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プーチン統治の20年 ロシアの専門家4氏に聞く

 

レフ・グトコフ氏/イーゴリ・ユルゲンス氏/ドミトリー・トレーニン氏/ドミトリー・ストレリツォフ氏

ソ連崩壊後の混乱を収拾した立役者とされる一方で、世界秩序を乱す強権政治家とも呼ばれるプーチン氏が大国ロシアを率いて実質20年がたつ。この間にロシアの内政、経済、外交、そして日ロ関係はどう変化したのか。「プーチン統治20年」の功罪と今後の見通しを、ロシア各界の専門家に聞いた。

 

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政権の衰退 徐々に続く レバダ・センター所長 レフ・グトコフ氏

Lev Gudkov モスクワ大ジャーナリズム学部卒。レーニン図書館、哲学研究所などを経て独立系世論調査会社レバダ・センターに。2006年から現職。72歳

プーチン氏の国民人気を支えてきたのは軍事的なアピールだ。最初は大統領になる前、首相に就任直後の1999年8月に始まった第2次チェチェン紛争だ。次に、ロシアと旧ソ連のジョージア(グルジア)との間で2008年8月に起きたグルジア戦争では、支持率がピークに達した。

その後、同年秋からの経済危機と国民所得の減少、さらに長期政権への疲労感が加わり、プーチン人気は下降線をたどった。11、12年には不正選挙をきっかけに政権批判の抗議行動が相次ぎ、13年末の世論調査では、47%の市民がプーチン氏に次の大統領になってほしくないと答えていた。

だが、14年春のクリミア半島併合とウクライナ紛争で、愛国主義、国粋主義的な雰囲気が社会を支配し、プーチン人気は再び上昇した。もっとも17年からは政権への不満が募り、支持率も急落した。年金の支給開始年齢の引き上げ問題に加え、クリミア併合後の5年間で国民の実質所得が11〜13%も減ったからだ。

プーチン氏の支持率はそれでも、米欧の基準からみればまだ高い。政権側がプーチン氏に代わる政治指導者の登場を許していないからだろう。また、プーチン氏なら経済停滞を打開してくれるとの国民の期待もまだ一部に残っている。

プーチン氏を積極的に支持するわけではないが、「シロビキ」と呼ばれる軍・治安機関出身者が政権を支える今の国家構造を変えるのは容易ではない。手を触れずに適応するのが得策だと考える風潮が社会で広がっているのも一因だ。ちなみにソ連崩壊直後、エリツィン元大統領のように民主派とされた政治家たちも無秩序状態の中、結局は軍・治安機関に頼り、強権的で垂直的な政治体制を再構築せざるを得なかった。

反体制派が弱い分、プーチン体制の基盤は強固だともいえるが、24年の任期切れに向け政権の衰退は徐々に続いていくはずだ。政権がまた軍事的な冒険主義に走り、北大西洋条約機構(NATO)との対立をあおったり、ウクライナ東部の戦争を再び起こしたりする恐れはあるが、そうなれば今度は社会の不満が一層増すだろう。

 

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実質所得減で募る不満 現代発展研究所長 イーゴリ・ユルゲンス氏

Igor Yurgens モスクワ大経済学部卒。ロシア産業企業家同盟副会長などを経て、2008年から現職。メドベージェフ政権では同大統領の指南役を務めた。67歳

プーチン氏は大統領1期目の00〜04年に国内の秩序を復活させ、貧富の差を縮めた。ロシアの政界を牛耳るようになっていたオリガルヒ(新興財閥)の影響力も抑えた。続く04〜08年の2期目は所有権が再配分された時期だ。典型例は民間の石油大手ユーコスの資産が巨額脱税を理由に国有化され、国営石油会社ロスネフチの経営基盤が強化されたことだろう。

プーチン氏が政権を握った99年、ロシアは金融危機と債務不履行の直後だった。モスクワなど大都市を中心にした経済状況は当時に比べて格段に良くなり、外見的なイメージも一変した。防衛・国防能力も向上し、国際社会でのロシアの地位も向上した。

1、2期目はとくに年平均で7%の高い経済成長率を達成した。もちろん原油価格上昇の恩恵が大きかったが、当時の経済担当閣僚が進めた構造改革の効果もあった。彼らは税務、予算関連法案を整備し、国家の資金基盤を強固にした。

ただ、メドベージェフ政権後の12年からの3期目、18年からの4期目のプーチン政権は自身や側近の立場の強化に腐心した印象が強い。当時、ロシアがめざしたのは限定的な資本主義だが、実際に向かっているのは一部の権力者が支配する「王朝資本主義」のような体制だ。これでは市場原理が機能するわけがない。

独占企業の本業以外の資産を民営化する、外国投資家への対応を向上させる、汚職対策を徹底する――。構造改革に向けた一連の計画は、14年のクリミア半島の併合を機に霧散した。

ウクライナ危機による米欧の経済制裁で、投資環境は著しく悪化した。外国資本の流入が急減し、ロシアの投資家は資本を海外に流出させた。経済は悪化し物価は上昇した。国民の実質所得は14年から18年まで5年連続で減少した。長期政権に対する国民のいらだちや不満は募り始めている。

それでもロシアの原油など天然資源はまだ採算がとれる。内外政策でよほどの過ちをしない限り、政権末期まで年2%程度の成長は可能だ。もっとも、プーチン氏が掲げた「世界の5大経済大国」にするという目標は到底実現できない。

 

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米との緊張 高まる一方 カーネギー財団モスクワセンター所長 ドミトリー・トレーニン氏

Dmitri Trenin ソ連国防省軍大学卒。軍勤務の後、欧州研究所などを経て、1994年からカーネギー財団モスクワセンターに在籍。2008年から現職。64歳

プーチン氏の20年に及ぶ外交政策は、大きく4つの段階に分けられる。第1段階は就任直後の00年代前半で、ロシアが北大西洋条約機構(NATO)加盟を含めて、米欧との強固で友好的な同盟関係の構築をめざしていた時期だ。

ところが米欧からは前向きな反応がなく、逆に互いに非難しあう「危機的なパートナーシップ」の関係となった。これが04年から08年までの第2段階だ。プーチン氏はイラク戦争や旧ソ連で起きたカラー革命への支援を巡って、米国を批判した。米欧の側はロシアで民主主義的な価値観が損なわれていると非難した。この段階はプーチン氏が米国による一極支配体制を痛烈に批判した07年のミュンヘン演説と、08年のグルジア戦争で終わる。

第3段階は08年末から11年ごろまでで、米国との関係を再構築(リセット)し、欧州とは新たなパートナー関係をめざした時期を指す。ただし、再び危機的状況へと後退し、14年にはウクライナ危機が発生する。これ以降、ロシアは米欧と明確に対立し、紛争が続く第4期へと突入した。

プーチン政権の残る任期内に、西側との対立関係が再び好転するとは考えにくい。とくに米国とロシアの関係が改善する可能性はゼロで、双方の緊張は高まる一方だろう。

米ロ関係の悪化は、米国内の政治闘争が背景にある。だが、より大きな要因は、ソ連崩壊後に米国主導で形成された冷戦後の国際秩序を、ロシアが侵害しているとの認識が米国側にあることだろう。冷戦の敗者であるロシアが旧ソ連のジョージア(グルジア)やウクライナでの戦争を通じて、米国に反旗を翻しているというわけだ。米国にとっては、中国とは別の意味でロシアが米国流覇権主義への脅威になっている。

米ロ間ではすでに中距離核戦力(INF)廃棄条約が失効し、21年に期限を迎える新戦略兵器削減条約(新START)も延長される可能性がどんどん小さくなっている。米ソ、米ロ間で築いてきた戦略的安定の時代は過去のものになりつつあり、核軍備管理のない世界に適応せざるを得なくなっている。

 

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■2島返還も非現実的に モスクワ国際関係大教授 ドミトリー・ストレリツォフ氏

Dmitri Streltsov モスクワ大付属アジア・アフリカ諸国大日本語学科卒。ロシア科学アカデミー東洋学研究所研究員などを経て、2008年から現職。56歳

日ロはプーチン氏が大統領に初めて就任した00年から01年にかけて、短期間だが実り多い時期があった。森喜朗首相(当時)との個人的な関係を基礎に、01年3月にはイルクーツク声明が発表された。声明で最も重要なのは、両国がこれまで採択した諸文書の冒頭に56年の日ソ共同宣言を掲げたことだ。同宣言は平和条約締結後に歯舞群島と色丹島の2島を日本側に引き渡すと明記している。

プーチン氏は当時、北方領土問題の解決を真剣に考えていたと思う。政治的な意思で領土問題を解決し、平和条約を結ぶための突破口とみなしたのが、日ソ共同宣言だった。ロシア外務省の親日リベラル派の影響もあって、短期間で日ロ関係を改善できるとの幻想を抱いていたようだ。

だが、01年春に小泉純一郎政権が発足し、領土問題を巡る日本の態度が硬くなると、プーチン氏は自分が裏切られたと感じた。01〜08年は平和条約問題をほとんど話題にしなくなり、経済を中心に日本との関係を考えるようになった。

続くメドベージェフ政権下で日ロ関係は急速に悪化した。12年のプーチン大統領の復帰は関係修復への転機となり、本人も領土問題で「引き分け」と語るなど期待を持たせた。その後のウクライナ危機で一時的な停滞はあったが、日ロ関係は18年11月までは比較的好調に推移したといえる。

安倍晋三首相は18年11月のシンガポールでの日ロ首脳会談で、日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を進めようと提案した。プーチン政権にとっては青天のへきれきだった。日本が2島で手を打つと考えていなかったからだ。これでロシアの態度が変わった。日ソ共同宣言は否定しないが、2島の引き渡しは非現実的との立場で日本との政治交渉を続けるようになった。

プーチン氏の就任直後なら、北方領土問題を解決するチャンスはあった。歴史に名を残すべく隣国との国境線画定に必死に取り組んだし、政治家として未熟な理想主義者の面もあったからだ。今や支持率は低下気味で、プーチン氏も保守的になった。日ロ関係は下降線をたどり、安倍政権後は一段と悪化するだろう。

 

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<アンカー>理想主義の放棄 米欧にも責任

プーチン氏は1999年8月に大統領後継含みで首相に登用され、政治の表舞台に立った。同年末のエリツィン大統領辞任で大統領代行に昇格。翌春の大統領選で初当選したが、国家保安委員会(KGB)出身の無名官僚が世界有数の辣腕政治家に変身するとは、誰も予想しなかった。

ソ連崩壊後の混乱収拾には確かに、ある程度の強権統治が必要だったかもしれない。プーチン氏の有名な発言にも「ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的悲劇だ」がある。最初からソ連型のこわもての大国復活を志向したようにみえるが、当初は理想主義者で米欧との統合をめざしたという。

当時、米欧が本気で手をさしのべていたら、ロシアはクリミア併合のように世界秩序を乱す国になっただろうか。責任の一端は冷戦終結後も根強く残る、米欧の対ロ冷戦思考にあるのかもしれない。

 

 

 

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