人間発見

 

指揮者 山田和樹さん クラシックもっと自由に

 

 

 指揮者の山田和樹さん(40)は世界の第一線のオーケストラを指揮しながら、合唱団やアマチュア団体とも数多く共演する。器楽と声楽、古典と現代音楽、プロとアマといった境界を自由に行き来し、クラシックの枠にとどまらない新たな領域を切り開いている。

 昨年、スマートフォンをようやく持ちました。でも海外で家族との連絡に使うだけで、それ以外は今でもガラケーです。人間は便利さにあらがえませんが、無条件には受け入れたくない気持ちがどこかにあります。

 音楽界もデジタル化が進んで、楽譜を見るのにタブレット端末を使う人が増え、海外の演奏会もすぐにユーチューブにアップされる時代になりました。それでも僕は紙と鉛筆の質感にこだわりたいと思っています。

 人間が生きている証しとして音が生まれ、やがて消えてなくなります。音楽も紙も鉛筆も、やがて無に帰す運命を持ったものは、みんな生きているのです。美は限りあるものにこそ宿ります。

 音楽を追求することは、なぜ人間が人間なのかという根本的な問いにつながります。現代社会で音楽をするということは、実は簡単ではなくなってきているのかもしれません。時間に追われる現代で、どうしたら時間を音楽によって輝かせることができるかを日々考えています。

 指揮者は孤独で、神経と体力をすり減らす過酷な仕事だ。スコア(楽譜)を読み込み、オーケストラを短時間で自分の色に染め上げなければならない。山田さんは時に大胆な解釈と遊び心で演奏家や観客を驚かせながら、自分の世界に引き込んでいく。

 僕の演奏の指針は「自分が客席にいて楽しめるかどうか」です。クラシックも既定路線通りにはやりたくないし、練習通りにやってもつまらない。ベートーベンの交響曲「第九」に児童合唱を入れるなど、自分なりに工夫することもあります。観客をハッとさせ、巻き込んで感動を共有したいと思っています。

 指揮者にはリーダーシップが必要ですが、人それぞれであり、自分のやり方を見つけるまでが大変です。僕も高校時代に吹奏楽部の指揮者をして、自分がいくら正しいと思っても、部員にうまく伝えられず、苦労しました。その時の経験が今、ものすごく糧になっています。

 これまでの多くの出会いのどれ一つが欠けても、今日の僕はいません。いくつもの偶然が重なり、必然となっていく不思議さを感じています。座右の銘を求められてサインに書くのは「Take it easy(何とかなるさ)」です。

 指揮者として、本当の意味の孤独というものを、まだ感じたことがないかもしれません。僕より音楽的才能がある人は大勢いるのに、僕はたくさんの仕事をいただいています。周りの多くの仲間が僕のために動き、支えてくれます。僕は世界で一番幸せな指揮者です。

 

 

クラシックもっと自由に(2)

 

 1979年、神奈川県秦野市生まれ。エンジニアだった父親の転勤で移り住んだ愛知県尾張旭市の幼稚園で、「木下式」と呼ばれる音感教育を受けたのが音楽との出合いだった。

 一人っ子で、甘えん坊、泣き虫な子どもでした。幼稚園が取り入れていた音感教育で合唱に親しみました。小学3年で秦野に戻った後も、木下音感楽院で合唱とピアノを習いましたが、音楽家になろうとは思っていませんでした。でも高校2年のとき、楽院の音楽祭でオーケストラを指揮させてもらい、楽器の音色に全身が総毛立つ感動を覚えました。

 そのころ通っていた神奈川県立希望ケ丘高校で、吹奏楽部の指揮者を任されていました。ところが僕のやり方に反発して、50人余りいた部員が次々に離れていき、とうとう5人になりました。それまで自分が正しいと思っていたのが、「自分が変わらなければ」と気づきました。僕の思いを伝えるため、「山田君は何を考えているのか」といったシリーズのプリントを作り、部員一人ひとりに手渡しました。全部で30号近く出したでしょうか。

 やがて部員が戻ってきて、定期演奏会と吹奏楽コンクールをやり切った時、「指揮者になろう」と決めました。準備が遅かったので、浪人覚悟で、東京芸術大学の指揮科を受験しました。定員2人のはずが、その年の合格者は4人で何とか入れました。

 東京芸大では松尾葉子、小林研一郎両氏に師事。早くからアマチュアの演奏の現場に飛び込み、鍛えられた。

 芸大入学直後の97年4月から、早稲田大学グリークラブの60歳以上のOBでつくるシニア会合唱団の練習指揮をしました。次に関わったのがアマチュア混声合唱団「武蔵野合唱団」です。練習後に開く飲み会は、時に怒号が飛び交うほど激しい議論になります。僕は自分を否定され、何度も涙を流しました。同時に、そこではお酌の仕方、社会人としてのマナーなど、芸大では教えてくれない社会勉強も一からさせてもらいました。

 98年に芸大の有志と「TOMATOフィルハーモニー管弦楽団」(現横浜シンフォニエッタ)を結成した。

 当時、僕は音楽界の熱量の足りなさ、音大生のどこか冷めた空気に日々、怒りを感じていました。それを何とか打破したいと思い、仲間とともに大学2年の春、新入生歓迎演奏会でモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」を演奏し、かつてない手応えを覚えました。やがてベートーベンの交響曲を1つずつ演奏し、2001年に「第九」で完結させました。

 団名は、僕がトマトが苦手だったのを皮肉った団員が付けたものです。とにかく何でもやりました。練習場所の確保から、チケットの販売、プログラムの校正まで、演奏会を開くのがどんなに大変か、身をもって体験しました。楽器を手配して自宅で預かったり、トラックを運転して楽器を演奏会場に運んだりした指揮者は僕くらいじゃないでしょうか。本当にいい経験でした。

 

 

クラシックもっと自由に(3)

 

 2001年に東京芸術大学を卒業し、多くのプロ、アマチュアの楽団や合唱団を指揮した。09年、若手指揮者の登竜門である仏ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、一躍脚光を浴びる。

 芸大では大学院に進みませんでした。当時、アカデミズムへの反発があり、ここにいるとおかしくなってしまうという思いがありました。卒業後、いくつか仕事をいただきましたが、自分の将来について漠然としか考えていませんでした。

 ある日、指揮をしていた武蔵野合唱団との飲み会で、「和樹、黙ってこれにサインしろ」と、ある紙を差し出されました。僕が鉛筆の下書きに沿って書き、自署欄にサインしたのは、07年ブザンソン国際指揮者コンクールの参加申込書でした。皆が僕の背中を押してくれたのです。

 そのときは入賞を逃しましたが、僕の中で世界に挑戦したいという思いがどんどん膨らんでいきました。次の同コンクールが迫った09年夏、ドイツのベルリンに居を移しました。そして自分の結婚式で「リベンジする」と誓ったのです。

 9月に行われたコンクールの本選の課題曲は、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲とベルリオーズの幻想交響曲で、どちらも指揮したことがある曲でした。オーケストラも心を開いてくれ、僕自身がコンクールであることを忘れて演奏中に感動するなど、魔法にかかったような1週間でした。

 30歳での優勝でしたが、これより早くても遅くても、うまくいかなかったと思っています。

 コンクール優勝後、BBC交響楽団など欧州の一流オーケストラの演奏会に相次ぎデビューした。世界的指揮者の小澤征爾氏からも代役に指名され、国際的なキャリアの階段を一気に駆け上がった。

 小澤さんとは全く面識がありませんでした。僕のコンクールでの映像を小澤さんがご覧になり、気に入ってくださったそうです。やがて「小澤さんが代わりに指揮をしてほしいと言っている」という話が伝わってきましたが、半信半疑でした。

 年が明けて10年1月、師匠の小林研一郎先生と顔を合わせたとき、「小澤さんのお話、お受けしなさい。頑張って」と励まされました。小澤さんの食道がんが公表されたのは、その日の夕方でした。

 5月、演奏会で金沢市にいた僕の携帯電話に非通知の着信がありました。電話に出ると「小澤でーす」と明るい声が聞こえました。帰京後、すぐに東京のご自宅に向かい、最寄り駅に着くと、小澤さんが自転車で迎えに来てくださいました。

 それから、小澤さんが手がけているスイス国際音楽アカデミーや、サイトウ・キネン・オーケストラを指揮するなど、海外のオーケストラとの仕事が増えました。

 苦労したのが、楽団員たちに僕の考えを伝えるための言葉でした。小澤さんから「英語は6年かかる」と言われましたが、確かに6年たって、やっと何とかなるレベルになってきました。

 

 

クラシックもっと自由に(4)

 

 オーケストラにとどまらず、合唱音楽でも幅広いレパートリーを持つ。2014年にはプロ合唱団、東京混声合唱団(東混)の音楽監督に就任した。

 日本で合唱音楽がこれほど盛んになったのは、日本語があったからこそではないでしょうか。五十音順にすると、愛(あい)で始まり、和音(わをん)で終わります。日本語は本当に特別な美しさを持った言語だと思います。

 東混との付き合いは04年からです。東混の事務局が僕を指揮者に推薦してくれたのですが、当時の音楽監督だった岩城宏之さん(故人)から「山田なんて知らない。おれのところに連れてこい!」と呼び出されました。岩城さんの前で30分ほど練習を指揮して、認めていただきました。

 今振り返れば、ご自身がお墨付きを与えることによって、若手の僕が堂々とやれるように、という思いやりだったのだと思います。岩城さんからは「オーケストラと合唱の両方を指揮できる人は少ない。合唱を振れば、オーケストラの指揮にも必ず役に立つ」と言われました。

 合唱もオーケストラも、演奏者の呼吸がなければ音は生まれません。合唱はブレス(息継ぎ)ひとつで音色が変わります。オーケストラも自然な呼吸ができていれば、自然な音が生まれ、音楽が流れていきます。僕はその呼吸を、演奏者に伝えるように心がけています。

 アマチュア団体や子どもたちとの共演も多い。マイクを持つと漫才師のようなノリで軽妙なトークを繰り出し、時にピアノ、ダンス、ラップも披露するなど、旺盛なサービス精神で観客を楽しませる。

 アマチュアや子どもたちとの公演は僕の心をリフレッシュさせてくれます。自分の若いころ、音楽を志した原点を思い出させてくれるのです。プロの音楽家だって、生まれた時からプロだった人はいません。最初は皆アマチュアです。「音楽家になりたい」という初心を忘れずに、努力を続けていくことが大事なのです。

 アマチュアの演奏は、多くの時間をかけて楽曲に向き合い、心を込めるひたむきさが人の心を打ちます。アマチュアの音楽がこれだけ盛んになった今、プロの存在意義も厳しく問われています。

オーケストラと合唱、プロとアマチュアをつなぐのに、東混は優れた媒体になります。機動力があって、アイデアをすぐに実現できるのも魅力です。

 東混は昨年から、NHK全国学校音楽コンクール、全日本合唱コンクールの課題曲を歌っています。中高生らが一生懸命練習する曲を、プロの歌声で楽しんでもらうのです。邦楽やジャズとコラボしたこともあります。クラシックの枠にとどまらず、まだ誰もやったことのない音楽をやりたい、新しい扉を開きたい。そういう気持ちは人一倍強いです。

そして、音楽を通して、多くの人に笑顔になってもらうことも、指揮者の大切な仕事だと思っています。

 

 

クラシック もっと自由に(5)

 

 2012年から17年までスイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者を務めた。現在はモナコのモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督兼音楽監督、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、英バーミンガム市交響楽団と読売日本交響楽団の首席客演指揮者などとして活動している。

 ドイツのベルリンに居を移して10年になります。海外のオーケストラを指揮しながらも、自分は日本人だという意識を強く持ち続けています。

 数年前から、日本人作曲家の優れた作品を掘り起こし、再演しています。特に柴田南雄の作品は「日本、日本人とは何か」を、時空を超えて問いかけてきます。岩城宏之さんは多くの邦人作品を初演して「初演魔」と呼ばれましたが、僕は「再演魔」を目指していきたいです。最近、音楽界でも「若者の草食化」を感じています。クラシックはいわば、欧米の肉食文化の象徴で、その中で世界と渡り合っていかなければなりません。コンクールも1位と2位とでは差は歴然としています。他人を押しのけてでも生き残ろうといったギリギリの切迫感が、日本の若い人からは伝わってこないのが少し心配ですね。

 20年の東京五輪・パラリンピックに向けて、世界の約200カ国・地域の国歌や愛唱歌(アンセム)を演奏する「アンセムプロジェクト」を進めている。

 世界各国の国歌や愛唱歌を万国旗のように紡いで、五輪を盛り上げていきたいです。各国の原語で歌い、なかには楽譜がない歌もあって、労力がかかる作業です。信長貴富さんら気鋭の作曲家に編曲をお願いし、各国のネーティブスピーカーの指導も受けました。各地で演奏会を開き、このほどレコーディングを終えました。

 お薦めはアフリカのコモロ連合の国歌です。どこか原始的で、大地のエネルギー、独特の郷愁を感じさせます。国と国との間に様々な事情があっても、音楽なら越えられると思います。

 今年1月に40歳になり、新たな目標を見据える。

 40代はオペラやバレエの仕事を増やしていきたいです。だいたい10年スパンで考えていて、40代、50代で自分をさらに磨いていき、60代以降も世界の第一線のオーケストラを指揮していけたらいいなと思っています

 本格的な音楽活動を始めて20年余り。自分では多少丸くなったつもりでいますが、周囲からは「全然変わっていない」と言われます。まだまだ自分も尖(とが)っていていいのかなと思います。オーケストラに限らず、合唱、吹奏楽、オペラなどを自由に行き来し、新しい領域に踏み出す勇気を持ち続けたいです。その勇気は多くの皆さんからいただいています。

 音楽界も放っておくと固まってしまいます。自分のオリジナリティーを追求しながら、音楽界全体をもっとかき回して、流動化させていきたいですね。

 

 

 

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