言葉という生きもの


宮下奈都

 

 学生時代、歴史を学んでいた友人が、古い書物を復元するときに文字が読めなくなっているものがある、という話をしてくれたことがある。そこにあったはずの文字が消えてしまっていとおかし、みたいなことをいう。読めないところになんという文字が入っていたのか、こういう意味か、また別の文字だったとすればこういう意味か、などと思いをめぐらせたり、議論したりすることがいとおかしなのだ、と。

 消えた文字、消えた言葉。なるほどなあ、それはロマンだなあ、と思う。

 ただ、当時、哲学科だった私は、自分の求めるロマンとは違うと思った。言葉が消えているよりも、存在しているほうが、謎がある。そして真実もある。文字は欠けず、文章も通っていて、その上で深さや奥行きがあることに、哲学を学ぶ価値があると思った。

 そういう意味では、小説も同じだと思っている。言葉を適当に書くことはないし、わざと曖昧な部分を残しておくこともしない。余韻や余白はそのようなところからは生まれない。慎重に選ばれた言葉によって生まれるもの。それを読者が受け取って初めて小説が小説になる。そこからようやくロマンもいとおかしも始まるのだ。

 実際には、正確に書くのも読むのもとてもむずかしい。どんなに手を尽くしても足りない。作者の意図とは別の、思ってもみないものが汲(く)み取られてしまう。言葉というものがとても個人的なものだからだろう。それでも、精度の高いものから生まれるロマンのほうが大きいと私は思う。

 

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 最近、橋本左内の漢詩と手紙を読む機会があった。左内は、今から160年前、安政の大獄で26歳の若さで処刑された福井藩士である。160年というのは、長いようで短い。ちょうど大政奉還の100年後に私は生まれた。この100年という長さがつかみきれない。自分の生まれるたった100年前が幕末で、安政の大獄があり、大政奉還があったということに、いつもいちいち驚いてしまう。

 この漢詩と手紙は、きちんと読める文字で書かれて残っている。もちろん、言葉の意味もわかる。しみじみと心を打たれる詩も多い。たいそう優秀で、志が高く、将来を嘱望されていたという青年の希望と絶望、強さとやさしさ、迷い、そして何よりも日々のみずみずしい心の動きが伝わってくる。ただ、ときどき立ち止まってしまう。この詩の、この手紙の、この言葉を、どういう気持ちで書いたのか。そこに込められたものがわかるものもあれば、わからないものもある。なぜ、こう書いたのか。どうして、この言葉を使ったのか。

 私はあまりにも浅学で、たとえばこのときの福井藩にどれくらい力があったのか、上司にあたる松平春嶽(しゅんがく)はどんな地位にいたのか、家長制はどうなっていたのか、ひとつひとつ調べていくしかない。

 左内はどんなものを食べていたのだろう、雪の多い福井の冬が好きだったのなら気候の違う江戸での幽閉はつらかっただろう、などと日常のことまで想像する。それでも、うまくはいかない。言葉が変わったのではなく、時代が、社会が、そこに宿る精神性が変化している。この青年の心に触れようとして、もう少しのところで突き放されてしまう。

 

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 先頃、日本政府が輸出優遇対象国から韓国を除外したことに対する文大統領の発言が話題になった。ニュースの見出しにもなった「盗人猛々(たけだけ)しい」という言葉は、強烈な印象を与える。そもそも慣用句ではないか。まったく同じ意味の言葉が韓国にもあるのだろうか。そこから疑問だった。

 文大統領がわざわざこの言葉を選んで使ったのだとしたら、よほどのことだ。そう思って全文を読んだ。といっても私は韓国語の初歩の初歩しかわからないから、何種類か出ていた翻訳を読み、気になる単語は辞書を引いた。そうするうちに、言葉としてはわかるはずなのに突き放されるという、左内の手紙で行き当たったのと似た感覚を味わうことになった。

 件(くだん)の言葉にはたしかに「賊」という文字が含まれているけれど、文字自体には意味がなく、単語としては「居直る」「開き直る」という意味あいのようだ。文大統領がどんな意図で選んだ言葉なのか、わからない。まるで日本を「盗人」と呼んだかのような誤解を招きかねない訳にした新聞やテレビの意図も、わからない。わからないところにロマンがあるとは、私にはとても思えなかった。

 

 

みやした・なつ 作家。1967年福井県生まれ。著書に「羊と鋼の森」(本屋大賞)、「よろこびの歌」「つぼみ」など。エッセー集も多数。

 

 

 

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