崩れ始めたキッシンジャーの東アジア秩序

 


ギデオン・ラックマン FT FT commentators

 誰でも歳をとって人生の終わりに近づくと、熱が出たり、あちこちがうずいたり痛んだり、思わぬ転倒をしたり、と一見互いに無関係に思える病気やけがを数多く抱えるようになるものだ。


 一つの戦略的な秩序が終わりかけているときも同じかもしれない。東アジアの各地ではこの1カ月、外交上、安全保障上の出来事が次々と発生した。しかし、これらの出来事は、より大きな一つの病気の諸症状にすぎない。


■日韓、台湾、南シナ海、香港問題は無関係でない

 中国とロシア両国の空軍は7月23日、この地域で初の共同巡回飛行を行った。その結果、韓国の戦闘機が「領空」を侵犯したとして、ロシア機に対し360発の警告射撃をする事態となった。

 韓国は、この数10年で最悪の日韓関係にも直面している。第2次世界大戦中の出来事に由来する問題で両国が対立する中、日本政府は8月2日に韓国への輸出管理の厳格化を決めた。

 また北朝鮮は最近、ミサイルの発射実験を再開し、米国主導の和平努力を危うくしている。

 台湾、南シナ海、香港、米中貿易戦争など、東アジアが抱えるその他の火種もみな、発火の危険度を高めているように見える。香港の政府への抗議デモやゼネストはまだ勢いを増している。中国政府高官の中には香港に対する軍事介入もあり得ると公然と話題にする者が出てきている一方で、7月末にはある米政府高官が、中国が香港と本土の境界付近に部隊を集結させていると指摘した。

 もっとも、トランプ政権にとっての最大の関心事は、やはり中国との貿易摩擦だ。米国は8月1日、新たな対中関税「第4弾」を9月に発動すると発表し、両国の対立は激化している。

 7月には中国の油田探査船が、ベトナムが領有権を主張する海域に入り、両国の武装艦船がにらみ合うという事態に発展した。フィリピン政府も同国が領有権を主張する海域への中国海軍による侵入に警告を発し、米国に支援を求めた。中国政府が東南アジア初の中国軍事基地をカンボジアで建設中だとする報道も、中国がますます強引な姿勢を強めていることを裏付けた。 

 台湾を巡る緊張も高まり続けている。7月24〜25日に米軍艦隊が台湾海峡を通過した。中国は同じ24日に4年ぶりの国防白書を発表し、台湾当局が独立を目指していることを非難し、そのような動きには武力の使用も辞さないとした。一方、米国は近く東アジアに中距離ミサイルを配備すると表明した。それに先立つ8月2日、米国は米ロの中距離核戦力(INF)廃棄条約を失効させている。


■「キッシンジャー秩序」による繁栄だった

 こうした多くの出来事は、表面的には無関係に見える。しかし、全体としてこれらが指し示しているのは、地域の安全保障秩序が崩れつつあるということだ。これまで当然のこととされてきた米国の軍事的優位性や外交の予測可能性は、もはや前提にはできない。中国は、東アジアの安全保障体制の中でもう米国の後じんを拝するような役割を受け入れるつもりはない。こうした新たな環境の中で、ロシア、日本、北朝鮮などほかの国々もアジアの安全保障に関する従来のルールをどこまで逸脱できるのかを試している。

 東アジア諸国は過去40年間、これまでにない成長と繁栄の時代を享受してきた。その繁栄は世界経済の姿をも変えてきた。だが、アジアが奇跡的な経済成長を果たせたのは、この地域が平和で安定していたおかげだ。そうした条件は、1970年代半ばにベトナム戦争が終結し、米国と中国の関係が改善したことで築かれてきた。

 以来、米国は中国の台頭を許すだけでなく、その後押しさえしてきた。中国はその見返りとして、アジア太平洋地域で米国が圧倒的な軍事パワーとして存在感を維持し続けることを暗黙のうちに受け入れてきた。この体制は、東アジアの「キッシンジャー秩序」と呼べるだろう。70年代前半に新たな米中関係の構築に尽力したのは当時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャー氏だったからだ。

 しかし、中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席も、米国のトランプ大統領も、キッシンジャー秩序の基本的要素を拒絶した。トランプ氏は貿易戦争を仕掛けたことで、米中は互恵的関係にあるという考え方を破棄した。習氏は、米国が戦略的に築いてきた覇権的地位に挑戦し始めた。

 中国が米国の覇権に挑戦状を突き付けた結果、アジアで米国がどれほど覇権を維持できるのかが問われるようになった。トランプ氏はこの問題について安心材料を与えるどころか、米国の日本や韓国との同盟関係にどれほどの価値があるのかという疑問を公的な場で呈することで、覇権国としての米国の今後に対する不安を高めている。アジアのある国の外相は最近、「トランプ氏がもたらした打撃は、彼が大統領を退任した後も残るだろう」と筆者に語った。

 東アジアで米国の権威が失われつつあることは、米国にとってこの地域の最重要同盟国である日韓の反目を米政府が制御できずにいることにはっきりと表れている。オーストラリアでさえ米国の指導力に疑いの目を向け始めた。オーストラリアのあるベテランの外交官は最近筆者に、米中貿易戦争がさらに激化すれば「米豪が対中政策で袂(たもと)を分かつ時が来る」と語った。


■再浮上した諸問題の行方は予測不能

 ただ、東アジア諸国が米国の指導力に疑問を呈し始めたからといって、中国がこの地域の覇権国となることを望んでいるわけではない。それどころか、日本政府から台湾当局、オーストラリア、ベトナムの政府も、中国政府の動きに対する不安は高まるばかりだ。中国とロシアが関係を強化していることが、この懸念を一層高めている。

 ロシア政府にすれば、最近の中国との共同巡回飛行は、ロシアが太平洋地域の大国として復活したことを強調する行為だった。ロシアがシリアに軍事介入することで中東で再び存在感を高めたのと同じだ。

 東アジアのキッシンジャー秩序は、もともとこの地域の歴史的紛争や対立の大半を解決したわけではなかった。それはただ、地域的な対立をそのまま凍結し、和平実現に向けて時間を稼ぐためのものだった。

 しかし、今、地政学的状況が変わり、これまで凍結されてきた様々な対立が再び表面化してきた。氷が解けるにつれ、事態は急激にかつ、危険で予測不能な方向へと展開していくかもれない。

 

 

 

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