。モスクワでは17万台の監視カメラが人々の行動を追う。集めた個人データをもとに、警察が隔離対象者を取り締まる。

 

■市民への監視の目拡大

ロシア政治に詳しい中村逸郎・筑波大教授は「コロナ禍はプーチン政権によるIT(情報技術)警察国家の樹立を促した」と語る。

3月には同国最大のIT複合企業ヤンデックスの「公益ファンド」にプーチン大統領の側近が名を連ねた。同ファンドは重要な経営事項の決定権を握る。ネット検索から通販、配車まで手がける同社は事実上の政府傘下となり、市民のあらゆる生活データに国家の手が伸びつつある。

ネットは国境を越え、アイデアや知識を活発にやり取りできる自由を世界にもたらした。その成長の土台に、急速にひびが入る。

ロシアはサイバー攻撃からの防衛を理由に、ネット遮断を可能にする法律も制定した。英情報サイトのトップ10VPNによると、19年にはこうしたネット遮断がインドやインドネシアなど各国で発生。世界各国で8600億円もの経済損失が生じた。

同様の動きが一部の民主主義国家にも広がり、統制の波が言論の自由に及ぶ。

「事実と違う。訂正を求める」。シンガポールのガン・キムヨン保健相は4月、現地のネットメディアに不快感をにじませた。「政府が感染者を過小発表した」と報じたためだ。

同国政府は昨年10月施行の偽ニュース防止法を盾に、偽情報の摘発を急ぐ。だが明確な判断基準を示さず、人権団体などから「メディアや野党の政府批判を封じるために使っている」と懸念の声もあがる。同様の規制を強めるタイやマレーシアでは、逮捕者も出た。

 

■ネット空間広がるが…

世界のネット人口は19年に41億人と10年前の2倍に増えた。一方、米非営利組織フリーダム・ハウスが算出する「世界のネット自由度」は19年まで9年連続で低下した。ネット空間が広がるほど、不自由になる矛盾に世界は直面している。

「ネットの分断は世界のイノベーションを止める」。国際企業連合「グローバル・データ・アライアンス」は警告する。今年1月、米国のAT&Tやシスコ、日本のパナソニックなどが集まって結成した。

目下取り組むのが、ITインフラに関わる政策提言だ。越境データ取引の整備や技術者の支援を各国政府に呼びかける。「テレワークや遠隔診療が定着すれば、データの国際連携は経済復興の要になる」。日本担当の角田良平氏は話す。

自由か統制か。データの世紀を生きる我々にとって、それは「コロナ後」も避けて通れない問いだ。ネットに光をともすか、凍り付かせるのか。人類に重い選択が迫られている。

 

 

 

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