死者の季節
若 松 英 輔
わかまつ・えいすけ 批評家・随筆家。 1968年生まれ。慶大仏文卒。「悲しみの秘義」「小林秀雄美しい花」「見えない涙」など著書多数。
夏は死者の季節だ。死者たちの存在を強く感じる季節だという方がよいのかもしれない。
盆には彼岸からの死者の訪れがあり、家族総出でそれを迎えろ、という伝統があるからだけではない。1945年、広島と長崎への原爆の投下によって、無数の人が亡くなり、先の大戦が終わりを迎えたからでもある。
死者は生者を守護する。それが先祖という存在の根底にある、と民俗学者の柳田國男が「先祖の話」で書いている。ここでの死者は単に亡くなった人を指すのではない。姿は見えず、その声も聞こえることはないのだが、確かに存在すると感じられる、いわば「生きている死者」だ。
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だが、すべての人が死者は存在する、という世界観を持っているわけではない。これまで、死者をめぐる文章をいくつか書いてきたこともあって、逆に死者はいない、と語る人々にも会ってきた。
世界観は、人の数だけあってよい。ただ、死者を否む人々の多くが、それをあまりに強弁する傾向にあるのは気になった。
人間の存在は、肉体的な死とともに消滅する。死ののちは無になる。そう語る人もいる。死者を否定はしないが、けっして肯定もしない。
だが、こうして死者の存在を否む人々も、大切な人の葬儀には、真摯な姿で連なっているのではあるまいか。平和を祈念するさまざまな追悼式や慰霊祭に参加することはあるのではないか。
さらにいえば、ふとしたときに亡き者に向かって呼びかけたり、困難にあるとき亡き者に祈ったりする人もいるかもしれない。語ることにおいて死者を否定しても、行動はそれを認めているのである。
いっぽう、死者を信じている、死者は敬わねばならないという人たちが、いつも死者への誠実を尽くしているとも限らない。
矛盾しているといえばいえる。しかし、それが人間なのではあるまいか。人は誰も理念のままには生きていない。生きられない。
ただ、生者は誰も死を知らない。死者が存在するかを誰も確証できない。生者にとって死者は終わりなき謎であるともいえるだろう。死者とともにある生活を語る誠実な言葉は、文化や国境を超えて、いくつも残っている。
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優れた英文学者であり、童話「ナルニア国ものがたり」の著者C・S・ルイスもその一人だ。彼は晩婚で、58歳になる年に結婚し、4年後に伴侶が逝き、その3年後に64歳で亡くなっている。妻を哀悼するために書かれた[悲しみをみつめて]と題する本は次の一節から始まろ。
「だれひとり、悲しみがこんなにも怖れに似たものだとは語ってくれなかった。わたしは怖れているわけではない。だが、その感じは怖れに似ている。あの同じ肺腑のおののき、あの同じやすらぎのなさ、あのあくび。わたしはそれをかみころしつづける」(西村徹訳、以下同)
愛する者の喪失は、怖れと戦慄、そして虚無の混合液のなかのような時空に引きずり込む。こう感じるのはルイスだけではないだろう。少なくとも私はそうだった。
こうした深い悲しみにあるとき、私たちは死者を近くに認識できないことがある。同じ本の中でルイスはこうも書いている。
「熱つぽい悲しみというものは、わたしたちを死者と結びあわせないで断ちきるからだ。これはますますはっきりしてくる。悲しみを覚えることのもっとも少ないときにこそ、――朝の入浴のときなどたいていそうだが――Hはまったく生き生きと、すなわち、われならぬ他者として、わたしの心におしよせる」
「H」とは彼の妻ヘレンのことだ。苦しみのなかにあって愛する亡き者の名前を叫ぶとき、私たちは自分の声で、亡き者の無音の声をかき消してしまっている。死者の訪れを感じるのは、涙が涸れ、慟哭するのを止めたときである、というのである。
死者はいない、そう私の前で語つた人たちのなかにも、人知れず号泣していた者がいたに違いない。死者はいない、いるなら、必ず自分に分かるかたちで存在するはずだ、彼らはそう語りたかったのではないだろうか。