終戦の日、熱海の「もうひとつの靖国」を訪ねた
「戦争責任」と「追悼」にまつわる、ふたつの場所
石川智也 朝日新聞記者
令和最初の「8・15」
令和最初の「8・15」。全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞には7年連続で近隣諸国への加害への言及や「反省」の文字がなかった。
一方、新天皇は平成時代の表現を受け継ぎ「深い反省」を表明した。
もっとも、その「おことば」の全文を子細に読んでみると、この「反省」は、誰のどのような行為と結果に対してのものなのか、主語も目的語も判然としない。
ちょうど74年前の正午、ラジオから流れた昭和天皇による肉声が「敗北」ではなく「時局ヲ収拾」と述べ、「戦争を始めた天皇」がいつの間にか「戦争を終わらせた天皇」に換わってしまったのと似たレトリックがある。
「8・15」は国を挙げての鎮魂の日であり、さきの大戦について思いを馳せる日とされている。しかし、過去を冷静に見つめ責任の所在を自ら追及しようという意思は、なぜかいつも、飛び交う「加害」「被害」「自虐」「誇り」「平和」といった大声とともに、真夏の空気のなかに蒸発していってしまう。
終戦の日。「戦争責任」と「追悼」にまつわる、ふたつの場所を訪ねた。
例年通りの靖国
靖国神社は朝から、毎年恒例の光景が繰り広げられていた。
地下鉄九段下駅の最寄り出口から地上に上がると、すでに複数の拡声機からの声が交錯していた。
こざっぱりとした大学生らしき若者は「従軍慰安婦、徴用工、南京大虐殺はどれも虚偽だという証拠がそろっている。それなのに日本が悪事を行ったといまだに信じている人が多い。日本はアジアを白人支配から解放した。素晴らしい日本人に生まれたことを感謝しましょう」と道行く人々に訴えている。隣に掲げた横断幕には「伝えよう!祖国の誇り 広げよう!国を愛する気持ち」との毛筆の文字が躍る。
歩道の両脇には、参拝者たちにパンフレットや冊子を渡そうという人たちが列をなしていた。「世界から尊敬された武士道」「ロシアによる20世紀最大の悪行 シベリア強制抑留」「日本国憲法は無効」「読まない!買わない!朝日新聞」……参道の入り口までのわずか60メートルを歩いただけで、抱えきれないほどの量が集まった。
黒スーツに黒ネクタイで汗だくになった高齢者、ポロシャツと短パン姿の若者、軍服や特攻服を着込んで旭日旗をはためかせた男たちの集団が、入り交じりながら次々と拝殿に向かうのも、例年の光景だ。
大村益次郎像の脇では午前10時半から、英霊にこたえる会と日本会議が主催する「戦歿者追悼中央国民集会」が催された。今年で33回目。登壇者たちが「戦勝国が我が国を一方的に断罪した、誤った『東京裁判史観』に多くの日本人がとらわれている」状況を憂え、「憲法改正で真の独立を」及び「40年以上途絶えている天皇陛下の靖国ご親拝を」のふたつを訴え、全体声明に盛り込む。
これも例年どおりだ。
ご存じのとおり、靖国神社が大きな政治・外交問題になったのは1978年のA級戦犯合祀以降だ。
アジア諸国の反発の是非は措き、戦勝国にとっては、講和条約で東京裁判を受け入れて国際社会に復帰した日本の首相や閣僚たちが、かつての戦争指導者たちを祀った施設に赴き頭を下げることは、戦後秩序への挑戦と映る。富田朝彦・元宮内庁長官のメモによると、昭和天皇が1975年を最後に靖国参拝をやめた理由は、A級戦犯の合祀に強い不快感を抱いたからとされている。
ニュルンベルクと東京の二都市で戦後開かれた国際軍事裁判については、訴因の立証や政治的介入、事後法の「平和に対する罪」適用などをめぐって様々な批判があるが、全否定でも全肯定でもなく、その国際法的な意義と課題が学術的に検証されている。
国際法を公然と無視して開戦した国が勝利した場合、こうした国際裁判はあり得ないし、敗けて裁かれた場合、法廷が戦勝国と中立国によって構成されるのは必然だ。米国の無差別爆撃と原爆投下が国際法違反として裁かれないのは不公正だ、という指摘はその通りだが、それを主張できるのは、国際法の規範的権威とその遵守を受け入れればこそだろう。
〈A級戦犯〉 1946年5月に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)では、侵略戦争を起こす共同謀議を行ったとして28人の被告が「平和に対する罪」などに問われ、病死2人と病気による免訴1人を除く25人全員が有罪となった。死刑判決を受けたのは東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎、武藤章、広田弘毅の7人。皇太子(現上皇)誕生日の1948年12月23日、巣鴨プリズンで絞首刑が執行された。
とはいえ、参拝者に話を聞いてみると、「国のために戦った祖父に感謝を伝えにきた」「二度と戦争を繰り返したくないという思いで参拝した」といった声が大半だ。百田尚樹の『永遠の0』を読み「あの時代の若者のことを忘れてはいけないと思った」という高校生もいた。
一方で、東京裁判など勝者の一方的裁きだ、日本は中国に侵略などしていない、と強く反発する人にも少なからず遭遇する。終戦の日特有の磁力なのか、この日も、大学生2人に「従軍慰安婦を国が取り仕切るなんてあるわけない。罪悪感を持たせ続けるためのアメリカと韓国の陰謀だ」とまくし立てられた。「慰安所の管理に軍が関与したことは日本政府も認めている」と指摘しても、「そんな証拠はない」ととりつく島がない。
名状し難い疲れを感じて、九段をあとにした。
熱海にある「もうひとつの靖国」へ
次に向かったのは、静岡県熱海市にある寺院「礼拝山興亜観音」。毎年8月15日午後、ここでも戦没者慰霊の法要が営まれている。
市中心部から東へ約5キロ、左手に切り立った山が迫る相模湾沿いの国道で下車する。蝉時雨を浴びながらつづら折りの険しい山道を15分ほど登ると、中腹に高さ約3メートルの赤茶けた露仏像が立っている。
寄進したのは、1937年の南京攻略の責任者で、後にそれが原因でA級戦犯として処刑されることになる松井石根だ。
松井は結核が悪化し後方で指揮を執っていたため南京に入城したのは陥落後だったが、責任者としての贖罪意識から、3年後の1940年、日中双方の戦死者を弔うためにこの観音像を建立した。血に染まった戦場の土を混ぜて作ったという像は、だから、眼下の太平洋とその先の中国大陸を向いている。
その横に、〈七士之碑〉と彫られた高さ1メートルほどの石碑が立つ。裏手にまわると、広田弘毅を筆頭に東条英機や松井ら7人のA級戦犯の名が刻まれている。
「ここに七方のご遺灰が眠ることは、長いあいだ秘されていました」
伊丹妙浄住職(66)が静かな声で語った。1948年の処刑後に米軍が持ち去りどこにも存在しないはずの7人の遺灰が、ここに眠っている。その事実を知る人たちにとって、ここは靖国神社同様、特別な場所である。
「もうひとつの靖国」。そう呼ぶ人もいる。
7人の刑は1948年12月23日、分針が午前0時をまわるのを待ち厳重に執行された。
巣鴨プリズンから運び出された遺体は、横浜市の久保山火葬場で米軍の警戒のなか荼毘に付される。7人が殉国者になるのを恐れた米軍は、すぐに遺灰を掃き集めひとかたまりにして運び出した。東京湾に撒いたとされるが、正確なところはわかっていない。
だが、東京裁判で終身刑となった小磯国昭の弁護人を務めた三文字正平弁護士は、ひそかに遺灰の回収を狙っていた。三文字は、火葬場長と、近くの寺の住職との3人で26日夜半、闇に紛れて骨捨て場に忍び込み、米軍がコンクリート穴に捨てた骨灰の残りをかき集めた。
翌年遺灰を預かったのが、興亜観音をまもっていた伊丹住職の父だった。家族にも打ち明けず10年間存在を隠し続け、ほとぼりが冷めたと判断した1959年、石碑を建てて除幕式を行った。
占領軍の危惧に反して、7人は軍国主義の象徴として忌避されこそすれ、殉教者としてあがめる風潮は生まれなかった。石碑は1971年、新左翼の過激派「東アジア反日武装戦線」に爆破され砕け散った。戦後ながらく人目を忍ぶような存在だったこの場所には、7人の遺族や関係者以外では、訪れる人もまれだった。メディアに取り上げられたこともほとんどない。
この日の法要も、参列者はわずか7人。靖国の喧騒とはあまりに対照的だった。
「静かな環境」だったが…
処刑された元陸軍大将、板垣征四郎の次男で、日本遺族会事務局長や自民党参院議員を歴任した板垣正に10年前インタビューしたことがあるが、興亜観音への思いは次のようなものだった。
「敵味方なく祀っているとはいっても、中国の人にはきっと通じない。いまの平均的な日本人に受け入れられる施設でもないだろう。だれもが自然に足を向ける時代になればよいが、靖国神社のように不毛な政治問題化するぐらいなら、いまのまま、静かな環境で弔いができる状況で残り続けたほうがいい」
しかし、時間が凍結されたような空間だったこの場所にも、ここ10年ほど、かつてとは違う人影がぽつりぽつりとあらわれるようになっている。
旧軍人が中心だった奉賛会は途絶えて久しかったが、戦後世代によって2008年に復活。現在250人ほどいる会員の2割は20代、30代だという。
私は終戦記念日や7人の命日などに度々ここを訪れてきたが、確かに近ごろ若者の姿をよく見かける。話を聞いてみると、ブログやSNSで存在を知ったという人がほとんどだ。
戦後60年の2005年前後に保守系メディアで盛んに取り上げられたパル判事への関心からたどり着いた、という人もいる。興亜観音は堂内にパルの写真を掲げ、顕彰している。
「中国で年配の人に『南京大虐殺』と言っても、だれも知らない。共産党が捏造したウソだからだ」「大東亜戦争は、アジアとアフリカを白人支配から解放するきっかけになった」「東京裁判史観から脱し、犯罪者扱いされる7人の名誉を回復しなければ」「敵の戦死者までまつる心は日本にしかない。世界に誇るべきだ」
この日の参拝者も、問わず語りで持論を口々に述べた。「なんで朝日の人間がこんな所に」と驚かれるのは、毎度のことだ。
松井石根は処刑前、「恨みを抱くな」「怨親平等」との言葉を遺したというが、この寺院の存立基盤が「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」「7人は罪人ではない」という「遊就館史観」と同じ信念にあることは否定しようもない。
7、8年前には奉賛会や護持団体の内部対立が激化し、別の宗教団体が運営に関与しようとしたこともあったという。
板垣正が求めた「静かな環境」は、遠くなりつつあるのかもしれない。
現在の奉賛会長を務める本多正昭(59)に話を聞いた。東条英機の妹のひ孫にあたる。
「若い人の関心が高まって参拝するようになったことは、たいへん有り難いことだと思います。ネットで見たとか、小林よしのりの漫画を一冊読んだだけとか、そういう安直な人が多いですけどね(笑)。それでも、多くの人に参拝してもらいたい。7人の遺族や一族は、戦後ずっと苦節を味わってきたわけですから」
東条との関係を知らされたのは小学5年生の時という。母親から「日本が戦争を始めることを決めた人間。恨んでいる人も多い。絶対に口外しない方がいい」と言われた。高校時代、信用できる友人に打ち明けたことがあるが、自宅に遊びに行くと、家族に露骨に嫌な顔をされた。
そのころから、戦争関係の本を読みあさったという。本多勝一の「中国の旅」も熱心に読んだ。インパール作戦の生存者や満州からの引き揚げ者の話も聞いた。「日本軍が無謀な作戦で兵を死なせたり民間人を見捨てたりしたのは事実。南京のことも、すべてウソだったと主張するのは無理があると思いますよ」
ただ、東京裁判が誤った裁きだという考えは、より深まっていったという。「戦時国際法違反をきちんと裁くというなら、東京大空襲や広島・長崎の原爆投下もすべて裁かなければならないはずです。東京裁判は勝者による一方的な裁きとしか言いようがない。そういう意味では、A級戦犯とされた7人は無実だと考えています。なにより、7人だけが悪者とされた図式がおかしい。だって、日本人はただの戦争被害者だったわけでもないでしょう」
再び靖国へ
熱海を発ち、夕刻、ふたたび靖国神社に向かった。
遊就館前にある石碑を何人かがのぞき込んでいた。ここにもパルの顕彰碑がある。碑文には「大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の国際法学界に於ける定説と認められたのです」とある。建てられたのは2005年だ。
東京裁判でインド代表判事を務めたパルについては、相矛盾するイメージがある。
「個人責任は認められない」「日本の侵略行為が共同謀議と立証されていない」などとして被告全員の無罪を主張したパルの個別意見書は主に、事後法による裁きを戒め、「侵略」が定義困難であることと、人道に関する罪については実行者と上官がすでに裁判を受けているため被告の罪はないことを、指摘したものだ。
南京での残虐行為については「日本軍が占領したある地域の一般民衆、戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」と認めている。パルは当時国際法の専門家ではなく、国家の戦争権や個人の罪についてのその国際法理解には、いまでは冷静な評価がなされている。
だが、つまみ食い的な「日本無罪論」が一人歩きし続けた。保守派は、東京裁判の虚妄を暴き日本に同情を示したと解して恩義を感じ、左派は、パルへの肯定評価は大東亜戦争の美化につながると反発。論争は噛みみ合っていない。パル自身が来日時に戦犯について「みんな罪人ではない」あるいは「日本は自らの主権のもとに戦犯を裁判したらよいと思う」と述べるなど、様々な解釈を許す言動をとったことも要因かもしれない。
ドイツでのニュルンベルク裁判のころ、哲学者ヤスパースは、戦争の罪を「刑事上の罪(国際法違反)」「政治上の罪(国民としての政治的責任)」「道徳上の罪」「形而上の罪」の四つに腑分けし、この順で問うていく必要性を説いた。
日本での戦争責任論が常にあいまいで不毛なすれ違いの論争が続くのは、この最初の段階の責任が十分に問われず、なかなか先に進めないからだろう。国際法を単に道徳と捉えその規範性を認めない態度は、右派だけのものでもない。東京裁判をめぐってはなぜか、頭に血がのぼった全否定か諦念のような丸呑みのいずれかが、基本的反応になっている。
境内から出ると、昭和館前の交差点付近で、反天皇制を叫ぶデモ隊と日の丸を掲げた集団が、警官隊の緊張を横目に激しくののしり合っていた。頭を冷やせとばかりに突然の豪雨が襲い、1時間ほどでやんだ。
夕暮れの西空に目をやると靖国の森の深緑が見えた。そのはるか先には興亜観音がある。セピア色の「昭和」はどこにもない。塗り込められているのは、紛れもなく原色の「令和」の風景なのだった。