私のリーダー論

 

現場の輝くスター育成 伝える加賀屋の「おもてなし」


加賀屋 小田與之彦社長

加賀屋の小田與之彦社長

石川県・和倉温泉の老舗旅館「加賀屋」(七尾市)は日本の「おもてなし」の代名詞のような存在として知られる。1906年の創業当時はわずか12部屋だったが、今では旅館5軒、グループ従業員1000人と首都圏の大手ホテル並の規模に成長した。日ごろほとんど顔を合わせる機会もない社員たちに加賀屋のおもてなしをどう伝え、リーダーの育成を促すのか。5代目社長の小田與之彦氏(50)は、副社長時代に務めた日本青年会議所(JC)会頭としての経験がリーダーとしての「大きな財産」になっていると話す

 

――旅館としては日本有数の規模です。

 「旅館5軒のほかに、レストラン8軒を経営しています。同じ七尾市出身のパティシエ、辻口博啓さんとコラボレーションしたお菓子の店もあります。2010年には台湾に進出しました」

――老舗旅館の後継ぎとして、リーダーとなることの意味を考え始めたのはいつごろからですか。

 「祖父も父も加賀屋の社長で、私は長男ですので、物心ついたころから後を継ぐのが当然だと思って育ちました。でも、リーダーとして求められる資質とか言動とかを本気で考えた最初の経験は、08年にJCの会頭を務めた1年間だと思います。JCは40歳までの年齢制限を設けた若手リーダーの団体です。38歳で副会頭、翌年に専務理事を務めたあと、立候補して会頭になりました」

 

■全国4万人のトップに

 「当時、私は加賀屋の副社長でしたが、まだリーダーだと胸を張れるような仕事はしておらず、『コピーしかとってないから複写長だ』とからかわれるような時期でした。一方、JCは全国に会員が4万人いる大組織です。任期の1年間、日本中の若い経営者たちが『今度の会頭はどんな人か』『どんな方針を打ち出すのか』と私の言動に注目し続けるわけです。会ったことがない会員たちの視線を感じたとき、これはウソがつけないなと感じました」

 「08年に取り組んだ活動の一つが『憲法タウンミーティング』でした。前年に憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立したことが背景にありました。当時は憲法改正への関心が高まっていたにもかかわらず、護憲派と改憲派はバラバラに主張するばかりで、議論を交わす場がほとんどありませんでした。双方の意見を同時に聞ける場を設け、市民レベルで憲法について考える機会としよう――。そんな考えで取り組みました」

 「しかし、翌09年の民主党への政権交代を控えた時期で、政権が不安定だったこともあり、国会議員のドタキャンが相次ぐなど、憲法タウンミーティングの運営は決して楽ではありませんでした。批判を受けたこともありました」

 「全国で苦労しているJCの仲間がいる中で、会頭である私の言動に不一致があったり、人として共感できない行動があったりすれば、4万人の会員は迷ってしまい、私について来てくれるはずもありません。JC会頭の1年間で『リーダーたるもの、自分の人間性をしっかりもたなければならない』と感じ、修練したなと思います」

 「この経験は、大きくなった加賀屋をまとめる上で非常に大きな財産になっています。現在、加賀屋の従業員はパートなどを含めて約1000人です。東京などにも店を出しており、すべての社員と顔を合わせるのは難しいのですが、私が気をつけているのは、JC会頭時代と同じく、直接会えない社員たちも私の言動を見ていて、私が示すビジョンに注目していることを決して忘れないようにすることです」

 

■「働いてよかった」と思ってもらえる会社に

 「やはり社員たちには『加賀屋で働いてよかった』と思ってもらえる会社でなければならない。金銭的な意味だけでなく、お客様に喜んでいただくことを、従業員が自分の喜びとして感じられる会社でいられるようにすることが私の責務だと思っています」

――加賀屋は上質なおもてなしが有名です。大所帯でサービスの質を維持し続けるのは難しいのではありませんか。

 「加賀屋を拡大路線に乗せた父は、全ての責任は自分がとる、という強い使命感を持ち、特に年齢を重ねてからはその思いがより強くなりました。私は父とはちょっとタイプが違うと思っています。加えて、現在のように業態が拡大すると、全てをトップが指示して動かす手法は通用しません。またそれが本物のリーダーシップだとは、私には思えないのです」

 「私は特に秀でたところもない凡人ですが、加賀屋グループにはそれぞれの現場にとびっきりのプロフェッショナルがいます。料理のレベルは高いですし、客室係には年齢や経験に関係なくすばらしい接客をするプロがいます。現場で私が何か指示をしようにも、私よりよっぽど優れた人がいるわけです。では、トップに立つ私は何の一番になるべきか。それはこの会社を良い会社にしたいという強い思いしかありません」

 「そのうえで、各現場で輝くスターを育てて、現場が自主的に動いていく組織にするのが使命だと考え、『暗黙知』を『形式知』とする努力を常に続けています。加賀屋のおもてなしのモットーは『笑顔で気働き』。これまでは社員がなんとなく感性を磨いていったようなところがありましたが、人数も増え時代も変わりましたので、『なんとなく』ではうまくいきません」

 

■一人ひとりが目標を立て、実践できたかをチェック

 「そこで、私が社長になってから導入した手法が2つあります。1つはKPI(キー・パフォーマンス・インデックス)です。『あいさつは立ち止まってする』といった部署ごとの大目標や社員一人ひとりの目標を立て、実践できたかを毎日チェックし数値化します」

 「もう一つが『メイ・アイ・ヘルプ・ユー・リポート』です。お客様と接するなかで、小さなことでも喜んでいただけたことを職場ごとに記録してシェアします。例えば、加賀料理『鯛(たい)のかぶと煮』で、こんなエピソードがあります。鯛の頭には鯛の形をした骨があり私たちは『鯛の鯛』と呼んでいます。この骨を取り出して洗ってから財布に入れると金運が上がるという言い伝えがあります。あるとき、お客様が挑戦されたのですが、一人だけ鯛の鯛が見つけられなかった。それを聞いた客室係が、お膳を下げた後で鯛の鯛を取りだして、お客様にお渡ししたところ大変喜んでいただけたそうです」

 「旅行の途中にけがをされたお客様が、旅程の都合ですぐに次の目的地に移動しなければならないことがありました。客室係は次の目的地のそばの病院を調べてそっとお伝えしました。こういったエピソードを担当した一人だけの経験とするのではなく、全体でシェアする取り組みです。一つ一つは、決して会社経営上の大ホームランではありません。でも小さな引き出しをたくさん持った人を増やしていくことが、加賀屋らしさを育てることにつながると思っています」

――自分が跡継ぎだと気づいたのはいつですか。

 「小さいときからずっとそう思ってきました。子供のころは旅館の建物の中で暮らし、休みなく働く祖父母や両親、現場の社員たちを見ながら育ちました。保育園時代、祖父が2代目社長で父が専務(のちの3代目社長)だったのですが、『将来なにになりたいか』という質問に私が『加賀屋の専務』と答えて、先生が椅子から転げ落ちるように大笑いしたこともありました」

 「でも、私は笑わせたくて言ったわけではなく大まじめにそう思っていたのです。このあたりでは長男が家を継ぐのが当たり前でしたから、継ぎたくないと思ったこともなく、小さいころは『4代目』と呼ばれていました。その後、叔父が4代目社長になったので、私は5代目として2014年に社長に就任しました」

 

■「加賀屋のために動こう」と思ってもらうために

 「周囲から『あいつが小田家の長男でなかったら、社長にはなってほしくない』と思われるようでは駄目だと思っているんです。『ここで一緒に働きたい』『この人が言うことは共感できるから、自分も加賀屋のために必死に動こう』と社員に思ってもらうには、私自身に説得力がなければならない。そのため、自分の言動が矛盾しないようにすることを徹底的に心がけるようにしています。社員の評価では、公正公平で透明性を高めることも不可欠になるでしょう。日々、試行錯誤の連続ですね」

 「私には中学1年の息子が一人いますが、息子も会社を継ぐと思っているようです。『石川県の役に立ちたい』なんて言っていますから。でも、私の子供時代から今日までの数十年と比べて、おそらくこれからの数十年の方が時代の変化はずっと大きいのだろうと思います。初めから家を継ぐことだけを考えるのではなく、可能性は広く無限に考えたほうがいいのではないかと思っています。ですから、経営やリーダーシップついて、息子に話したりはしていません。それよりも、まずは人に信頼されて、人の役に立てるような人間になれと言っています」

――大学を卒業した後、加賀屋には戻らず商社に就職し、さらに米国留学までしたのはなぜですか。

 「中学生のころから海外に行きたいと漠然と思っていました。加賀屋の後継者となることに疑いも抱かずに育ちましたが、一方で『加賀屋に戻ったら、旅行以外で海外に出ることもなくなる』と思っていました。今のように訪日外国人の方たちにおいでいただくなんて、まるで想像もできない時代でしたから。実は大学を卒業して丸紅に就職したのも、海外と縁のある仕事がしたかったからです。4年半、丸紅で働いた後、ホテル経営のビジネススクールで世界最高峰といわれる米コーネル大学ホテル経営大学院に留学しました」

 「コーネル大での学びはやはり面白かった。特に強く感じたのは、米国は表に見えない裏側の仕組みを徹底的にシステム化することにたけているということ。加賀屋は今から30年以上前に各フロアへ料理を自動搬送するシステムを導入するなど、旅館のなかではかなり先進的な取り組みをしてきたのですが、コーネル大で学んだシステム化はもっと徹底していました。『誰にでもできるようにする』という概念が徹底しているんですよね」

 「実はこの『誰にでもできるようにする』というのが、大きくなった加賀屋がこれからもおもてなしの加賀屋であり続けるために必要なことなのです。私が導入したKPI(キー・パフォーマンス・インデックス)や、『メイ・アイ・ヘルプ・ユー・リポート』がその例ですが、加賀屋が得意とするおもてなしを、全て従業員ができるようにするためのシステム作りをするという発想は、コーネル大で学んだように思います」

――コーネル大へ進む前にハワイのシェラトン・ワイキキで、ホテル勤務も経験しました。

 「ハワイではJTBの現地添乗員の方たちの働きぶりから学ぶところがありました。朝早くにハワイに到着するお客様のために、チェックイン前でも1時間でも早くホテルの部屋で休めるよう、添乗員の方たちはホテルに粘り強く交渉なさるのです。当時は正直『なぜここまで言うんだろう』と思っていましたが、自分が加賀屋に戻ってお客様に接するようになってようやく、お客様のためにとことんコミットする姿勢なのだと理解しました。石川県人はどこか遠慮がちな部分があるのですが、私たちもハワイの添乗員の方のように、お客様のためにしっかりコミットしなければならない。そんな姿勢を私が率先してみせることも、リーダーの役目だと思っています」

 

■尊敬するのは王貞治さん

――リーダーとして尊敬する人はいますか。

 「なんといっても王貞治さんです。まだ私が小学生のころ、加賀屋にお泊まりいただいたことがきっかけでお付き合いさせていただいています。王さんはお嬢さんが3人なので、私のことを息子みたいだと言ってくださっています」

 「王さんは本当に努力家で、私がパソコンの表計算ソフトの存在をお教えしたときも、すぐに参考書を入手していらした。長くお付き合いさせていただいていますが、並大抵ではない努力が世界の本塁打王を生んだのだなあと思う瞬間が何度もありました」

 「そんな中でも、私が一番感銘を受けているのは、王さんがどんなときも相手によって態度を変えず、常に公平に接してくださるところです。私が日本青年会議所(JC)にいたころですが、山形県のJCの仲間と王さんに対談してもらったことがあります」

 

■試合に負けても気軽にもてなす

 「王さんは当時、福岡ソフトバンクホークスの監督で、地方でのナイター試合の後お食事に行く約束でしたが、試合は延長になりホークスは負けてしまった。さすがに会えないかなと思っていたら、『部屋に遊びにおいで』と。『今日はふがいない試合でごめんね』と言いながら、ホテルの部屋の冷蔵庫から飲み物をどんどん出して、『若い人たちが日本を盛り上げるためにJCで頑張ってくれてありがとう』って若かった私たちをもてなしてくださいました」

 「その年の年末に、王さんを1年間、追跡取材した内容のテレビ番組が放送されました。番組が終わると同時に、対談をさせてもらったJCの仲間が電話してきたのですが、彼、泣いてるんですよ。『小田さん、王さんはすごいよ。テレビで何百万人に見られると思って話している時と、僕らみたいな若造と会っている時と、態度も言葉も何も変わらないじゃないか』って」

――王さんの表裏のない人柄が、まさに目指すリーダー像なのですね。

 「そんな気持ちもあり、今年から、客室係以外の新入社員も全員、加賀屋のしきたりである玄関でのお客様のお出迎えを経験させています。お客様の前だけ取り繕っても、普段の姿がひどければ見えてしまう。お客様だけでなく社員に対しても同じだと思っています。常に公平に、分け隔て無く接すること。お客様に対しても決してうそのない謙虚な姿勢を持ち続けること。王さんのようなリーダーを目指してこれからも加賀屋のモットーである『笑顔で気働き』を社員たちに伝えていきたいと思います」

 

 

 

 

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